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第四話『涙滴る結婚式』

窓から麗かな陽光が差し込む。其れに照らされている女性が一人。


「とてもお似合いです。御美しい」


斜め後ろに控えていた使用人が手を合わせて恍惚と本心からそう言った。其れもそのはず、誰もが其の姿ウエディングドレスを着ている女性エリーゼを見れば感嘆の言葉しか出ないであろう。


純白のドレス、豪華な装飾が施されておりエリーゼの銀色の髪と相まって一種の神聖性をも感じされる。エリーゼは大きな姿見に映るその自分の姿を無感動、無関心に見つめる。


「そう」


使用人の言葉に返す文言も無機質で興味の無さを感じさせる。エリーゼは目線だけ動かして部屋の調度を改めて見る。


真っ赤なソファ、大きな姿見、化粧台。至って簡素な部屋ー控室だ。其れらを眺めてエリーゼは自分の置かれている状況を再認識させられる。


其れは自分の姿を見ても直ぐに分かる。結婚式だ。結婚式という人生に於いて大きな節目、晴れ舞台の出来事をエリーゼはただ何の感慨もなく過ごす。まるで、死神に魂が抜き取られたみたいな表情を浮かべている。


「準備は出来たのか?」


突然低い厳かな声が聞こえてきた。使用人はその声を聞いて数歩下がり恭しく頭を垂れる。


「お父様」


控室の出入り口にはエリーゼの父ー現ダルン領主シンク・ツインリヒ伯爵が立っていた。伯爵は娘の花嫁姿を見て率直に「ほう。似合っているじゃないか」と褒める。


その賛辞にエリーゼは感謝を告げる。しかし、其の顔はやはり浮かない。伯爵はエリーゼの表情に目敏く気づき眼光を鋭くする。


「何だ、エリーゼ。お前キラソン公爵との結婚が不服なのか」


責めるような厳しい口調だ。エリーゼは憂うように視線を少し下げる。


「もとあと言えばお前が発端なのだぞ。第三階級の小娘を虐めなどするから殿下に疎まれ婚約を破棄されたのだろう」


違う。などと反論する気もエリーゼには起きない。言っても無駄と感じる諦観によるものだ。どんなに否定しても相手が思い込んでしまえばそこに自分の意見が入る余地は無い。これはあの日トリスタンとの会話でよく理解した。


「はぁ。その所為で俺がどれだけ苦労したか、誰も娶ってくれずに」


伯爵が心の底から苦労したみたいに深く嘆息する。


「其れで最後にキラソン公爵に頼み込んだのだぞ。俺だって嫌々なのだ。冷血宰相に娘を遣るなど」


聞いてもいないのに伯爵が滔々と語り続ける。しかし、エリーゼには冷血宰相。その名詞が自然と耳に止まった。


冷血宰相とはリート・キラソンの二つ名であり、主に第一階級の貴族達の間で呼ばれている。二つ名と言っても親しみを込めたものでは無く、軽蔑や悪意が含まれているものである。


その名の通り冷血なのだ。リートが先導して行う政策などが要因である。そもそも第一階級の収入源は自分が所有している領地に住んでいる民からの地方税が主である。


その地方税は領主が独断で決めても良いとリートが宰相になる前になっていた。しかし、リートが6年前半ば無理矢理に決めた鼎談協約により領主が徴収してよい地方税は領民の収入の3割までとし、其れに合わせてリンバート国民全員が払う国税を第一階級が肩代わりすると決めた。


これによりリートは第一階級の反感を一気に買ってしまったのだ。その第一階級に対する身勝手かつ冷淡な対応にリート・キラソンは冷血宰相などという不名誉な渾名を冠せられてしまった。


そして、その冷血宰相こそがエリーゼと結婚するその人なのである。


「俺だって不服なのだ。冷血宰相に娘を遣って、他家の者に目の敵にされてしまうかもしれないし」


伯爵が苦心した顔を浮かべる。如何やら今回の結婚は仕方なくといった様子だ。しかし、それは娘の身を案じると言った親心ではなく、己の身可愛さから来るものであるが。


「其れでも貴族の女がどこにも嫁がないのは避けなくてはならない」


「はい」


ここでやっとエリーゼが返事を返す。エリーゼは伯爵を確りと見据えている。その真っ直ぐな真っ直ぐ過ぎる眼差しに現状に何の気持ちも抱いていない視線に一瞬伯爵は息を呑んでしまう。


そして、慌てるように言葉を付け足す。


「と、兎に角キラソン公爵は唯一の存在なんだ。くれぐれも機嫌を損ねるような態度をするんじゃ無いぞ」


「はい。分かっております」


「んっ、そ、それじゃあ俺は先に会場に行ってるからな」


伯爵はそそくさと部屋から出て行った。驚いているのか怖がっているのかエリーゼには分からないが少し声が上擦らせながら。


エリーゼは閉まる扉を一瞥した後に光が差し込む窓の外を眺める。綺麗な芝生に立派な噴水だ。


「エリーゼ。準備は出来たかしら」


「…お母様」


立て続けの来客に辟易する様子を浮かべずに、エリーゼは視線を先程と同じ伯爵が立っていた場所に戻す。そこには黒髪の美しい女性が簡素ながらも細かい装飾が施されている真っ黒いドレスを身に付けて立っていた。


女性ーエリーゼの母であるラメス・トリスタンは紅色の唇を柔和に綻ばせていた。その瞳は優しく慈愛に満ちている。


ラメスは歩を進めエリーゼの頬にそっと高価なガラス細工を扱うみたいに触れた。


「凄く似合っているわ。とっても綺麗」


恍惚な口調で賛辞を告げる。


「有難うございます」


その賛辞をエリーゼは無表情で慇懃に受け取る。ラメスは手を頬から離し一歩下がった。そして、何処か悲しそうに微笑んだ。


「ごめんなさい。娘と二人っきりにしてもらえないかしら?」


ラメスは部屋に控えていた使用人の女性に突然退出を申した。使用人は其れを聞くと深々と頭を下げ了承の意を示しそそくさと部屋から出て行った。


使用人が部屋から完全に退出しドアを閉めたのを確認するとラメスは再びエリーゼと向き直り見詰めた。


「緊張してる?」


「いえ」


憮然と言う。しかし本心だ。エリーゼは自分でも不思議なくらい冷静で緊張していない。


「そっか」


ラメスはゆっくりと歩き出し窓の近くに行き、外を眺めた。その眺めている姿がとても美しく一枚の絵画を見ているかのようにエリーゼは感じる。


「お母様は…」


「ん」


ラメスが振り返る。エリーゼは続きを話そうと思うが次の言葉が不思議と出てこない。二人の間に沈黙が漂う。其れを払拭する為か分からないがラメスが、


「荒涼たる世界、東では太陽が照り付け作物は実らず水は枯れ、西では大地が揺れ人々が積み上げて来た物は瓦解させられ、南では大雨が篠を突き村が水に沈み、北では雪が降りしきり極寒の地となっていた」


一言一言確実にじっくりと噛み締めるようにラメスが一つの話を物語る。エリーゼはそれを聞いて懐かしい気持ちが湧き上がった。ラメスが続ける。


「人々は苦しみ悲しみ絶望しやがて絶望に慣れてしまった。そんな深淵な日々に一人の聖女フォスティノが舞い降りた」


エリーゼは静かにラメスの話を傾聴する。


「聖女フォスティノは神から授かりし力を使い荒れ狂う天候を鎮め、大地を豊かにし、人々に救いを齎した。人々はフォスティノに感謝し涙を溢しながら慕い崇めた」


「…聖女記ですね」


物語に一つの区切りが付いたと察しエリーゼは確認する。エリーゼの確認にラメスは頷く。


「そう。偉大なる聖女にして我々の大いなる母フォスティノのお話」


ラメスは鳩尾の上に手を合わせて目を瞑りながら笑う。


「急に如何して?」


エリーゼは突然ラメスの口外の意味を聞く。『聖女記』とは『女神の揺り籠』の唯一神にして初代教皇であるフォスティノが行った救済や祝福を示した書物でありラメスが先般語ったのは『聖女記』の序章『救済の章』だ。


『聖女記』はリンバート王国のみならず他国全世界の人々が必ず聞いたことがあり、この世にいる殆どの人が知っている昔噺である。そんな話を今更如何して話すのかエリーゼには良く分からなかった。


「え?うーん…ふふ。ふふふ。」


「な、何ですか?」


突然笑い出したラメスにエリーゼは困惑してしまう。


「ごめんなさい。ちょっと思い出し笑いをね」


「思い出し…?」


「ねぇ。エリーゼ覚えてる?貴方小さい頃毎晩寝る前にね『お母様聖女様のお話しして』って聖女記を聞きたがったのよ」


有っただろうか?エリーゼは幼い時分の記憶を明瞭に思い出すことは出来ない。


「途中からは私が聴かせなくても自分で話せるようになったのよ。でも私に話してってせがんでね」


確かにエリーゼは『聖女記』の記述を殆ど空で言える。其れは物心ついた頃から出来ていた。なるほど物心が付く前に覚えていたのかエリーゼは得心がいった。でも、


「何でそんな事を言うんですか?」


「何でって…緊張をほぐす為かな」


ラメスが顔を綻ばせる。その笑顔が娘がいるなんて思えないほど若々しく美しい。


「私は緊張してません」


「ふふ。そうね、でもね私は緊張してるのよ」


「私は」の部分を少し強調してラメスは少し照れ臭そうに含み笑いをする。


「緊張…」


その言葉にエリーゼは少し驚く。「緊張」とラメスの印象が余り一致しないからだ。エリーゼにとって母は常に凛としていて冷静である女性だった。そんなラメスが緊張とは思い難い。


「ほんとよ。可愛い一人娘の晴れ舞台なの。其れは緊張もするわよ」


「そうですか…」


「でも」


口に出す言葉を吟味しているのかラメスが一拍を置く。


「やっぱり嬉しい。娘のウエディング姿を見れて、娘と一緒にヴァージングロードを歩くことが出来て嬉しい」


「嬉しいですか…」


エリーゼは嬉しそうに話すラメスから目を逸らし視線を少し下げる。そして、ラメスが言った言葉を口の中で転がし、頭の中で反芻する。


ー嬉しいー


其の感情は本当はエリーゼが抱くべき感情なのだろう。しかし、エリーゼはどうも実感が湧かない。緊張も嬉しいも湧き上がってこない。もしかしたらこれを自暴自棄なのかもしれない。はたまた、茫然自失。現実から目を逸らし不快な感情を認識しようとしてないだけかもしれない。


でも、どうして?エリーゼは自問する。ここ最近自分はなんだか変だ。エリーゼは己を分析する。具体的には分からない。変、おかしい、何か違うそんな曖昧模糊な言葉しか出てこないが違和感という感情が適当かもしれないそんな感情がずっと腹の底、胸の奥、脳裡に巣食っている。


これは。これは一体何なのだ。分からない。気付かない。察せない。知らない。思い出せない。想起出来ない。この感情は、


「エリーゼ…」


「…」


母の声が突然近くなると同時に両頬が優しく触れられたのを感じた。暖かい。人肌だ。エリーゼは視線を上げる。すると目の前にラメスがおり、此方をジッと見ていた。


「お母様…?」


エリーゼは不思議に思った。自分を見つめているラメスの表情が憂いているように見えたからだ。娘の呼び掛けを聞いてラメスは眦を下げる。


「エリーゼ。貴方悲しいのね」


「…え」


一瞬エリーゼは母が一体何に付いて語っているのか把握できなかった。ラメスは続ける。


「とても悲しいのね」


「何を」


「だって貴方泣いてるわ」


泣いてる?誰が?私がだろうか。エリーゼは自分の目元に触れた。しかし涙なんて流していないし視界も明瞭だ。潤んですらいない。


「私は泣いてなんか」


「泣くということはね。涙を流すだけでは無いのよ。涙を流さなくても泣くことはあるの」


ラメスが被せる。頬に触れてた手を滑らせてエリーゼの肩に手を乗せる。ラメスの瞳がエリーゼを射抜く。


「涙を出さなくても心が泣いてることはあるの」


「…は」


息が溢れた。エリーゼは自分の中で不明瞭だった何かがどんどん形を成していくのを感じた。まるで違和感という鉄が鋳型に流されて形を成していくみたいに鮮明になってくる。


「心の哀哭に耳を塞いではダメ。胸の慟哭に目を背けてはダメ」


ラメスが首を少し傾けてまるで懇願するみたいに祈るみたいに語りかける。すると次の瞬間ラメスがエリーゼを包み込んだ。右手はエリーゼの頭を優しく撫で左手でトントンと背中を叩いて抱擁した。まるで幼児を慰めるように。


「ん…」


自分の体が熱くなるのをエリーゼは感じる。目頭が熱くて上手く息が吸えない喉が震える。


「お、お母様」


声が震える。もうダメだ。エリーゼは本能でそう感じた。もう誤魔化せないラメスもそして自分自身も。本当は分かっていたのだ。この違和感が何なのか。最初から知っていた。でも見て見ぬふりをしてたのだ。見てしまったら理解してしまったら認めてしまったら我慢出来ないと確信していたから。まるで決壊寸前のダムみたいにちょっとした衝撃で発露してしまう。


「エリーゼ」


娘の内面を知ってか知らずかラメスが名を呼ぶ。其れはただエリーゼ・ツインリヒという人間を特定する行いでは無くもっと確信的なエリーゼのアイデンティティを顕在化させるような深遠かつ近間な正鵠を射るみたいにラメスはエリーゼの名を呼ぶ。


「自分の悲しみを無視しないで。貴方は貴方自身を苦しめちゃダメ」


「っはぁ」


感情の濁流から顔を出しエリーゼは息を吸う。呑まれないように溺れないようにでも無駄だ。だってとっくのとうに、


「お、おかあさま…わ、私。わたし」


エリーゼの感情は手で掬い切れないほど溢れてしまっているから。


「苦しいや辛いや悲しいは悪い感情じゃ無い。其れは何の濁りもない純粋な自分の心の声だから。だから。エリーゼ我慢しないで」


「う、う、うあぁぁあ。わ、わだじ、おがぁさまぁあ」


赤子のように大きな声を上げる。エリーゼの薄ピンクの頬を涙が滂沱として流れ落ちていき感情が顕在化されていく。


「わ、わたし!ト、トリ、トリスタン様にいぃ!」


「うん…」


「愛してたぁ!慕ってたぁ!あの人の妻にぃ、なりたかったぁあ!」


「そうね。うん」


ラメスが頭を優しく撫で背中を一定のリズムで叩きながら頷く。慰めの言葉はかけず唯聞く。


「辛かったぁよぉ!苦しかったぁ!違うのにぃ私はぁ私はぁ!あの人にぃ!トリスタン様のおぉ!」


エリーゼは心の内を吐露する止めどなく際限なく。あの日あの時婚約者であったトリスタンに婚約を破棄されたあの瞬間。エリーゼの中にある何かは壊れてしまったのだ。彼女を彼女たらしめている何かが。其れは言うなれば存在意義、言うなれば生き甲斐、言うなればアイデンティティ、言うなれば純愛、言うなれば恋慕。


其れをエリーゼは壊されてしまった。砕かれてしまった。そんな事を当の本人であるトリスタンは知る由も無いだろう、そして、エリーゼ自身も知らなかった。本当は苦しいはずなのに、辛いはずなのに。其れを押さえ付けて封じ込めて無視して「平然」を装って「通常」を取り繕って「いつも」という仮面をかぶる。泣いてるのに涙を出さず。


でも、もう限界だったのだ。頑なに張っていた糸がプツンと切れるかのように、グチャグチャに絡まっていた糸がアッサリと解けるかのようにちょっとした契機でエリーゼは見詰めてしまうのだ。見てしまったら気付いてしまったら最後。もう其の感情は堰を切る。だから、


「ああぁぁあ!うわぁぁあ!」


エリーゼは泣く、鳴く、哭く、啼く。涙を、泪を、淚を、涕を流し続ける。其れは彼女がトリスタン・リンバートという青年を想い、慕い、愛していた最たる証左であろう。


娘のその慟哭を母は静かに受け入れて暖かく抱きしめる。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「落ち着いた?」


「は、はい。すみません…」


笑みを浮かべているラメスが問い掛け、エリーゼは頬に朱色を差し目元の涙を焦りながら拭い応える。あそこまで泣きじゃくったのはエリーゼの記憶上初めてであり、もしかしたら生まれた時以来かも知れない。何にせよエリーゼにとって先の号泣は些か羞恥心を掻き立てるものだった。


「大丈夫。泣いている我が子を慰めるのが母の役目だから」


さも当たり前かの様にラメスが言ってのける。

エリーゼは伏目がちに視線をずらし小さく感謝を告げる。ただ抱きしめてくれたその事が純粋に嬉しかったから。


暫しの沈黙が両者を支配した。すると突然ラメスが眉を八の字に寄せ心底申し訳ない様子で、いや、実際エリーゼに向かって謝罪をした。


「ごめんなさい。エリーゼ」


「え、」


いきなりの事に上手く対処出来ずに唯声だけを上げるが直ぐにエリーゼは母の謝罪の真意を正そうとする。


「ど!どうしたのですか?お母様。何故急に謝罪など…」


エリーゼは本当に分からない。自分が母に向かって謝罪するならまだしもラメスの方からなんて全く持って毫ほど検討が付かない。しかし、ラメスは表情に罪悪感を含ませながら視線を一瞬そらす。


「私、何も出来なかったから…」


「な、何もって…?」


「貴方がトリスタン殿下に婚約を破棄された時私何も…。知ってたのにエリーゼが人をいじめる子じゃないこと、知ってるはずなのに。私は何も出来ずに…ううん」


そこでエリーゼが首を横に振る。そして「違うの」と続けて、


「私は何もしなかった。親なら母なら子の為に…!でも、為すべきことをせずに今更泣いてる我が子を慰めるのは当たり前なんて言って、虫が良すぎるわ…」


「そ、そんな!違います」


己を卑下し言葉で自傷するラメスをエリーゼは咄嗟に止めようとする。そもそも何も出来なくて当たり前なのだ。エリーゼの婚約者であったトリスタンは王族、将来国王となるもの。そんな彼が言ったことは其れがどんなに理不尽であろうと正論として通されてしまう。もし其れを否定して止めようものなら一体どのような仕打ちが返ってくるか計り知れない。


だから、エリーゼにとってラメスの謝罪はお門違いであり即座に撤回してもらいたいものなのだ。しかし、ラメスは


「エリーゼ。…ごめんなさい」


貴族であろう人間が他者に其れも己の娘に頭を下げた。母のその姿を見てエリーゼは何とかして頭を上げさせようとするが上手く言葉が見当たらず心の底から戸惑ってしまう。何とかしようとしても平生の冷静さはさっきの大号泣を契機として一時停止してしまっている。其れにどんなに理路整然と論理を組み立て構築した言葉を投げ掛けたとしてもそんな堅固さを感じる物質的な言葉には大して意味は無い。だから、


「私は!嬉しかったです!」


エリーゼは考え、そして口外する。自分が母に掛ける言葉はもっと本質的かつ熱を帯びた本心だ。ラメスはゆっくりと頭を上げエリーゼの方を見る。その表情は目を少し見開き驚いてる。エリーゼが声を張り上げ続ける。


「抱きしめられて凄く嬉しかったです!暖かくてとても安心して、まるで赤ちゃんに戻ったみたいで…」


エリーゼは飾らず彩らず何も装っていない純然たる声を伝える。そして「すぅ」と息を一呼吸分吸い、


「私はとても幸せでした!抱きしめられて!そして凄く誇らしいです!お母様がお母様で!」


「エリーゼ…」


「だから!謝らないでください。大丈夫ですから!私はお母様が大好きです!」


エリーゼ自身も自分が一体何を言ってるのか把握し切れていないし恐らく滅茶苦茶なことを口走っているのだろうと考えている。でも、話した言葉は全て確実な真実であり嘘偽りはないそう自信を持っている。


部屋が又しても静かになる。エリーゼは目の前にいる母がどんな顔をしてるのか怖くて目を瞑っていたが恐る恐ると目を開く。其処には、


「エリーゼ」


目を潤ませ微笑んでいるラメスがいた。ラメスは暫しエリーゼを見詰めると目を細めニッコリと笑った。一筋の涙がラメスの頬をスーッと流れ落ちていく。


「私も誇りに思うわ。貴方が娘で」


静かに、しかしハッキリと伝えた。その声音には女性特有の優しさがあり、母特有の慈愛があり、そしてラメス特有の美しさが籠っていた。


一刹那エリーゼは母の美しさに惚けてしまったが、直ぐ其れに応えるかの様にラメスとよく似た笑顔を浮かべる。


「はい。心配は無用です。私はお母様を軽蔑なんてしませんし、ずっとお母様を愛しています。だから、私は…」


エリーゼは両手でスカートの左右を摘み少し持ち上げ片足を後ろに引き少し腰を落とす。そしてラメス上目遣いで見やり落ち着いた声で、


「私、エリーゼ・ツインリヒは今日結婚致します。お母様、私を産み長い間育てて頂き誠に感謝致します」


「ッ!」


「ありがとうごさいます」


「わ、私もありがとう。私の娘になってくれて」


エリーゼの感謝にラメスも声を振るわせながら返事をする。エリーゼはその声を聞き思わず泣きそうになってしまうがグッと堪える。少しでも気を抜いてしまえば先程と同じように泣いてしまうと確信しているから。だから、耐え普通を装う。母にもう心配を掛けないためにエリーゼはフッと微笑む。


今この時この瞬間には伯爵令嬢と伯爵夫人などの肩書きは微塵も無く、有るのは娘と母の一幕であった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「ふぅ」


「ふふ。大丈夫よ」


深く息を吐き出すエリーゼを見てラメスは緊張をほぐそうと含み笑いをし、そして握っている娘の手をギュッともう一段階強く握り締めた。エリーゼの方も応えて握り返した。


両者は今大きな扉の前に立っている。扉は白く天使や聖女などを模った装飾がされている。床は真っ赤な絨毯が敷かれておりその絨毯は閉まっている扉の向こう側まで続いている。


「お母様は、なんだか楽しそうですね」


「え、そう?」


ラメスがコテンと首を傾げ頬に手を当てる。続けて、


「そうかしら?うーん。そうかもしれない。夢だったから」


「夢…?」


そう言えばさっきも『娘とヴァージンロードを歩くのが夢』と語っていたことをエリーゼは思い出した。


ヴァージンロード。そうエリーゼとラメスはこれから扉の向こう側に行きヴァージンロードを歩くのだ。


『女神の揺り籠』という宗教は女性に対する敬いの念が深く存在している。初代教皇であるフォスティノが女性でありフォスティノはこの世界に於ける救済の母と認識されている為、聖女フォスティノと同じ性別である女性を敬うべきという考えがあり、また『聖女記』ではフォスティノには六人の娘がおり、その娘たちの子孫が我々人類と記されている。


いつの世も子を身篭るのは女性であり、女性が居なければ人類は繁栄しなかった其れが『女神の揺り籠』の基本理念として存在している。其の女性信仰は多くの行事や儀式にも反映されており、


結婚式では母と其の母が産んだ娘がヴァージンロードを歩き、そして新郎に対し母が娘を預けるという習わしになっている。


「やっぱり、憧れるわ。だって聖女フォスティノも娘を嫁がせる時一緒に歩いたのよ。女性、ううん。娘を持つ母の夢ね」


エリーゼの方に顔を向けそう言う。エリーゼは一瞬床に目を遣る。


「そう言うものですか?」


其の口調と瞳には何処か縋るような哀愁が篭っていた。其れを感じ取ったのか分からないがラメスは明るく自慢げに手を繋いでいない右手の人差し指をピンと立て、


「そう言うものです」


と鼻を鳴らしながら言う。エリーゼと真逆な態度に娘を気遣う母の優しさをエリーゼは感じる。再びエリーゼとラメスの間に沈黙が流れる。でも其れは控室の時に感じた重さや暗さ気まずさは無く、何処か心地良い。在るべくして在る沈黙そんな感じだ。すると、


ガチャッ!


其の音が鳴ったと同時に眩い光が射してきた。扉が開いたのだ。視界が強烈な光により白く飛んでエリーゼは思わず眇める。


「ねぇ。エリーゼ」


視界がハッキリしないエリーゼの鼓膜にラメスの囁くようなでもしっかりとした声が響いた。エリーゼは横にいる母の姿を見る。ラメスは口角を上げハッキリとした口調で、


「リート様はきっと良い御人よ」


と語りかけた。エリーゼには其の言葉の真意は分からない。母が何の根拠を持ちそんな事を言ってるのか。エリーゼ自体結婚相手であるリート・キラソンとは殆ど会った事は無い。彼がどんな人物でどんな事を考えどんな事を感じるのか全く知らない。


彼がトリスタンとは違った人間なのかも知らない。エリーゼの人生に於いて慕った男性はトリスタンだけであり、心の何処かで現在もトリスタンを思っている自分が居るのをエリーゼはうっすらと感じていた。だから、エリーゼにとって慕う男性はトリスタンであり、そんな自分がこれから会う男性を愛せるかどうかも分からないし、自信もない。しかし、愛せるのかもしれない。母が良い人と言うのだからそうなのかもしらない。エリーゼは漠然とながら心中にそんな念が生まれた。

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