第五話 『新婚生活と間違い』
見ただけで空腹感を唆られる盛り付け。口内に広がる食材の美味。鼻を突き抜ける幸福感を感じさせる風味。瞳の奥にある網膜、舌上にある味蕾、鼻腔の中の嗅上皮全てを総動員してこれは美味いと本能が激しく主張するのをリートは感じた。
いつもなら率直に感じた思いを口にするリートだが今日は咽喉の奥、口が重いのをハッキリと感じる。唇が糸で縫い付けられたみたく口が開かない。
其れはこの場の雰囲気が要因だとリートは考える。いや、リートでなくともこの食器とスプーン、フォークが接触する事で発せられるカチャカチャという音だけが反響している重苦しい食卓ならば誰でもそう考えるだろう。
リートが今いる場所はリート・キラソン公爵領主の館の食卓であり、其処で食事をしている。いつもなら息子であるミシルトと雑談しながら和やかや空気を漂わしているのだが、ここ数日は其れが全くと言って良い程無くなってしまった。
その最大の理由は、リートは自分の左斜めにいるとある人物をそーっと見る。其処にはウェーブがかかった長い銀髪に静謐さを感じされる美しい容貌を有した女性が優雅に食事をしていた。この女性ーエリーゼ・ツインリヒもといエリーゼ・キラソンーがこのいつもと違う重苦しい空気の要因である。
3日前、リートとエリーゼは華々しく結婚式を挙げた。『冷血宰相』などと揶揄されているがリンバート王国の宰相であるリートが行う結婚式が貧相なものでは国の品格が失われると国王であるアンリック自ら結婚式を主催した。
が、元々リートとエリーゼは政略結婚それも尋常ではない速度で決まっていった為二人はほぼ初対面と言って良い関係性であり、じゃあそんな二人が結婚したからと言って愛し合い、仲良くなれるかと言ったら其れは否であろう。リート自身としてはエリーゼが他の殿方と添い遂げたいと思ったら彼女の為を思い離縁を即決して良いと考えてはいるが、だからと言って仲良くしない理由にはなり得ないと考えている。
でも、何というか。リートが思うにエリーゼという女性は隙が無いのである。良く言えば非の打ち所がない。悪く言えば壁を感じさせる。そんな女性であり雑談を投げ掛けても全く持ってスムーズに進まない。嫌っているや軽蔑してるなどの悪感情を向けられている訳ではない。
でも、彼女はリートとは親しげに会話を持ち掛けることも無く、壁を感じさせる。其れは彼女がリート・キラソンという男を夫と認めていない証左であり、彼女の心がまだトリスタンに向いている証拠なのだろうとリートは思わざるを得ない。自分を見ていない。其れがリートがエリーゼに対して思った第一印象なのである。
このような事が現在の食卓の居心地の悪い重さの原因だ。離縁を念頭に置いた夫婦生活を送ると言ってもこのままではリート自身は些か座りが悪い。リートはこれを払拭すべくもう一度エリーゼの方を向きぎこちない笑みを向ける。
「ど、如何ですかエリーゼ様お口に合いますか?」
「はい。とても美味しいです」
「そ、其れは良かったです。そう言えばエリーゼ様の好きな料理などは有るのでしょうか?」
「いえ、ありません」
「そうですか」
「…」
「あ、えっと…」
ぎこちない笑みを浮かべるリートのこめかみに汗がスーッと流れる。どうにかして別のもっと気の利いた質問を脳内で検索するが全くもって思い付かない。
「あ、そう言えば!」
リートは起死回生と言った様子でやけに明るい口調と目線でエリーゼそして其の向かい側にこれまた黙々と食事をしている己の息子、ミシルトに目を向ける。
「二人は同級生なのだったろう。そ、その学園では学友だった二人が今こうして家族に成っているのは不思議な物だな」
「ええ。そうですね」「はい。そうですね」
しかし、リートの明るさとは裏腹にエリーゼそしてミシルトまでも淡白な返事をした。
「二人は学園では交流は有ったのかい?確か学園では毎年魔術祭や芸術祭は他クラスの生徒と合同で行事を催したりすると思うんだが」
「全く有りませんでした」
「そ、そうですか。ミシルトは?」
「僕も記憶にありません」
二人の付け入る隙を感じさせない返答にリートは乾いた笑いしか出すことが出来ない。其れと同時に疑問が湧き上がる。ミシルトの態度だ。ここ最近ミシルトの様子がおかしい。端的に言うと素っ気無いのだ。其れもエリーゼの前だけで、エリーゼがいない状況だといつも通りに楽しげに話をしてくれる。其の理由はもしかしたら、いや恐らくとリートは大方見当がついているが余り受け入れたくない。
「では、私は自室に戻らせて頂きます」
「へ、え、ああ。はい」
ミシルトについて思案している所突然横からエリーゼに声をかけられリートは言葉の意味も大して考えずに返事をしてしまった。其れを聞くとエリーゼは一つ一つ美しすぎる動作でスタスタと食卓から出て行ってしまった。如何やらリートが思案に耽っている時もう食べ終わっていたらしい。
エリーゼの後をエイスはリート達に一礼して付いていった。エイスはエリーゼがこの館にやって来た時エリーゼ専属メイドとしてリートが使えさせたのだ。
エイスが食卓の扉をゆっくりと閉める。部屋はリートとミシルト、カルンの三人だけとなった。リートは細長い息を吐き出しながらミシルトを一瞥する。
「ミシルト」
「はい。何ですか?」
リートの呼び掛けにミシルトは先程とは真逆な明るく実直な笑顔を向ける。エリーゼがこの場に居なくなったからだろうとリートは推測し己の推測を確たる物にする為の質問を単刀直入に投げる。
「…エリーゼ様は、嫌いか?」
「…嫌いです」
一拍置き真っ直ぐとした瞳でミシルトは言葉を選ばずハッキリと嫌悪の意思を表す。ミシルトがエリーゼの事を好いていないと分かっていたが思わずリートは息を呑んでしまう。
「何で、学園で何かあったのか?」
恐る恐る聞く。リートが見る限りミシルトが嫌い原因は分からない。ならば自分が知らない所学園で何かあったと思うのが必然だ。しかし、
「違います。そんな個人的な物じゃありません」
ミシルトは屹然と応える。
「なら一体なぜ、エリーゼ様を嫌うんだ?」
「嫌いたいから嫌っている訳じゃありません。向こうが嫌ってるから蔑ろにするから嫌いなんです」
「エリーゼ様が…?」
彼女がミシルトを嫌う印象をリートは余り感じられない。リートは困惑の念を抱いてしまう。
「それに」
ミシルトが沈痛な面持ちで続ける。
「彼女はあの人に似ています」
「あの人」とは誰なのか。リートは聞く気にはなれなかった。其れは息子のまるで苦虫でも噛み潰しているかのような面持ちと態々聞くまで無いと思ったからだ。
恐らくミシルトの言う「あの人」とは母親つまり、リートの前妻だろう。確かにエリーゼと何処と無く雰囲気が似ている感じがした。ミシルトは幼少の頃余り母親に愛情を注がれた経験が少なかった。その為、エリーゼにも苦手意識を感じてるのかもしれない。でも、
「エリーゼ様は違うだろう」
似ているからと言って彼女を嫌悪するのは些か理不尽だ。エリーゼとミシルトの母は別人だし同一である筈が無いのだ。だからリートは息子にハッキリと告げる。リートの勧告を聞きミシルトは一瞬目を下に向ける。そして、そのまま投げ捨てるような取り零すみたいにボソッと呟く。
「分かっています」
そして、椅子から立ち上がり「部屋に戻ります」と言ってスタスタと出ていてしまった。部屋に出る瞬間、ミシルトの表情が怒っているような理不尽に堪えているような堪えようの無い何かを抱えている様にリートには見えてしまった。そして、ついぞ息子の真意を推し量る事は出来なかった。
「なぁ、カルン」
「はい」
「如何するべきだろうか?」
リートは執事のカルンと二人だけになった空間で情けなさを感じさせる声を発した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一枚の紙を手に取りそこに記されている文言をリートは確認する。
『クツル皇国所有フィリン平原の政治的取得の計画』
と記されている。其の言葉を見てリートは何を言ってると心中で腹を立ててしまう。
クツル皇国とはリンバート王国から30キロ北方に位置する国である。クツル皇国とリンバート王国は昔から数多の戦争を引き起こして来た敵国だ。フィリン平原とは両国の間に存在する平原で有り、此処は土地としてとても肥沃であり農作物を育つのに非常に適している。その為両国は長い間この土地を奪取し合っていた。
しかし、4年前の両国間で結んだ平和協定よりフィリン平原を調度二分割に分け合ったのだ。これにより戦争が起こる事もなく平和な外交関係を築き上げている。
だが、今回の書類にはその協約を破棄しフィリン平原全てを奪う戦略の提案だ。そんな事はリスクがある事をやるのは危険だ。其れがこの国の宰相であるリートの考えだ。
「はぁ」
深く溜息を吐き持っていたペンを机に転がし乍らリートは座り心地の良い椅子に凭れかかる。其の嘆息には私的なモノと公的なモノ二つの意味が込められていた。前者はエリーゼとミシルトの家庭内の事。そして後者は、リートは首の位置をずらさず机に目を向ける。机上には多くの書類が有り、その書面には「今年度に於ける国家予算の推定」「生活困窮者に対する保証金の概算」等の晦渋な文章がつらつらと記されている。
リートはこの国の宰相である。宰相とは国王の政務に於ける補佐係であり実質的、政治的権力を国で一番有している存在である。その為権力を悪用し国政を己の意のままに操ろうとする宰相も歴史的には少なくは無い。
だから宰相になる者は自己利益よりも国全体の利益を見据えることが出来、国の政治を正しく運営する者でなくてはならない。そして、その座にリートは今就いているのだ。
リートは今自分がいる場所を俯瞰する。紺色の絨毯に二対の茶色のソファ、その間にある木製のローテーブル、リートの目の前ある執務机。様相としてはアンリックの執務室と似ているが彼処ほど調度は派手では無い。此処は王宮に添えられているリークの執務室。
基本的にリークは此処で新しい法律の制定や他国との外交などについて思案している。普段は声をかけられない限り集中して仕事に取り組めるのだが今日はそうはいかない。それはやっぱりエリーゼの事。
「やっぱり、やめとくべきだったか」
今更ながらリートはエリーゼとの結婚を早計すぎたかと考える。結婚はエリーゼにもミシルトにも良い影響を齎さないのでは無いかとー現にそうなのだがー不安に思ってしまう。離縁を見据えた結婚とまるでエリーゼの為を思っての考えだとしても其れを知らない彼女からしてみれば親子程の歳の差がある男と結婚させられたのだ。ならば、彼女の壁を感じさせる態度も必然だし責めるなんてもってのほかだ。
ならば彼女とは余り関わらずしっかりとした境界線を引くのが最善なのか。しかし、今の館の雰囲気は良いとは言い難い如何にかするべきだろう。でも如何やって?ミシルトが何故彼女を嫌ってるのか具体的な事は分からなかった。まず其れをしっかりと聞くべきだろう。しかし、ミシルトは意外と頑固で一度気持ちが決まってしまうとよっぽどの事が無い限り動かないだろうし、
「ああ!ダメだ!」
煩悶する自分を叱咤してリートは頭を激しく掻いた。どんなに頭を働かせて現状を好転させようと図っても、直ぐに自分自身でその案を否定してしまう。まさに袋小路とはこの事だなとリートは自嘲的に鼻を鳴らす。
そもそもエリーゼの真意もミシルトの真意も分からないのに自分がどうこうか考えても余り意味はないだろう。
「ん?」
其処でふとリートは頭の中にある考えが浮かんだ。でも、具体的に其れが何なのか分からない。
「んー」
リートは顎に手を当てて唸る。其の何かを探ろうと脳味噌の中を駆け巡っている。そこで、
「あ…!」
やっと自分が何を思い付いたのか理解出来た。理解出来たしそこまで悪い物では無いと思うがこれが必ず吉と出るとも言い難い。でも、十分其れをやる価値もあると思う。リートは自問自答を繰り返す。そして、やっと、
「試してみるか、もしかしたら彼女も気が楽に
なるかもしれないし…」
リートはつい先程思いついた何か、作戦を実行してみようと思った。これが一体どのような結果を齎すのかリートは知り得ない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
王宮から帰り館に着いた途端リートはカルンを置いてスタスタと歩いて行った。自分の存在を確かめる様にリートは一歩一歩慎重かつ確実に歩む。其れが緊張から来るものと言うのはリート自身も気づいているし、でもその分妙な浮遊感、高揚感みたいな物も感じていた。
これから自分が行おうとしているのが其の高揚感の理由だろう。リートが目指しているのはエリーゼの部屋だ。王宮で思いついた事、言ってしまえば自分とはいつでも離縁しても良いと伝えようとしてるのだ。彼女自身も自分との結婚は望んだものでは無い、むしろ仕方無くだったろう。其れを理解した上でリートも離縁を見据えた結婚をしたのだ。しかし、リートは今まで其の考えを誰かに話した事はなかった。
でも、もしエリーゼにこの事を話せば彼女の今回の結婚に対する鬱屈を晴らす事が出来るのでは無いか、離縁を見据えた結婚と理解すれば気持ちも楽になり心のゆとりが生まれるかもしれない。そうなればこの館の雰囲気を払拭されるだろうとリートは考えている。
終わりがあるのは往々にして活力を湧き上がらせるものだ。そう思うえば自然と勇足になる。
「リート様」
「あ、エイス」
後ろ髪を引っ張られる様に声をかけられ、振り返るとエイスが立っていた。エイスは不思議そうに首を傾げている。
「急がれて如何されたのですか?」
「ああ。少しエリーゼ様を訪ねようと思うてな」
そう伝えるとエイスの眦がピクッと動いた気がした。しかし、直ぐに凛とした表情に戻した。
「そうですか。なら、私が用件を伺いお伝え致しましょう」
「いや、自分から直接言うから大丈夫だ。まぁなんだ夫婦の話と言うやつだな」
頭に手をやりリートは投げやりに笑う「夫婦」という言葉が自分とエリーゼに不釣り合いだと思ったからだ。リートの空笑いが廊下に虚しく反響し、暫しの静寂が支配する。
「夫婦…。リート様はエリーゼ様を愛していらっしゃるのですか?」
「え?」
突然エイスがリートに問いかける。余りに脈絡が無く突拍子が無い質問だったためリートは一瞬思考が止まってしまう。少し目を伏せ逡巡する。そして直ぐにエイスと向き直り彼女の目をしっかりと見つめてゆっくりと口を開く。
「愛してる。とはハッキリとは言えない。というより分からない。彼女とは殆ど初対面だったし彼女が何を考え何を感じどんな人間なのか私は知らない。まぁ、でもそうだな、彼女には幸せになって欲しいよ」
此処でハッキリ「愛してる」と言えたら男としてカッコいいのかもしれない。でも、其の言葉は簡単に口に出して良いとは思えないし実際口に出せない。だから変に偽らず飾らず本心をリートは言った。其の言葉を聞いてエイスは眦を下げ口角を少し上げる。とても穏やかな慈愛や愛情そして諦めみたいな落ち着きが篭っている微笑だ。そして囁く様に。
「リート様はやっぱり御優しいですね」
そう言うとエイスは一礼しリートの目の前から去って行った。リートは振り返ると廊下を歩くエイスの後ろ姿が何処か哀愁を感じさせる物だった。しかし、直ぐ本来の目的である場所を目指し歩みを進めた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「はい。誰ですか?」
「リートです。急に申し訳ありません。エリーゼ様。実はお話ししたい事がありまして」
自分の妻であるにも関わらずリートは慇懃に扉の向こう側に話しかける。
「…どうぞ御入り下さい」
数秒の沈黙の後入室の許可を得る。「有難うございます」とリートは感謝を告げドアノブに手を掛ける。そして、短く息を吐き出すとゆっくり扉を開けた。
部屋の内装はベッドとサイドテーブルそして机といった至って簡素なものである。しかし、其の部屋に佇んでる人物により一気に静謐な空間に昇華された感覚にリードは陥ってしまう。
上品に手を重ね此方をジッと見つめている其の人物エリーゼに毎日会っているのに彼女の美しさに慣れる事も飽きる事も感じる事は出来ない。
「こ、こんばんわ。エリーゼ様」
「ええ。こんばんわ」
「すみません。突然押しかけてしまい」
「いえ、夫婦なのですから御気になる必要は無いかと」
「あはは。そうですね」
やはり会話のぎこちなさを拭い切る事は出来ず何処か座りが悪い感じがリートはしてしまう。
「…其れでお話とは?」
エリーゼの双眸がリートを貫く。此処で空虚な会話をするのは無意味だろう。リートは観念のような面持ちを浮かべる。
「私達の結婚は些か急なものでしたね」
「?ええ」
脈絡の無さ過ぎる話にエリーゼは疑問を浮かべる。しかし、リートは続ける。
「所謂、政略結婚というやつです。打算が根底にある結婚」
「貴族の結婚は往々にしてそうでしょう。恋愛結婚なんてそうそうありません」
「悲しいことに…ですね」
「当たり前のことですよ。自分の愛した人と生涯を共にするなんて…あり得ないですから」
多分、彼女は今自分自身のことを語っているのかもしれない。そう思ってしまうほど声音が表情が己と切り離せなせていない。恐らく、いや、絶対に彼女はトリスタンのことを想っているのだろう。彼を想い彼を愛していた。本当は一緒に成るはずだったんだ。でも、それは無理になってしまった。
苦しいだろう、辛いだろう、深い傷を抱えてしまっただろう。でも、必ずいつかその苦しみから解放して辛さを忘れさせ傷を癒す者が出てくる筈だ。その人は彼女の前に現れる筈だ。
そして、その人はきっと自分ではない。リートはエリーゼを見つめながら思う。
「エリーゼ様、離縁しましょう…」
「…は」
彼女が目を見開く。
「あ!い、いや、すみません!言葉足らずでした。今すぐというわけではなく、いつかという意味です!」
「いつか…?」
「ええ、元々我々は政略結婚です。貴方も望んだものでは無かったでしょう。ですから、言うなればこれは提案ですね」
エリーゼは目を見開いたまま、此方を見つめる。
「私はこのように老獪してしまっています。もって20年でしょう。しかし、貴方はまだお若い。私とは違い、時間も活力も希望もある。そんな貴方を縛る権利も資格も私にはありません。それに、私のような人間よりも貴方を慕い、大切にしてくれるお人が現れる筈です。その人と添い遂げたいと思う瞬間も訪れるはずです。ですから、その時がやってきた時、離縁をしましょう」
長々と文言を垂れ流してしまった。自分でも何を言っているのか正確に把握しきれていないのをリートは話しながら気付いた。
「もちろん。私としては貴方のように美しく聡明な方と別れるというのは名残惜しさを抱かざるを得ないですが、私では些か役不足というやつです」
リートはなお語り続ける。自己を卑下し他者を尊大に扱う。そんな言葉を滔々と垂れ流す。目の前にいる彼女は目元に影を落としながら聞く。エリーゼがどんな表情をしているか、リートからは窺えない。リートが漸く息を吐く。語り尽くした。元々言うつもりの無い言葉まで吐き出してしまったが、自分の考えをはっきり告げられた。リートは其れを確信し、心中でホッとする。しかし、エリーゼの表情はまだ明瞭に見受けられない。俯きがちにただ突っ立ている。
「伝えたい事はこれで以上でしょうか?」
エリーゼが問い掛ける。
「え、ああ、はい。すみません、お時間をお取りしてしまい。はは」
リートは事も無げに笑った。その笑いは飛行能力を失った飛行船の如く床に沈澱した。
「そうですか……」
エリーゼが絞り出すかのような返答をする。その思わしげな態度にリートは疑問を抱くが、直ちにその疑問を頭から弾き出した。リートは感情の切り替えが得意なのだ。
「では、もうお休みになられた方が良いかと。夜も更けてきました」
エリーゼはやっと顔を上げる。その表情はいつも通りだった。気品が漂い、静謐が滲み出て、高貴を具現化したかのような。いつもの彼女だった。リートは先程の疑問は自分の思い過ごしかと安堵する。
「ええ、そうですね。夜分遅く申し訳ございませんでした。エリーゼ様」
安堵を声音に乗せる。リートは来客用のお辞儀をし、踵を返した。扉を開ける。風が入ってくるのを感じた。生暖かく、少し不快な匂いがした。今夜は雨になるかもしれない。リートはそんな事を考えながら、体をエリーゼに向け、ゆっくりとドアを閉めようとした、扉が完全に閉じる直前エリーゼがリートをまっすぐ見据えながら、こう言った。
「私は貴方を軽蔑します」
言葉は不思議だ。ただの音の周波数でしか無いのに、時としてどんな鋭利な刃物より、どんな有害な毒よりも人に多大なる影響を及ぼす。だから、エリーゼのその言葉を聞いた時、リートは喉に布でも詰め込まれたかのように息が詰まった。リートが認識した文言は咀嚼するまでも無いほど鮮烈な刺激をリートに齎した。軽蔑という言葉がリートの腹の底に燻る。その不快な感覚を取り除こうと、その峻烈な炎を消し去ろうと、リートは言葉を出そうとする。しかし、既に扉は閉まっており、その直後鍵が閉められる音が鼓膜を虚しく響かした。