7 副校長水上久美子の事情
7 副校長水上久美子の事情
副校長の名前は水上久美子という。最近では、小学校ほどではないが、中学校でも女性の管理職は珍しくない。それでも、彼女は前任校で四十歳になったばかりで副校長になり、それは県下では男性を含めても歴代で一番のスピード出世だということだ。
彼女は大学院博士課程を修了して理学博士となった。大学院の指導教授は彼女の科学者として将来を嘱望していたので、どうして彼女が突然研究者を辞めて教育者の道に進んだのか理解できなかった。
教員採用試験は筆記試験も面接試験も断トツ一番の成績で合格した。その時点で、県の教育行政の幹部候補生として将来を嘱望されることになった。頭の回転が速く、人一倍早く仕事をこなす。教育にかける情熱も並々ならぬものがあるが、人当たりは柔らかい。教壇に立って生徒を教えていた頃は、最新の科学の話をし、見たこともない実験をして生徒たちを虜にした。
かつて彼女が新しく考案した教材が文部科学大臣賞を受賞した。これまで新聞や教育雑誌に何度も教育問題のコメントを出している。そのコメントも一ひねりきいていて、読者をうならせるものがある。通常、教育問題に対する専門家のコメントは、素人の意見とどこも違いがないように思われるだろうが、それは当っている。このことがばれないようにコメンテーターは意図的に専門用語を一つ二つ話の中に挟んで煙に巻こうとするものだが、そんなことをしても底の浅さは誰にも見え見えだ。王様は裸だ。
もう少し先のことだが、教育関係者からは教育長就任の期待がかかっている。これほどのエリートだと鼻にかかって、いけ好かない人間のように思う人もいても不思議ではないが、彼女はさっぱりとした性格で部下たちからも人望が厚いし、生徒たちからも好かれている。上手に隙を作って、人が近づきやすいように振る舞っている。彼女が出世の階段を登っていくのに異論のある者はいない。ライバル心を剥きだすには、実力の差があり過ぎる。実力の差がわからない無能な人間に残されているのは、陰に隠れて嫉妬するだけだ。
はたから見ると順風満帆の出世コースを歩んでいるように見えた彼女も、足元をすくわれるような出来事があった。
彼女の夫は福岡でスーパーゼネコンの副支店長をしていた。その夫が談合にかかわった容疑で検察によばれた。このことがマスコミで全国的に大きく報道された。この事件は、結局誰も起訴されずにうやむやなかたちで幕引きとなったのだが、この事件の最中に、ひょんなことから夫に若い愛人がいることが発覚した。おそらく彼を陥れようと目論んだ同僚がマスコミに彼を売ったのである。週刊誌に愛人のマンションから二人で出てくる写真が掲載された。
一連の騒動でPTAや教育委員会から副校長は直接・間接にいじめられたようだが、彼女は馬耳東風と受け流した。肝っ玉が据わっている。彼女は夫と別れる意思はなかったようだが、夫から愛人と結婚するから別れて欲しいと泣いて頼まれた。世間では夫は凛々しい男として通っていたが、久美子は付き合った当初からこの男の本質は女々しいということがわかっていた。それでも、その女々しさを彼女にだけは素直にさらけ出してくるところが愛らしく感じられたのだ。女癖は悪くなかったはずなのに、やはり長期の単身赴任は寂しかったのかもしれないし、社会的地位や見てくれも良いので愛人に強引に言い寄られたのかもしれない。女に強引に言い寄られると彼は弱い。あの時も私が言い寄ったのだから。愛人との間に子供ができたという。副校長は一言も泣き言を言わずに離婚届に判を押したそうだ。
騒がなかったのは、自分の惨めさを他人に見られるのが嫌だったことが大きいのかもしれない。普段は周囲にそんなそぶりをまったく出さないのだが、内心は非常に誇り高い女なのだろう。誇り高いことが悪いわけではない。世の中泣く女が多いのだから、泣かない女がいてもいい。
そんな騒動が終わって数か月経った頃、彼女は現在の学校に移動してきた。彼女が落ち込んでいるようにはまったく見えなかった。事件の前とまったく変わらない立ち居振る舞いをしていた。この学校にもすぐになじんだ。
数年が経ち、彼女は再婚した。結婚式はあげなかったのでわからなかったが、校長が職員の懇親会の場で彼女が結婚したことをあっけらかんとみんなに報告した。その場にいた全員が「おめでとうございます」と言って盛大に拍手をしたが、副校長は照れたふうもなく、明るく「ありがとうございます」と応じた。前持って校長との打ち合わせはなかったようだ。校長は狸かもしれない。
酒が入って、誰からともなく相手はどこで知り合ったのかと尋ねられると、マッチングアプリで知り合った男性だという。彼女がマッチングアプリのような俗っぽいことをしていることが信じられなかったし、ましてやそんなところで出会った人と結婚するなんて、今でも冗談ではないかと思ってしまう。だが、本当のことのようだ。
副校長の新しい夫は、高卒のIT関連の起業家ということらしいが、彼女より10歳くらい若いそうだ。付き合い始めた頃は起業したばかりで、社会的には海の者とも山の者ともわからない存在だったらしいが、話とセックスが合うので付き合ったと言う。入籍後、数年して彼の開発したゲームが大ヒットして、アメリカの週刊誌で「世界を動かす100人」に選ばれた。我々庶民とは別世界の話だ。当初は、世間にはその男の妻が副校長だということは知られていなかったが、ネットの中に彼の妻が中学校の教員だということが載って、いつのまにか周知のこととなった。彼女はそのことを問われると、素直にその通りだと答えた。女子生徒も男子生徒も彼女に憧れた。彼女にはこうしたスポットライトを浴びる華やかな舞台が似合っていて、それをさらっとやってのけるのが彼女の凄さだ。
副校長として彼女は時々考える。ネットに書き込まれた変態教師は誰だろうか? 本当に変態教師はこの学校にいるのだろうか? ただの人騒がせな書き込みじゃないんだろうか? だって、私にしても前の夫が談合の事件に巻き込まれた時、あることないこと好き勝手に書き込まれたではないか。私が夫の上司と寝て、夫を首にしないように頼んだって? 別の上司とラブホテルから出たのを見た人がいるって? やくざに談合のもみ消しを依頼したって? 私が生徒の父親とカーセックスをしたって? 生徒の修学旅行の積立金を着服したって? 生徒をいじめて自殺未遂に追い込んだって? ドラッグにも手を出しているって? 作り話もいい加減にしてよ。世の中には好き勝手にでっちあげる人間がごちゃまんといるのよ。そんな奴らにいちいちかまってはいられないのよ。
変態教師はともかく、それを書き込んだ人間は誰なのよ? きっとそいつも気の弱い変態ね。まあ、そのうち時間が経てばこの騒ぎも収まるでしょう。騒ぎ立てずにじっと時間が経つのを待つのが得策よ。明日は主人がニューヨークから帰ってくる日ね。グリーンピースの豆ごはんが食べたいって言っていたわね。明日は早く帰宅しよう。
校長の椎名修は他人から見たら定年間近のうだつの上がらない老人にしかみえなかった。年功序列で校長になったような人間だ。別に彼自身校長になることを望んだわけではなかっただろう。たまたま校長になってしまったような男だ。それなのにどういうわけか切れ者の副校長は校長を立てている。はたから見ると不思議だ。実際、校長は学校行事の挨拶をこなすだけで、学校の運営は副校長が一手に引き受けていた。それで二人の関係はうまくいっていた。
彼女は校長を尊敬していた。誰も知らないが、校長は彼女が中学生だった頃の担任である。校長は現場の教師の頃からとりたてて魅力のある人間ではなく、とても地味な存在だった。
早熟な彼女が社会に反抗的だった時期がある。ほんの出来心から万引きをした時、警察署で彼女が自分の引き取り手の名前を出したのは両親ではなく、この男の名前だった。親しいわけではなかったし、ましてや信頼していたわけでもなかった。
椎名は警察まで彼女を引き取りに来て、何も言わずに自宅まで連れ添った。自宅に近くなると、何事もなかったように彼は去って行き、親と顔を合わせることもなかった。両親は彼女が万引きしたことを今でも知らない。彼女はそれ以来万引きをしなかった。椎名は学校でも万引きについて何も触れなかった。彼女はそれが嬉しかった。中学校を卒業して、この中学校に副校長として赴任するまで椎名と連絡をとったことはなかった。
副校長として着任し、校長に「お久しぶりです」と挨拶すると、校長はにっこりとほほ笑んだ。校長は万引きのことを覚えているだろうに、そのことをおくびにも出さなかった。そんなさりげない優しさを持った人間に、彼女はこれまでの人生で会ったことがなかった。
もし、中学生の頃に万引きが表ざたになったら、彼女はどうなっていただろうか? 彼女の両親は普通の人だから気が動転して泣き叫んだだろう。同級生は彼女をいじめたかもしれない。きっといじめただろう。同級生は日々の生活に退屈して静かに獲物を待ち構えているのだ。教師たちは彼女を白眼視したかもしれない。それでも、強い彼女がそんなことに屈したとは思えない。人生が大きく変わったとも思えない。
万引きを一人で飲み込んでくれた椎名には、彼女は今でも感謝している。一人の人間として素晴らしいのだ。悪いと思って反省している人間に嵩に懸かった説教は何の役にも立たない。それは教師のサディスティックな振る舞いか、優越感の発露か、はたまた指導のアリバイ作りにしか過ぎない。彼女のような優秀な子供はすべてを見抜くのだ。
彼女は一度校長からほのかに香水の香が漂ってきたのを覚えている。男物のオーデコロンではない。明らかに女性もの、それもかなり高級なブランドものだ。校長は妻を亡くして年月が経つ。それ以後、浮いた話はなかった。この地味な校長に浮いた話がないのは何ら不思議なことではないが、そんな校長から香水の香りが漂ってきたのだ。もしかすると、彼女が出来たのかもしれない。
この香水の香りからして若い娘ではない。中年の女性だ。高級クラブのママさんだろうか。校長がそんなところに行くのは想像できない。PTAや校長仲間からいくら誘われても決して行かないだろう。それならば、やはりどこかに彼女ができたのだろうか? 私と同じようにマッチングアプリで出会ったのか? 校長に限って、いくらなんでもそれはない。誰か知り合いの紹介で出会ったのか? とにかく校長に女っけが垣間見れたことはめでたいことではないか。校長はシャイだから、いつか私の方からそれとなく探りを入れてみよう。