第三話『報告』
ガラガラガラ。車輪が回る音が聞こえる。馬車だ。
その音に合わせて視界に映るものが左から右に流れる。煙突から白い温もりを感じされる煙を出している煉瓦の家屋、その前にあるジャガイモかキャベツか分からないが作物が育てられているであろう畑などが視界上でゆっくりと流れる。
「はぁ」
臀部から感じる心地よい振動を受けながらリートはため息を吐く。思い出されるのは昼間での王宮のこと。エリーゼ・ツインリヒとの結婚だ。本当によかったのだろうか。後悔ではないどちらかと言うと不安の気持ちの方が適当だ。
一時の感情で決めたわけでも無いし、確りと考えた。自分の選択は間違っていない…と思う。
「自分で決めた事だろ…」
外の田園風景を眺めながら呟く。自分で決めた事にさえ自信が持てない己の不甲斐なさ優柔不断さにリートは悪態をつく。
今、リートは自分の家に帰宅している。リートはリンバート王国の宰相であると同時にトゥルス領の領主でもある。トゥルス領は王宮から片道2時間もかかる比較的辺境の領地にある。
普通リートの様に宰相などの王国で役職に就いている貴族はわざわざ自分が納めている領地に帰る事は少なく、王宮の近くに新たな屋敷を買いそこで住むのが殆どだが、リートはそんな事はなく出来うる限る自分の領地に帰ろうと心掛けている。
国の重役に就きながら領地も蔑ろにしない。そんな領主が領民に嫌われる訳もなくリートは貴族にしては珍しい部類に入る領民に慕われている領主なのである。
その目付きの悪さからリートを初めて見る者は彼を性格が悪い奴や冷淡な奴などと思うが実際に関わると皆その考えを改める。
そんな人に勘違えされがちなリートは馬車のソファに深く腰をかけ嘆息する。
「ぉっと」
当然、リートの体が少し前のめりになる。着いたか直感的思った。案の定左側の扉から聞き慣れた使用人の声が聞こえてきた。
「リート様。到着致しました」
重厚かつ渋い声だ。その声が発せられた直後扉がゆっくりと開けられた。扉の前には皺一つなく綺麗にスーツを着こなしている白髪の老人がいた。老人と言っても腰は少しも曲がっておらず漂わせている雰囲気は厳格かつ泰然。
「ああ」
リートは体を少し屈めながら馬車から降りる。降りた瞬間リートの目の前には立派かつ豪勢な館が現れた。トゥルス領主の館つまりリートが住んでいる家だ。
何世代も前からリートの一族キラソン家が住んでいる館の為か、古い年月によって培われてきた重厚かつ静謐さが見るからに分かる館。リートは自分の館に向けて歩を進めた。
「カルン。私が居ない間何かあったか?」
歩きながらリートは後ろに控えている執事カルンに尋ねた。この質問は毎回リートが館に帰ってくる時に必ず聞くものであり、所謂日課だ。大半は何も無いと返ってくるのだが、
「ええ、ありました」
今回はいつもと違っていた。其れにリートは少し驚き、具体的に何かと聞いたがカルンは
「其れは直ぐ分かります」
と慇懃に笑って誤魔化した。リートはカルンを訝し気に一瞥したが直ぐに視線を前に戻した。
ーまぁ。そこまで悪いことでは無いだろうー
直ぐに疑念を消去した。リートとカルンは長い付き合いだ。其れこそリートが子供の頃からカルンは先代領主つまりリートの父親に使えていた為かれこれ40年程になる。
その為、リートとカルンは主従の関係でありながら何処か家族のような関係でもある。そんな家族のような執事が自分にとって悪いことを隠すはずはないだろうという何の根拠もないが無駄に自信がある観測だ。
既に館の敷地内に入っており、地面は玄関まで真っ直ぐと石畳が規則正しく敷かれていて、歩く毎にカツカツと耳心地の良い音が響く。
視線を左側に寄越すと大きな池がある。一方、右側は芝生の上に果物等が実っている木が何本か植えられている。リートにとってはいつもの光景だ。
目線を前方に戻すと、あと数歩の所に館の門が迫ってきている。しかし、タイミングを見計らったかのように扉が開いた。そして、そのままリートは館内に入って行った。
館は暖色系の光に包まれており天井を見上げるとシャンデリアが何個も吊り下がっている。この館は二階建てだ。一回は主に食堂や応接室または書斎や使用人の部屋がある。そして、前方には階段がありそこから二階に行ける。
二階は主にリートの寝室や今はいないがリートの息子であるミシルトの部屋がある。
「お帰りなさいませ。リート様」
そんな、今更ながら館の構造を思い浮かべていると凛とした美しい声が聞こえてきた。
其方に目を向けると見事にメイド服を着こなし、艶のある黒髪を後ろで纏めている実に綺麗な女性が頭を少し垂れながら立っていた。
「ああ。エイス今帰った」
リートの声を聞くとこの館唯一のメイドであるエイスは頭を上げ微かに微笑んだ。この館に仕えている者は異様に少ない執事であるカルンとメイドであるエイスと料理人だけである。
領主の館でそんなに使用人が少ないのは恐らくリートぐらいであろう。そもそもリートの性格として自分の身の回りのことは自分でしたいと考えており、また現在リートは離縁して妻もおらず一人息子も学園の寮に居るため使用人は必要最低限の人員に抑えている。
「リート様。お聴きになりましたか?」
突然、エイスが口元に手を当てて微笑みながらリートに漠然とした質問を被せた。勿論リートは一体何の事か分からず頭にハテナマークを浮かべる。その様子を見て、
「あら、カルン様まだ言っていないのですか?」
エイスは後ろに真っ直ぐとした姿勢で佇んでいるカルンに少し驚きながらまた質問した。その質問の意味が又しても分からずリートはますます疑問に思ってしまう。
そんな時、頭上から
「父上!」
芯の通った青年の声が響いた。その声の主はリートの事を「父上」と呼んで直ぐに二階から駆け降りてきた。その人物を見てリートは驚く。
「ミシルト!」
「はい!そうです!」
ミシルトと呼ばれた青年はリートの声に律儀に反応して顔に満面のまるで純粋な子供のような笑顔を浮かべて近づいて来る。
ミシルトはリートと同じブラウン色の髪に目鼻立ちの良い顔、スラリとした足と眉目秀麗な若者だ。
「何で?未だ寮にいるって…」
「へへ。父上を驚かせようと思いまして」
ミシルトは純粋な笑顔を浮かべて応える。彼、ミシルト・キラソンは離縁してしまったリートの前妻とリートとの間に出来た一人息子だ。歳はトリスタンやエリーゼと同じ18歳で二人と同じ学園に通っていた。
数日前に学園を卒業したと聞いていたが、もう暫く学園の寮に泊まると聞いていた為今こうしてリートの目の前に居るのはリートにとっては青天の霹靂だ。
「あ、二人が言っていたのは」
此処で漸くリートはカルンとエイスの意味有り気なセリフの意味が分かり得心がいった。如何やらミシルトの事らしい。
「久しぶりですね。父上」
当のミシルトはそんなの知らないと言った様子で楽しそうに話しかける。その姿があまりに無邪気でリートは思わず微笑んでしまう。
「そうだな。3年ぶりくらいかな。如何だった学園は?」
「とても良かったです!勉学も色んなこと知れましたし、剣術も魔術もまだまだだと思いつつもとても有意義な時間でした」
「其れは良かった。友達や恋人は出来たかい?」
「いえ!出来ませんでした!」
ミシルトがはっきりと言い放った。其れを聞いて駄目だったかとリートは心中で落胆してしまう。
ミシルトは眉目秀麗だし頭良く運動も出来る。この通り家族の前では明るく感情豊かに話せるしかし、其れはあくまでも家族と言う小さい共同体だけであり、初対面の人などと話す時は全くと言っていいほど喋らなくなり受け答えも淡白になってしまう。所謂、内弁慶と言うやつだ。
しかも厄介な事にミシルト自身が他の人と別に仲良くしなくても良いと考えている事だ。家族カルンやエイズなどの身近な人とだけ親しければ良いと思っている。其れをどうにかしてもらいたいと思いリートは学園の寮に入れたのだ。
しかし如何やらリートの策略は無駄に終わったようだ。
「はぁ」
思わず嘆息してしまう。しかし、ミシルトはそれが自分のことなどは微塵も思っていないようで、
「父上、大丈夫ですか?お疲れなのですか?」
リートを気に掛ける。その心から案じている表情を見て、
ーとても良い子なのだがなぁー
リートはしみじみとそう思う。リート自身ミシルトはとても素晴らしい自慢の息子だと思っている。18という齢でもこの様に父親と楽しそうに話す息子は居ないと思うし、容貌も自分に似ずとても端正だ。
だから、ミシルト自身が少しでも人と関わろうと思えば直ぐに周りから好かれるとリートは確信している。もっと多くの人と交友を深め、何なら恋人なども作って欲しいと思っている。
リート自身、政略結婚であまり上手くいかなかった経験を踏まえて息子には是非とは自由恋愛をしてほしいと考えているが、
目の前のミシルトを見る。ニコニコと何の混じり気のない純粋な笑顔。其れを見てもう一度小さく嘆息して、
「久しぶりの邂逅だ。夕ご飯を食べ乍ら、腰を落ち着かして話そう」
と優しく穏やかに言った。其れを聞いてミシルトは元気よくはいと返事をした。本当に嬉しそうだ。いや、実際リートも嬉しいのだ。息子と会うのも3年ぶりだしミシルトが居ない間は一人寂しく食事を取っていた為、誰かと食事は久しぶりでワクワクする。
其れに、
「少し話したい事もあるしな」
軽い足取りで食堂に向かっている息子の後ろ姿に向けてボソッと呟いた。その呟きはミシルトの耳には入らず、直ぐに薄れて無くなってしまった。
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「何?文官を目指すのか?」
縦長テーブルの頂点に座り、口にステーキを運ぼうとしていたリートは思わず手を止めて右斜め前にいるミシルトに聞き返してしまった。
「はい。その為経済学や政治などを勉強して文官採用試験を受けようと思っています」
文官。リンバート王国には多くの文官がおり、それぞれ担当する分野がある。文官の任用を担当する官部、財政の財部、軍事の軍部、司法の司部、建築や土木の建部と五つの部(=五部)に分かれている。
そして、其れらと包括的に関わり公平な立場で見極める宰相、そして最終決定をする国王というふうに分かれている。その文官になるには年に一回行われる採用試験を受けて合格点を取る必要がある。
「ちなみに何処を受けるんだ」
文官採用試験は五部の何処を目指すかによって試験内容が大きく変わる。その為、受験する者は自分が目指す『部』を予め決めておいて其れに合わせた試験勉強を行う。
「宰相です」
「な!」
思わずリートは声を上げてしまった。そして、続け様に問い正す。
「ミシルト本気か?宰相を受けるなど」
「はい。本気です。何で父上はそんな驚いているのですか?」
平然としているミシルトと対称的にリートは焦ってしまう。其れもそうだろう。まさか息子が宰相を目指すとは思わなかったからだ。宰相は全ての『部』を管理する立場であり、その立場に就くのはそう簡単では無い。
五部全ての知識が試験に出る為、勉強する内容は計り知れないし、もし其れに合格しても五部全てに其々3年間所属する。其れが終わっても宰相になれるわけではなく、其々の『部』のリーダーから宰相の地位に就いて良いか見極わめられ、もし一人でもその者は宰相の地位に就くべきでは無いと判断したら又しても一から其々の『部』に三年間所属しなければならない。
万が一、『部』のリーダー達に認められても王がその者を拒否してしまえば永久に宰相になれない。
つまり、宰相を目指すとは途轍も無い激務の上に其れを乗り越えたとしても地位が約束されていない、とても不安定かつ不公平な事なのだ。やっとのことでなれたとしても、五部とは一線を画す程神経をすり減らす役職である。其れはリート自身が一番分かっている。
だから、リートとしてはそんな仕事をわざわざ息子にやらせたいとは思えない。
「わざわざ宰相になる必要はないだろう。何なら文官になる事もない。ミシルトは将来この領の領主になるのだから」
リートは宥めるように説得をする。しかしミシルトは全く揺れ動く様子はない。
「勿論、領主としても役割もしっかりとこなします」
「なら、文官は」
「でも、僕は目指します」
ミシルトがキッパリと屹然と言い放つ。その声は何の迷いもなく、その瞳は強い意志がある。その様子を見てリートは思わずたじろぐ、ミシルトは決めた事はやり通す性格だ。其れはリートが一番知っている。しかし、助けを求めるかの様に後ろに控えているカルンとエイスに目を配る。
だが、二人は無駄だと言わんばかりに目を瞑り首を横に振る。二人もミシルトとは長い付き合いだ。何も適当に判断しているわけではあるまい。リートは深く溜息を吐きミシルトを又しても見る。
「文官は良いとして、わざわざ宰相を目指すことはないだろう」
「如何してですか?父上は実際宰相じゃありませんか?」
ミシルトは少し気色ばんで問う。
「私が実際宰相だからだよ。この地位はそんな簡単なものでは無い」
「簡単だと思っていません」
二人の会話がどんどん熱を帯びてくる
「其れに試験を通ったからと言って宰相に必ずなれるとは限らない」
「分かっています」
「いいや、分かっていない」
「父上は僕を否定したいのですか?」
ミシルトが眉間に皺を寄せて少し苛立たしげに問い掛ける。
「違うよ。私はミシルトに苦労な道を歩んで欲しく無いだけなんだ」
「其の道が苦労かどうかは自分で見極めます」
「そもそも何で宰相なんて辛いものを選ぶ?」
「其れは…」
一瞬、ミシルトの言葉が詰まる。目を泳がして頬が少し赤くなっている。何処か気まずいと言うより恥ずかしいと言った様子だ。
「ん?何だ。言いづらい事なのか?」
「い、いえ。そういうわけでは…」
何かやましい理由があるのなら尚更認められない。リートはジッとミシルトを凝視する。すると、
「次の文官採用試験は来年の2月です。まだ、一年近い時間があります。今すぐ決めるのは些か早計かと…」
後ろに控えているカルンが助言を呈する。リートは其れを聞いて納得する。
ーまだミシルトも子供だ。試験勉強を始めたら宰相を目指す辛さも理解するだろうし、考えも改めるだろう。その時また話した方が良いなー
「そうだな。取り敢えずは近々の試験に向けて頑張りなさい」
リートはミシルトに向けて穏やかな笑顔を向ける。そして続けて、
「すまないな。少し昂ってしまった」
素直に謝罪する。
「いえ!僕の方こそすみません。父上。僕の為を思っての言葉と分かっていながら…」
リートが申し訳なさげに落ち込む。やっぱりこの子は良い子だ、他者の心を考えることができる優しい子だとリートは思う。慈愛に満ちた目線を向けてリートはフッと微笑む。
パンッ。
リートが突然手を叩く。その音を聞いてミシルトが目を丸くする。リートはミシルトを見る。
「さっ、ご飯を食べよう。冷めてしまったがな」
「え、あ、はい!」
一瞬、ミシルトは呆けたが直ぐに元の笑顔に戻りご飯を食べ始める。リートはその様子を穏やかに眺めて自分の皿に目を向けた。しかし、
「リート様」
カルンに突然名を呼ばれた。何事かと思い目を向ける。
「何か話すことが有るのでは御座いませんか?」
「え?」
一体何のことだろうか。リートは瞬時に理解できなかったが即座に「あ」と呟き思い出した。結婚の事を失念していたのだ。ミシルトとの会話に専心していて忘れていた。そうだ、そもそもこれについて話すのが目的だったのだとリートは思い起こす。
ミシルト、カルン、エイスが見つめてくる。三人に目線を配りながらリートは決心し、最も関係があるだろうミシルトに向き直る。
「あー。えっと。そうだな。ちょっと皆に伝えることが有るのだな」
「?何ですかそれは」
頭にはてなマークを浮かべて聞き返す。
「その。リートはエリーゼ・ツインリヒ伯爵令嬢を知っているか?」
「エリーゼ…?ああ。学園の…」
「確か同級生なのだな」
「ええ。まぁ。殆ど話した事は有りませんが」
「その。如何なのだ?」
全く要領を得ない質問、さっさとエリーゼと結婚すると言えば良いとリートも分かっているのだがどうにも上手く言い出せず思わず遠回りした言葉しか出ない。
「如何とは?」
「その、印象というか。ミシルトはエリーゼ様のことをどう思うのか…」
「僕は彼女と余り関わったことが無いため…詳しくは分からないですが。でも聡明な方という印象でしょうか」
「そ、そうか」
「あの、父上どうも要旨が掴めないのですが」
煮え切らない態度に耐えかねてミシルトが本質を掴もうとする。
「そうだな。ふぅ。そうだな。うん」
リートは短く深呼吸をして覚悟を決める。キッとミシルトを見据える。
「エリーゼ様が婚約をしていたというのは知っているか?」
「ええっと、確か殿下と…。でも卒業パーティーの時婚約を破棄されて」
「そうだ。其れでな。新しく婚約をする者を見つける必要があるのだ」
「はぁ」
「其れでな見つかったのだ」
「そうですか」
「その、見つかった相手というのがな、えっと、その」
「ん?」
「…ふぅ。わ、私なのだ」
言った。いい歳して緊張するなんて情け無いとリートは自分を卑下する。一体ミシルト達の反応は。
「…へ。え、っとあのつまり父上がそのエリーゼ・ツインリヒと結婚するということなのでしょうか?」
「あ、ああ。まぁ。そうだな。私は結婚する」
静かだ。食堂から音が消えた。時が止まったみたいに、でも実際に時は止まっていない。ミシルトは唖然とした表情、驚いているのだ。当たり前かいい歳した父親が自分と同級の娘と結婚するのだから驚くのも無理はない。もしかしたら軽蔑をしているかも知れない。