3.妖女、訪ねられる
深夜、玲明はぺちゃりと机に額をつけた。結っていない射干玉の髪が広がり、その頭を覆い隠す。
「桂華……本当にごめんなさい……」
むく……と顔を上げた灰色の瞳にはうっすら涙が浮かんでいる。強気な主人のそんな姿は珍しく、桂華は苦笑した。
「そう気を落とされず。恵梨様の悪口を言われたんでしょう、仕方がないですよ」
働いている酒場にて、恵梨に対する暴言に耐えられず、客の頭から酒をぶっかけ、当然のことながら主人に叱られ、その場でクビを言い渡された──。帰ってくるやいなや申し訳なさそうに、しかし淀みなくそう説明した玲明を、桂華は優しく慰めることにした。
元第一王子妃・燈恵梨は、玲明の異母姉だ。恵梨は異母妹である玲明を幼いころからよく可愛がってくれ、また玲明もそんな恵梨を慕っていた。それをよくよく知っている桂華は、大事な職を失ったとはいえ、よくやったと拳を掲げたいところである。
「でも、玲明様がそんなに感情的に行動なさるなんて珍しいですね」
「……ここ半年以上、散々聞かされて腹に据えかねたのよ」
そして何より、玲明こそ、燈家に隠されてきた“妖女”だ。
玲明は、燈家から見れば妾の子だ。しかし燈家の人間は皆おおらかで、玲明を妾腹と蔑むことなく可愛がって育ててくれた。
ただ、問題は玲明が珀家の血を引いていたこと。それ自体は明るみにされなかったものの、周囲の人間は幼い玲明の奇怪な言動を指して“妖女”と呼び、ある日から玲明は燈家の外に出るのをやめた。
それを見ていた玲明の母親は、玲明を連れて森の奥の家――いま玲明達が住んでいる家――に移り住んだのだ。そうして、玲明達は人目をはばかるようにひっそりと生きてきた。
その母親もやがて亡くなったが、父親のほかに恵梨もたまにこの場所を訪ねてきてくれた。来るたびに惜しげなく高価なものを与えてくれ、なにか不自由はないかと常に気にかけ、共に食事をとり、それこそ働き口としてさきほどクビになった酒場を紹介してくれた。
「まあでも……もともとあの酒場は恵梨お姉様の口利きがあって働かせてもらってたところだし。幸いにも主人が変わって私と恵梨お姉様との血縁に気が付かれることはなかっただろうけど、万が一ってことはあるしね。存外潮時だったのかもしれないわ」
とはいえ、このままでは生活が立ち行かない。新しい働き口を探そうにも、素性を明かさずに雇ってくれるところなどたかが知れている。玲明は机に半分突っ伏したまま桂華を見上げた。
「……本当にごめんなさいね、桂華。私にもっと甲斐性があれば、いえ私なんかに付いていなければ、こんなオンボロ丸太小屋じゃなくて豪華の代名詞みたいなお屋敷で生活ができたのに……」
「あら、私がそんな風にお金に反応すると思われてるだなんて心外です」
桂華はわざとらしく胸に手を当てて威張ってみせた。明るい茶色の三つ編みが、その仕草に合わせてポンポンと揺れる。
「幼い頃から何度も申し上げておりますでしょう。私にとってはまず第一に玲明様なのです。たとえどんな贅沢な暮らしをちらつかされようと、私が玲明様のお傍から離れることなど有り得ません」
「桂華……!」
ひしっと玲明が桂華の両手を両手で握りしめれば、桂華はあたかも姉のように、玲明の美しい髪を優しく撫でる。
「玲明様、世の中、お金が必要だということは私も重々承知しております。ですが、お金で動くような浅ましい者となってはおしまいです。私は玲明様と共にいることができれば幸せなんですから、どうか私に変なお気遣いを見せることだけはしないでくださいね」
玲明が激しく首を縦に振りながらお礼を口にしようとしたとき──コンコンと玄関扉が叩かれ、二人はハッと体を強張らせた。
二人を訪ねてくる者に心当たりはなかった。第一、ここは辺境も辺境の森の中で、見る人によってはただの小屋、用があるはずがない。せいぜい有り得るとすれば道に迷って一晩宿を貸してくれと頼まれるくらい。
しかし、恵梨が処刑されたのはこの夏、ほんの半年ほど前のこと。それなのに二人のもとに偶然迷い人が来るということがあるだろうか、否。
玲明はそっと桂華に目配せし、桂華が静かに頷いたのを確認してから松明片手にそっと扉を開けた。
「どちら様でしょう?」
そこには、いかにも怪しいですと言わんばかりの黒いマントを着、フードを目深く被った二人組がいた。玲明と桂華はすぐにその瞳に警戒心を滲ませた、が、それを態度で示すより先に「申し訳ない、怪しいものではないんですが」と一人がぱらりとフードを取った。
途端、家の明かりもあって、その容貌が照らされる。それを見ていた玲明は目を見開き、思わず口も開いた。
「……王族の方が、何の用ですか?」