第六話 『嫌になった』
エリーゼにとってリート・キラソンは軽蔑の対象となってしまった。彼は国家の宰相という非常に恵まれた地位に立ち、冷血宰相などと揶揄されているが、頭はキレ、喋る言葉にも理知が宿っている。
しかし、昨晩のあの言葉はエリーゼにとって十全たる憤りを齎すものであった。
あれからエリーゼは一睡も出来なかった。ベッドに入り体を横たえているだけで目は冴え、頭は活発に働いており、休まったとは到底言い難い。そのまま、朝を迎えてしまった。これ以上、ベッドの中に居ても時間の無駄であろう。エリーゼはゆっくりと上体を起こし、起きる準備をした。そして、再び昨日のリートの言葉が思い起こされた。
「侮辱ですわ……。あのような言葉」
拳を力強く握りしめた。エリーゼのリートを見る視線はそこまでマイナスではなかった。そもそも、国の権力を有している宰相であり、領主、という体裁の良い地位に就いている。また、そこまで話したわけではないが、世間一般で言われている程、「冷血」という言葉が当てはまり辛い口調、女性に対する敬いを有している等という観点からリートを少なからず嫌悪の枠組みに当てはめてはいなかった。また、エリーゼにとって最も思い起こされるのは、母の言葉である。結婚式直前の母の言葉がエリーゼに結婚を歩む勇気とリートと夫婦になる覚悟を抱かせた。それなのに、
「離縁……」
当の本人であるリートは優しさからこの言葉をいったのであろう。彼は聡い人間だ。恐らく、エリーゼ自身のトリスタンに対する恋慕も理解した上での今回の提案であろう。エリーゼも人の感情に敏感である。そのような優しさを込めて彼が言葉を発したのは理解出来る。しかし、今の彼女にとってリートとの離縁は母の言葉を蔑ろにする事を意味し、その上エリーゼの勇気と覚悟を踏みにじる事に他ならなかった。
こんな感情を抱かせた時点でリートの優しさは自己犠牲的なエゴが込められた醜い同情に転じてしまった。少なくともエリーゼにはそう思えてならなかった。
だから、嫌だった。あんな事を言うリートも嫌であったし、こんな些細な事で感情が乱されてしまう弱い自分も嫌だったし、「離縁」という言葉を聞いた時、少しでも嬉しいと思った自分が大っ嫌いになってしまった。自己嫌悪に絡めとられ、縛られてしまうエリーゼを救うかのように扉が優しくノックされた。
「奥様、失礼いたします。朝の御仕度をさせていただきました。」
「あ、ええ。ありがとう入って頂戴」
部屋に入って来たのはエリーゼ御付きのメイドであるエイスであった。エイスは静かに扉を開けると、今日エリーゼが身に着ける衣服・ネックレスを準備しテキパキと朝の支度をし始めた。この館に来てまだ長くは無いが、エリーゼはこのメイドを非常に優秀だと思う。自分の生家ですらここまで仕事を素早くかつ華麗にこなす使用は居ない。しかも、一人でだ。こんなに仕事が出来るのではあれば王家専属の使用人として招待されるであろうに。エリーゼはエイスがなんでキラソン家で働いているのかがどうにも得心がいかなかった。
「さ、奥様。どうぞこちらに」
黙黙と仕事をしていたエイスがエリーゼを呼ぶ。エイスは鏡台を指し示し、手には髪を梳かす為の道具を所持していた。またか。とエリーゼは思う。
「はぁ、なんども言っているでしょう。髪を梳かすぐらい自分で出来ると」
「そうはいきません。私は奥様専属のメイドです。奥様の身の回りの事は全て私がやるべきなのです」
「それにしてもよ! 貴方。子供ならまだしも私は立派な淑女よ。そんな幼子にするように接するのは失礼というモノよ!」
プンプンと怒るエリーゼを見て、エイスはわざとらしく口に手を当て「まぁ」と驚く。そして、続けて
「ふふ、申し訳ありません。そうですね。奥様は立派なレディでしたわね。目の下に大きい隈が付いているのも立派なレディとしての証でしたのですね。てっきり私、何か考え事をして眠れないうら若き幼い子みたいだと思っていましたけど。違いましたのね。申し訳ありません」
「ん、ん~~~~」
エリーゼは自分の顔が熱くなるのを感じた。確かに一つの考えに縛られて満足な睡眠が取れないなんて淑女とは言い難い。恥ずかしい、そう思えてならなかった。そんな彼女の様子を知ってか知らずか口の上手いメイドはこちらに笑顔を向けるばかり。その様子を見てエリーゼは観念し、しずしずと鏡台の前に座った。まるで母と娘のようだ。
「それでは失礼いたします」
エイスは優しくエリーゼの髪を持ち上げ、ゆっくりと梳かし始めた。丁寧に慎重に労わりながら、壊れてしまわないように繊細な手つきであった。それと同時にエリーゼもまた羞恥と共にこそばゆい心地良さを感じていたのは彼女だけの秘密だ。いつもはそこまで気持ちいとは感じないが、睡眠不足や昨日のリートの会話から本能的にエリーゼはこのメイドに寄りかかってしまう。
そんないつもと違うエリーゼに気付いたのかエイスが静かに声を発した。
「昔ですね。このお屋敷に一人の子供が迷い込んでしまったんです」
「え?」
何の脈絡のない話にエリーゼは困惑する。しかし、話は続く。
「迷子だったんです。幸いにもご両親はすぐに判明したのですが。丁度その日は両親は王都に赴いており、夕刻までその子は家でお留守番しなければならなければなりませんでした」
「……」
「どこか一時この子を預かってくれないかと何人かに声を掛けたのですが、どこもその日は忙しかったらしく、預かってくれる所はありませんでした。小さい子で齢5歳でそんな小さい子を一人でお家に残すのには少し不安があり、はてどうしようかと私が悩んでいた時です。リート様がこの館で預かればよいと言ったのです」
「え! へ、平民が貴族の家で過ごすのですか?」
「ええ、そうです。そんなの聞いた事ありませんでした。でも、リート様自身全く気にしていない様子でした。むしろこんなにだだっ広い館なんだから思う存分使うと良いって仰って、その子を思う存分遊ばせたのです」
貴族にとって自分の所有物の最たるものである。それは自分の地位を示すものであり、矜持を持つ所以となる。であるから、ほとんどの貴族は自分より下特に第三階級に足を踏み入れるのを良しとしない。それなのにリートは当然の如く使用を認めたのか。エリーゼにとってそのエピソードは余りにも貴族らしくなかった。
「それで話は終わりでは無いのです。リート様は子供が一人ぼっちで遊ぶのは詰まらないだろうと仰って、近くに住んでいる平民の子供たちを館に招待してパーティーを開いたんですよ」
「な、お屋敷で平民を招いたパーティ?」
「ええ、こんな貴族の方聞いた事ありますでしょうか?」
聞いた事あるわけがない。そんな貴族はエリーゼにとって前代未聞だ。そんな自分と身分が違う者たちにそのように接するなんて、まさか
「あのお方には貴族としての矜持はないの?」
貴族と平民は違う。もちろん、エリーゼは馬鹿ではない。平民の方が劣っているや愚鈍な存在という認識はない。平民がいてこその国家だと考えている。しかし、そこには深い溝が存在している。交わるには些か煩わしい溝が。差別はしない。しかし、交わりもしない。それが貴族と平民の関係ではなかろうか。だって生きている世界が違うのだから。
それなのに、彼は平民と……。なぜあのお方は私ではなく平民であるあの娘と……。
「ッッ!」
エリーゼはハッとする。今自分は何を考えていた? 元婚約者であるトリスタンの事を考えていた。遠くに行ってしまった愛しのトリスタンの事を再び考えてしまった。まだ、過去に囚われている自分に再び自己嫌悪になる。
「愛しているのでしょうね」
「え、愛し…」
エリーゼは一瞬、心を見透かされたかのように感じた。しかし、直ぐに違うと否定した。エイスは自分の心なんて読んでいない。ただ話の続きをしているにすぎない。でも、鏡越しに移るエイスの瞳にエリーゼは少し戸惑う。彼女は誰の話をしているのだろうか? 私? はたまたリート?
「誰を?」
この質問の真意を知るのは今のエリーゼには不可能だった。しかし、聞かずにはいられなかった。彼女はただ鏡に映るメイドを、そして自分自身を見つめる。
「民をです」
「民……?」
「あの方の中には常に国の者がいます。そして、その者たちを愛していらっしゃる。国民が何を思い、何を考え、何を望み、何を幸せと考えるのかを常に思案していらっしゃります。それは愛してるのです。愛しているから考えるし、愛しているから慮るし、愛しているから、優しくする。そんなお方がリート様なのです」
「愛しているから」
エリーゼは聴いた言葉を反復する。意表を突いた物ではなかった。容易に想像できる程、陳腐な考えだったと思う。それこそ、小説などを読んでいれば考え付きそうなありきたりな物だ。でも、変だと思った。
「そんな人がいるの?」
聞かずにはいられなかった。メイドの言葉をそのまま信じるにはエリーゼは彼を知らなさすぎる。だから、再確認したかった。彼がどんな人なのか。
「……」
しかし、その問いかけに応える者はいない。鏡に居るはずなのに、その彼女は何も答えない。何も言わず、鏡越しにエリーゼに微笑みを向けている。
「……!」
愚問だった。そんな質問をする必要は無かった。だって、彼―リートがそういう人だとエリーゼ自身分かっていたから。彼は優しい。優しいからエリーゼにあんな提案をした。あんなの優しさ以外の感情から発生しないはずだ。
だから、あんな質問は愚かであった。それを改めて理解させられた。それなのに、それなのに、エリーゼは彼を愛する自分を想像できなかった。それが猶更、彼女を自己嫌悪に陥らせた。
「もういい」
そんな嫌悪から逃げるかのようにエリーゼはメイドの櫛を振り払い、頭を揺らした。髪は綺麗に梳かされていたのに、妙に煩わしかった。そんな何かを拭い去るようなエリーゼを見て、エイスは深くお辞儀をした。
「無駄口を叩いてしまい申し訳ありません。身の程を知らない態度お詫びします」
エリーゼはハッと振り返る。別にエイスに謝ってもらいたいわけではなかったのに、彼女に慇懃な態度を取らせてしまった。そんな申し訳なさが心に広がった。
「あ、いや。べ、別に」
口が渇き、舌が上手く動かない。謝るべきだ。エイスはきっと自分とリートの仲が上手くいっていないのを察してこの話をしてくれた。それは紛れも無い優しさだ。だから、感謝をすべきだ。なのに、なぜ口が上手く動いてくれなにのか。
焦燥的になるエリーゼを確りと見据えた上でエイスはゆっくりと距離を取る。そして、必要最低限の仕事をして、部屋を退室した。その間、エリーゼは全く動けなかった。そんな自分が情けなくて、そんな自分がエイスに申し訳なくて、こんな自分をトリスタンが見たら軽蔑するだとうと思って、とっくのとうに軽蔑されていると思って、また、自分が嫌になった。