6 三井拓海の事情
6 三井拓海の事情
江川の恋人である三井拓海は一日中芝居のことばかり考えている。いわゆる芝居馬鹿である。少なくとも江川はそう思っていた。三井がテレビのバラエティ番組を何時間も観て、大きな口を開けて馬鹿笑いしていても、それは芝居のためだと信じることにした。
三井の実家は地方の大金持ちで、大学の4年間はバイトをしなくても勉学に励めるのに十分なほどの仕送りがあった。彼はそれを遊興に使い、しばしば友達たちにも食事をごちそうした。しかし、卒業間際になって、卒業できないことが親にばれた時、仕送りは止まった。親からは卒業するまで実家に帰ってくるな、と釘を刺された。それで彼は人生で初めてバイトを始めることにした。色々なバイトを試してはすぐにやめてしまい、最後に落ち着いたのがコンビニと居酒屋のバイトだった。やってみるとこれがなかなか楽しい。どうして早くからやらなかったのか少し残念だった。客たちの会話や表情の変化が芝居に役立つことがわかった。三井の観察眼は卓越していた。大学の食堂や部室には、こんなに多様でダイナミックな話題は転がっていなかった。学生はしょせん学生である。社会から隔絶された狭い世界だった。
コンビニに毎日歯ブラシを何本も買いに来る男は、異様に潔癖症なのだろうか? それともどこかの介護施設に勤めて、老人たちが毎日歯ブラシを食いちぎっているのだろうか? 居酒屋で、一斉に用事があると言って夜の街にバラバラに散って消えて行ったあの食い逃げ男たちは、互いに知り合いなのだろうか? あの後かれらはどこかで待ち合わせをして再集合したのだろうか? いつもあんなことをして暮らしているのだろうか? 警察に厄介になったことはないのだろうか? 少なくとも、もう俺の店に来ることはないだろう。かれらはこんな大衆的な居酒屋で一人1万円も飲み食いをした。どんな胃袋をしているんだろう。走って逃げる途中で食べたものを道端に嘔吐しなかったのだろうか? どうせ食い逃げをするならもっと高級な店にしたらいいんじゃないかと思う。だって、この店の料理は外見はそれなりに整えられているけれど、材料はどれも腐ったようなものばかりだ。そりゃあ、衣でくるめばわからない。でも、いくらなんでも全部を食いきれなかっただろうから、後から頼んだ鳥のから揚げやフライドポテト、おにぎりは持って帰ったんだろうな。そう言えば、エコバッグを持っていた。なんてせこいやつらなんだ。
江川が入部してきた時の事はもちろん覚えているよ。大学の新入生をサークルに勧誘する新歓フェスティバルでチラシを配ってたら、チラシを受け取ってじっとそれを読んでいたのが彼女だった。「興味ありますか」ってやさしく訊くと、元気よく「あります」っていう返事が返ってきた。うぶかったね。でも、こうしたところは今も変わらないけどね。それですぐに部室に連れて行き、名前とアドレス、電話番号、学部を書いてもらって、そこで入部が即決した。大学に入学するまで演劇には縁がなかったようだけど、大学に入って何か新しいことをやってみたいと思ったんだろうな。あの大学デビューってやつ、それだよ。
あの学年は彼女を含めて男女7人が入部したけど、一年経って残ったのは彼女だけだったな。彼女に手をつけたのは夏の合宿の時かな。一応、演劇部の女にはみんな手をつけることにしていたんだ。そのことでやめて行く女もいるけど、色恋は芸の肥やしだから、そんな細かいことを気にしちゃあいられないよ。
江川はそれまで演劇経験がなかったけど、吸収力はあったな。舞台に立つとすっと役になりきるんだ。脚本家兼演出家の俺だけど、恥ずかしながら書いている自分でも十分把握していない役柄を、彼女なりに自分の中に落とし込むんだ。俺も彼女の演技を見て、この役はこういうことだったんだと、後から気づくことがあったものな。
普段の江川は、顔だちは地味で子供っぽく見えるけど、化粧をして舞台に立つと抜群に映えるんだぜ。このことはさすがの俺も彼女が舞台に立つまで気づかなかったけどな。スタイルもそれなりにいいけれど、とりわけいいのは声だね。声に色気があるよ。舞台から降りて普段話しているとそんなこと微塵も感じないんだけどね。芝居を観て彼女に惚れる奴が結構いるみたいなんだ。だけど、舞台から降りて化粧を落とした顔を見ると、ほとんどの奴は引いていくけどな。普段も舞台の上のように化粧をして振る舞えば男を騙せるのにな。あいつは好いた惚れたに興味がなさそうなんだ。あいつは自分で気づいていないんだろうけど、天性の女優なんだよ。
江川とは彼女が3年生になった頃から同棲を始めたよ。その頃はすでに彼女の部屋で寝泊まりをしていたから、自分のアパートの代金を払うのがバカバカしくなっていたんだ。彼女も一緒に住んだらって言ってくれたしな。彼女は自分の親にも俺と一緒に住んでいることを打ち明けて、親が東京に遊びに来た時は、一緒に高級レストランで食事をしたよ。彼女の両親はさばけている人に見えたよ。俺が自分のことを河原乞食と紹介したら、ご両親は目を丸くして、ひと呼吸おいて、四人して笑ったよ。作り笑いでも、笑わないと場が持たないものな。
俺は大学に8年間在籍して、最後は退学ということになったけど、もし最後の授業料を払わなかったら放校処分だという書類が大学から来た。江川は授業料を払わずに放校になったら世間体が悪いし、授業では大学に世話になっていないかもしれないけど、部活では部室をあてがわれたし、何よりも大学の名前を使えたってことだけで十分世話になったんだから、最後の授業料くらい払って退学したらと言ってくれたし払う金もあったけど、払わなかった。俺の大学生活はずっとだらしなかっただろう。中退なんてかっこつけるのはおこがましいよね。河原乞食には放校という処分が下されて、大学を追い出されるのが似合っていたのさ。なんか江戸時代の遠島処分を受けるみたいにさ。
放校になって、おれは自分の劇団を立ち上げるために、大学のサークルの先輩や後輩、知り合いの劇団の団員に声をかけたけど、ほとんどの知り合いは就職してきちんとした社会人になることを希望していて、河原乞食になりたいというような奴はいやしなかった。たまに興味を示した奴もお笑い芸人志望でさ、その前段として役者をやってもいいかな、と軽く考えている奴らばかりだった。こんな奴らでも芝居をするためには人数が必要なのでとりあえず受け入れて、芝居を打てる頭数が曲りなりもそろったんだ。
江川は大学を卒業したら、当然俺の劇団に入るものとばかり思っていたけど、4年生になったら中学校の先生になると言い出して、採用試験の勉強を始めたよ。俺はどうせ試験に落ちて劇団に来るものと思って悠長に構えていたが、彼女は合格した。俺は「おめでとう」と言ったが、少し声がこもっていたかもしれない。俺は人間が小さいな。それでも彼女は満面の笑みを浮かべて大きな声で 「ありがとう」と返してくれたよ。俺、江川のそんなところが好きなんだ。
大学生の頃は二人でバイトをして家賃を含めた生活費を折半していたけど、江川が教員になってからは、主に彼女の収入で生活を賄い、俺はバイトの時間を減らして芝居作りに励むことを二人で決めたんだ。それかと言って、俺は彼女のひもになりたいとは思っていないし、バイト先での人間観察が面白いので、バイトは続けているよ。
和泉さんですか? 良く知っていますよ。雑誌の編集長? ああ、それは違います。江川から聞いたのですか? 和泉さんは現在仕事をしていませんよ。無職です。昔に出版社に勤めていたこともあったそうだけど、今は何もしていないはずです。金まわりがいいのはどうしてかって? そりゃあ、印税ですよ。一時は超がつくほどの売れっ子の作詞家だったんですよ。ペンネームを使っていましたから、業界の関係者以外はそれらの歌の作詞家が和泉さんだということはわかっていないはずです。しかも和泉さんは複数のペンネームを使っていて、一人で何人もの歌手の作詞をしていました。ああ、彼女が作った歌は誰でも口ずさめますよ。ララララララララ、これも彼女の作詞した歌だし、ルルルルルルルル、これも彼女の歌ですよ。同じ日にベストテンに5曲入ったこともありますからね。その時は違った3つのペンネームを使っていたらしいですけどね。
ええ、すべて本人から聞いた話ですから間違いないはずですよ。いわゆる印税生活者です。うらやましいですね。まさに貴族のような生活ですよ。それにしてもどうして江川に編集長だって言ったんですかね? 別に元は作詞家だって打ち明けても何の不都合もないと思うんですけどね。
ああ、江川と和泉さんとの関係ですか。知っていますよ。時々、江川が和泉さんの移り香をのせて帰ってきますからね。別にいいじゃないですか。江川が和泉さんを尊敬しているのはよくわかっていますし、それが肉体関係にまで発展してもおかしくありませんから。和泉さんがいるからって、江川との関係が気まずくなるわけでもありませんしね。
和泉さんから俺への経済的支援、そんなものはあるはずがないじゃありませんか。俺との肉体関係、それもありませんね。江川と暮らしているんですよ。パートナーを裏切ることはできません。それでも、俺と江川と和泉さんの三人の関係が良好なのは、和泉さんが私を高くかってくれていることも大きい要因だと思います。彼女は必ず俺の芝居を観に来てくれて、いつも的確な批評をしてくれるんです。そして、俺には才能があると和泉さんが言ってくれるんです。役者としてもそうだけど、脚本家としても相当なものだと。今は前衛的な劇でほとんど誰にも理解されていないけれど、近い将来理解され、海外でも認められるようになるだろうと言ってくれるんです。現代のシェークスピアと呼ばれるようになるのもあながち嘘ではないとまで言うんです。こんなことを言うのは彼女が酒に酔った時くらいですけどね。それでも、真顔で言ってくれるんです。その言葉を聞いて私もそうですが、江川が無邪気に喜んでくれるんですよ。俺はシェークスピアの名前を出されるとさすがに引きます。もちろん和泉さんの言うことが当たっているかどうかわかりませんよ。和泉さんは演劇のプロではないんですからね。和泉さんも未来は不確定だといいますしね。だけど、私にその才能があることは間違いないと言うんです。あとは運に恵まれているかどうからしいんですけど、運をあてにせずにひたすら努力をしなさい、とも言ってくれます。いまできることは努力することだけなのだから、と言うんです。運が開けるのを待っていては駄目だというんです。それはいつ来るかわからないというのです。待っていては腐ってしまうと。それに大衆に迎合してはいけないとも忠告してくれています。私のようにただの売れっ子作家になってはいけないというのですよ。ただのというには和泉さんは凄すぎますけどね。
江川の学校の変態教師騒動? ああ、江川から聞いて知っていますよ。江川がいつか芝居にできるんじゃないかって言うんだけど、何か学校の内輪話みたいだって思っちゃうんですよね。もう少し話を聞いてみないと芝居になるかどうかわからないですよね。変態教師という言葉自体がありふれていますからね。芝居仲間たちにとっては臭い話にしか思われないですよね。
でも、近いうちに必ず面白い芝居を書きますよ。楽しみにしておいてください。