7.妖女、対立を聞く
「あら殿下、お目覚めですか?」
バレてないか。抽斗を背に笑みを取り繕う。しかし、颯秀は入ってきながら欠伸をしていたので要らぬ心配だったようだ。
「今日はいつにも増してお疲れですね」
「ああ、昨晩も遅かったから。勝ち過ぎると帰してもらえなくてよくないね」
陽光に輝く金髪には寝癖、悩まし気な顔はただの寝不足。それなのに無駄に綺麗な顔には殺意を抱くところだった。
「おやめになってはいかがですか? 外は寒いでしょうし、夜更かしはお体に障りますよ」
言外に、いやわりと直球で「賭博はやめて寝ろ」と告げる玲明に、桂華は白い目を向けた。
しかし、ぼんくらと名高い颯秀は優しい笑みだけを返す。
「私の体を心配してくれているんだね。優しい妃がいて私は幸せだよ」
イラッ……と玲明の額に青筋が浮かんだ。ぼんくらなのは勝手だが、嫌味が通じないのは腹立たしいものがある。とはいえ、こういうぼんくらなので不敬を許されているわけだが。
「どうしたんだ、玲明。顔色が優れないね」
美しい碧眼は憂いを含み、(契約上の)愛する妃の頬に手を添えてそっと顔を覗き込む。ぼんくらぼんくらと苛立ちながらも、男に免疫のない玲明はそれだけで顔を真っ赤にしながらゾゾゾッと背筋を震わせた。ぼんくら王子のくせに顔だけはやたらめったら良すぎるのだ。
「で、殿下……」
「殿下だなんてよそよそしい。夫になるのだから、颯秀と呼んでくれて構わないと昨日話しただろう?」
「では颯秀様、その、昼間から私の部屋に出入りするというのは、いかがなものでしょう? 他の王子は勉学に励んでおりますのに、こんなことをしているとあらぬ噂が立ってしまうのでは」
「あらぬ噂とは? 第四王子はどこの馬の骨とも知れぬ娘に骨抜きだと?」
颯秀の手は玲明の手をとり、そっと口づける。途端、玲明は「ヒイッ」と悲鳴を上げながら手を引っこ抜いた。
「ちょっと! やめなさいよそうやって女性の肌に断りも躊躇いもなく触れるのは!」
「肌?」
「肌よ! 手の甲はまごうことなき肌!」
ぺちぺちと手の甲を叩いてみせると、きょとんとしていた颯秀はどこかわざとらしく微笑んだ。
「肌とは衣服の下を言うものだよ。そういうことを知らない君も可愛いよ、私の玲明」
「ぶんっ殴るわよこのぼんくら王子……!」
「落ち着いてください、玲明様」
拳を握りしめる玲明の両肩に手を置き、桂華はその怒りを宥めようとする。でもぼんくら王子は「怒る君も可愛いよ」なんて言ってのけるので桂華の努力など焼石に水だ。
「それより、宮での生活には慣れたかな。可愛い君に不自由はさせたくないのに、慎ましやかな君はろくに侍女もつけないのだから」
「可愛い私とか慎ましやかな私とか、形容をつけないと私を呼べない呪いにでもかけられてるの? いいお祓い場所を紹介するわよ」
「とりあえずお茶でも淹れようか。贔屓にしている商家が西方から仕入れたお茶をもらってね、最近のお気に入りなんだ」
玲明の嫌味は無視し、颯秀は侍女を呼んでお茶を淹れさせる。首を刎ねられてもおかしくない暴言をいくら吐いてもこの有様、糠に釘とはこのことだ。
そうイライラしながら、しかし玲明も仕方なく椅子に座る。金三百両という破格の報酬は、苛立ちに対する慰謝料を含んでいるのかもしれない。
「それで、生活に慣れたのかなという話だけれど、実際どうかな。不自由していることがあれば言ってくれて構わないよ、報酬から天引きするようなことはしないから」
「私を守銭奴だと思ってるの? 天引きしないならそこの窓を修理してほしいわ、隙間風に困ってるの」
ふんぞり返る玲明の背後で、桂華は「守銭奴じゃありませんか……」と小さく呟く。というか貧乏暮らしにはいい加減慣れていたはずなのに、ひとたび贅沢を知った人というのは我儘なものだ。いや、玲明に関していえばかつての燈家での豊かな暮らしを思い出してしまったのかもしれない。
「そうか。一応君を迎える前に一通り確認はしておいたのだけれど、人をやって確認しよう。他には?」
「……退屈なんですけど、書庫ってどこにあるんでしょう?」
「ああ、三瑶離宮――宗瑶宮の南側にあるよ、瑠璃の宮からは少し遠いけどね。使うなら管理人に話を通しておくけど、そんなに退屈なら私が添い寝でもしようか?」
「私は貴方と違って昼間にごろ寝なんてしません。そして夜はゆっくり休ませていただきたいので一人にしてください」
「それは残念。私も夜は忙しくてね」
賭博か酒場に行くのにか? そう言ってやりたいところをなんとか堪えた。
「あと、これは少し事務的な話なのだけれど、翡翠の宮にはしばらく近付かないようにね」
「翡翠の宮……というと、晃辰第三王子のですか」
血筋もよければ生まれた順番も悪くない、が病弱な王子のことだ。玲明も、颯秀の妃として宮殿に入った際の式典でその姿は見ていた。隣に座る第四妃が少し大柄なのもあるかもしれないが、座っていても分かるひょろりとした体で、いかにも病弱そうだった。実際、式典中に体調を崩して宮に戻ったらしい。
「何かあったんですか? お体の具合が一層悪くなったとか」
「そのとおり。最近ますます体調が芳しくなくてね、主治医も半分お手上げだ」
「でもそれと私が近づかないようにとはどういう……?」
「ああ、君がそう案ずることじゃないんだが……」
怪訝な顔をする玲明に対し、颯秀は珍しく言葉を濁し、声の音量も落とす。
「第四妃は熱心な肖瑶教徒でね。兄上の治療と称して神殿からも神官を呼び寄せ、祈祷をさせているんだ。お陰で翡翠の宮周辺が異様な雰囲気に包まれているから、まあ近付かないほうが妙なことに巻き込まれずに済むという話だよ」
「な、なるほど……」
ぼんくら王子にしては珍しくまともな助言をくれた。玲明が少し動揺したのに気付いてか気付かずか、颯秀は困った顔で椅子の背にもたれる。
「一応私も肖瑶教ということになっているし、そう頭ごなしに悪いとは言えないんだが……ここ数年の肖瑶教――特に正教会は少し過激だね。なんでも、天珀教の残党を匿っていたとかで西方の小民族の村を焼野原にしたそうだよ」
「っ……焼野原、ですか」
翡翠の宮には決して近付くまい。玲明はそっと決意した。
なにせ、珀家が王家に弓引いたと言われる戦争こそ、肖瑶教と天珀教の対立に端を発するものだ。珀家は天珀教の始祖の加護を受けており、だからこそ “妖女狩り”と称され駆逐された。
その天珀教をいま信仰すれば、瞬く間に神部尚書の命で捉えられ、身を焼かれるだろう。
「やり過ぎじゃないかって声もあったみたいだけど、有耶無耶に終わったね。陛下も、最近は正教会との結びつきが強いし、特に私達王族は“祝福”も受けているし。教会に強く出ることができない側面はあるよね」
王族が受けている“祝福”。それは、肖瑶教の始祖が国を治めるために与えた能力だと言われる。
その“祝福”の内容は様々で必ずしも公にされているものではないが、秘匿されているわけでもない。
だとして、このぼんくら王子も“祝福”を受けているのだろうか。玲明は本題そっちのけでじろじろと颯秀を見つめた。
「ああ、私も“祝福”は受けているよ」
「え? でも貴方、何の戦績もないじゃない」
訝しんでいると、颯秀は「そこはまあ向き不向きというものだよ」と飄々と答える。
「言ってしまえば、戦闘では守りに徹しているんだ」
「祝福までぼんくらなんですか?」
とんだ暴言に、桂華は遂に玲明の肩を小突いた。
「そうかな? 王たる将が倒れないのは重要なことだよ」
「でもそれ前に出ないんですよね?」
「私は名乗りを上げて突っ込んでいく戦に意味を見出せなくてね。後ろでのんびり戦局を眺めさせてもらっているよ」
なるほど、颯秀にろくな功績がない理由が分かった。戦なんて、軍を率いる将が前に出て名乗りを上げ次々と敵軍を屠ってなんぼ。それなのに颯秀は後方でぼけっと待機しているというのだ。
というか、颯秀がいつも朝廷服を動きやすくしただけのような軍服を着ている理由が分かった。戦わないから装甲は不要、むしろ早く逃げるために身軽であるべしということだろう。玲明はやはり半紙に「ぼんくら」と書き留めることを決めた。
「話が逸れてしまったけれど、そういうわけだから翡翠の宮にはあまり近寄らないほうがいいと思うよ。百害あって一利なしだからね」
「……ご忠告ありがとうございます」
「兄上の病状のせいで第四妃も神経質になっているみたいだし。私の可愛い姫がいびられては堪らないからね」
「お気遣い痛み入りますけど、私はその歯の浮くような台詞のほうが堪りません」
「じゃあ毎夜囁いて耐性をつける必要があるね」
「寝言代わりの呪詛と判断して人を呼びますよ。やめてください」
そんな噛みあっているのか噛みあっていないのか分からない遣り取りの最中、部屋の扉が軽くノックされる。颯秀が「どうぞ」と返事をすると、そろりと侍女の桃蘭が顔を覗かせた。