プロローグ
暇つぶしに書きました。
カンカンカン。鉄製の階段を一段一段確実に踏みしめて登っている。一段登るごとに甲高い足音が彼の耳朶を打つ。左右は壁で幅としては4メートル程だろうか、周りは薄暗く辛うじて目の前の階段が見えるほどだ。
後ろに目配せをすると真っ暗な深淵が広がっている。一方視線を少し上に向けると目を細めたくなるほど眩しい光が目を突き刺す。真っ白で後ろの真っ暗とは綺麗な対比になっている。
階段を登っている人物は寂しくなったブラウン色の頭髪に痩せ細った身体目は鋭く、その目で睨まれた人物は恐怖、嫌悪など少なくとも良い感情は抱かないだろう。しかし、平時であれば他人を凄ませる目も今は暗く生気がない。死んだ目と言うのが適当だろう。服装は貴族特有の上質な物だが、着ている本人の雰囲気と服装が些か不一致だ。
「おい!もっと早く登れ!」
激しい怒号が真後ろから聞こえた途端、背中に鈍い疼痛が走った。拳で殴られたのか、その痛みを齎した人物に視線を投げかける。その人物は鈍色の西洋風の鎧を纏った中年の男。見た目で兵士だとわかる。
「何だその目は!」その兵士は向けられた視線に気付くと此方をキッと睨みつけて彼の顔面に唾を飛ばしながらもう一度背中を殴りつけた。
「いや」
反論してやろうとする気持ちも気概もない。彼は平坦な返事をして視線を前方に戻した。
「ふん!貴様のようなクズがこの俺に歯向かうなんて思うな!」
歯向かってなんかいない。しかしそんな事を言えば後ろにいる兵士を憤慨させるのは火を見るよりも明らかだろう。
それにしてもクズか。兵士が吐き出した言葉を彼は脳の中で転がす。彼とは別に初対面ではない。まぁ初対面では無いとは言っても王宮でよく門番をしている彼に対して挨拶をする程度の関係性だ。知り合い以上知人未満と言ったところだろうか。そんな薄い関係性の彼にクズと呼ばれる筋合いはないと思うしクズと呼ばれるような行いをしたとも思わない。でも、仕方ないのかも知れない。今のこの状況は罪人を後ろから監視する兵士と見えるかもしれない。否、実際そうなのだ。階段を登りながら彼はそうな事を漠然と考えていた。
呑気なものだな。こんな状況に陥り乍らもこんな考えを巡らせるなんて自分の能天気さに思わず彼は思わず失笑しそうになる。しかし、今ここで笑ってしまえば背後の兵士に小突かれるのは判然としている為押し殺す。すると、
「よぉ。ほら見ろよ良い天気だぜ」
先程の対応とは打って変わって後ろの兵士が何処か楽しそうに言う。しかしその口調には何処かドロっとした嫌味の様な雰囲気が感じられる。
彼は今まで下に向けてた視線を上に向ける一瞬眩い明るさに目が眩み手を翳そうとするがそれは出来なかった。手が言うことを聞かないと言うより聞かせてもらえない。端的に言えば縛られているのだ。そして後ろの兵士がそのしばっている紐を握っている。
こんなものをせずとも自分は逃げないと言うのに、これではまるで本当に罪人みたいではないか、いや、実際そうなのかもしれないな。自分の現状を俯瞰的に見て彼は心の中で呟く。
「最高の晴れ舞台だなぁ。おい」
晴れ舞台。なんてあからさまな皮肉なんだ。これから自分が辿る末路を知った上での言葉なんて、性格の悪い奴だな。彼は悪態を心中で吐きながら斜め前から降り注ぐ光が完全に体を照らし出すのに気付きとうとう階段を登り切った。
空を見上げると爛々と輝いている太陽と玲瓏たる青空が広がっている。美しい。確かにこんな素晴らしい天候で行われる行為は全て最高の晴れ舞台なのかも知れない。天を仰ぎ見ている顔を元の位置に戻して彼は視線を前方に向ける。
視界にまず映ったのは木製で出来た機器だ。少し下に綺麗な丸にくり抜かれた木の板が立っている。膝をつけば丁度首がすっぽりハマる位置に穴がある。その板の両端から二柱の木の棒が伸びている。目線を上にスライドさせると両端にその二柱の木の棒が挟まっている形で鈍い銀色をした大きな刃があるのが分かった。
刃にはロープが繋がっておりそのロープを一人の兵士が握っている。恐らくそのロープを手放した瞬間、刃が一気にスライドする仕組みなのだろう。断頭台、ギロチンこれはそれだ。人間を殺す為の機器。そのギロチンの犠牲になるのは言うまでもないだろう。
「ほら、歩け!」
ドンと背中を思いっきり押されて強制的に歩みを進めされられ、彼はギロチンの目の前に立たされる。それと同時にギロチンの向こう側に何があるのか理解する。人。人。人。そこには夥しいほどの人がいた。
ガヤガヤと乱雑で大きな喧騒を生み出している。しかし、人々がこれから処刑されるであろう彼を其々の視界に収めた途端、喧騒はピタッと一瞬だけ止まった。そして、次に聞こえてきたのは先般とは比べ物にならない程の喧騒、いや怒号と言っても良い程のものだった。
一体彼らが何と言っているのかは分からない。だが、一つだけ彼等の言葉に共通性を見出すとしたらそれは憎悪とも言ってもいい感情だ。
民衆は此方を見て何事かを喚き散らしている。暫くすると耳も慣れたのかポツリポツリと認識できる言葉が出て来た。
ーー巫山戯るな!死んでしまえ!お前のせいで!このクズが!俺たちが苦しんでるのに!ーー
やはり聴こえたのは純然たる悪意が籠った言葉ばかりだった。目線を端から端までスライドさせ彼は人々を眺めた。皆彼を憎悪の籠った眼光で凝視しており、その様子を見て彼は嫌われたものだな。何処か他人事で考えている。
其処でふとある色が彼の視界を掠め取った。
ー銀ー
それは綺麗な銀色だった。キラキラと太陽光を反射しておりそのせいもあってか不思議な神聖性が感じられる。その銀色をぼーっと見ていると段々とそれにピントが合って来てその銀色が明瞭になって来た。それは髪だ。綺麗な銀色をした波打っている髪なのだ。
そして、髪の持ち主である人物も分かるようになってくる。遠いながらもその人物の容貌が鮮明になって来る。美しい女性だ。歳は18.9歳だろうか。小さい顔に少し吊り目乍も凛々しさを感じさせる目鼻筋は綺麗に通っており肌も陶器のように美白だ。服装はビロードであろうか見るからに上質な紺色のドレスを身に付けている。貴族。顔立ちや服装、また周りの人達と明らかに一線を画すほど気高い纏っている雰囲気からそうと分かる。
その女性は人混みを掻き分けて断頭台の前に立っている彼の方に向かって何かを叫びながら近づこうとしていて、その形相は焦燥と恐怖で染まっている。
しかし、この人混みと喧騒。彼女は思うように進めず大津波に呑まれるかのように近づくとは裏腹に遠ざかってしまい、その為彼女が何を叫んでいるのかも勿論分からない。そんな彼女を見て彼は、
「何で」
掠れた声しか出ない。なぜ彼女が此処にいるのか断頭台の餌食になる彼には些か理解が出来ない。彼にとって銀髪の彼女がいる事は予想外な事態だ。しかし、だからと言って今更どうすることも出来ないと、彼は即座に諦観を受け入れ、そして、先程の生気のない瞳に暖かく優しい柔和な感情を込めてその女性に向かって優しく微笑んだ。
その微笑みを見て女性は一層顔を青褪めさせた。続けて、大きく口を開けて何かを叫んだがやはりそれは周りの喧騒に呑まれて聴こえない。
「おい!さっさと膝をつけ!」
背後の兵士が彼の膝裏を思いっ切り蹴り強制的に膝をつかせる。それにより板に空いている丸い穴が丁度目の前にある状態になった。恐らくその穴に首を嵌めることで固定し頸部を断つのだろう。
カツカツカツ。左横から足音が聞こえて来た。彼は音が聞こえた方向に目を向けると上質な恐らく革製の靴にこれ又見るから材質の良いズボンを身に付けた細長い足がやって来た。視線を上にスライドさせて隣にやって来た人物の全体像を確認した。貴族風のコートを纏い右手には筒状に丸められた紙を持っている一人の男性だ。その人物は彼のほうをチラと見た後、直ぐに視線を前に戻し右手に持っている紙を開いて大きく息を吸った。そして、
「これより、リンバート王国に於ける民衆との協約に基づき、我が国に混迷を齎した責任者として宰相リート・キラソンの公開処刑を行う!」
と思いっきり声を張り上げた。それに呼応する様に民衆は大地が揺れるていると錯覚するほどに叫び出した。
耳をつん裂く声を聴きながらもう一度、
彼ーリート・キラソンーは煌々と輝く空を見上げた。
ーああ、本当に綺麗だなー
しかし、即座に首根っこを乱暴に掴まれて頭を目の前にある穴に押し込まれる。もう逃げられない。嫌、そもそも逃げる気などリートには毛頭ない。これから行われるのは一種のパフォーマンスの様なものなのだ。
これに何か大きな益が有るかと問われれば無いと答えるしかない。しかし、その人命一つを代わりに行われるパフォーマンスをリートはただ享受するのだ。それは強い意思を持ってなのか、はたまた諦観に依るものなのかは分からない。
リートは銀髪の女性に又しても目を向ける。彼女は今にも泣き出しそうに顔を歪ませて、何かを叫んでいる。
ーーああダメだよ。エリー。君には泣き顔より微笑ってる方がずっと似合ってるんだからーー
リートは心中で銀髪の女性をエリーと呼び、今この事態に場違いな事を考える。
「民よ!よく聴け!今日ここで冷血宰相は死ぬ!」
横に立っている男が群衆に向かって叫ぶ。そして続けて
「そして!我が国は生まれ変わるだろう!」
と手を大きく広げた。まるで、演劇の一幕みたいだ。群衆は彼の言葉に感化されたのか一際大きな歓声を上げた。その歓声を聞いて満足したのか横の男はゆっくりと刃に繋がっているロープを持っている兵士に対して目配せをした。
其れに対して兵士は頷いた。そして、握りしめていたロープをパッと手放した。その瞬間首を断つ巨大な刃がとんでもない速度で落下し始める。
ーー死ぬーー
リートが捉えている世界がゆっくりになる。世界が静寂に包まれる。何も聞こえない。不思議と恐怖はない。
ーー私が死ぬ事により、国は一つの転換期を迎え新たな道を歩むだろう。私は謂わば先導者なのだ。その新たな道を先頭に立って歩み、導く。こんなに光栄な事はないーー
リートは自分が死ぬ大義を見つけ、其れを誇りに思う。しかし、
ーーああ。でも、やっぱりもう少し生きたいと思ってしまうものだなーー
家臣の顔が思い出される。息子の顔が思い出される。そして、愛しい妻の顔が思い出される。リートは視線を少し上げ銀髪の女性を見つめる。そして、絶対に聞こえないであろう。静かな声を上げた。
「愛してーー」
ガシャン!!!
リートの言葉は最後まで紡がれる事は無かった。
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この日、この時、ある男は死んだ。国を想い、民を想い、臣下を想い、家族を想い続けた。たった一人の男が死んだのだ。民はその事実に只々喜んだ。これで苦しまなくて済むと言った何の根拠もない空っぽな歓喜を抱く。
ある女性は悲しんだ。彼を想い彼に想われた女性はそして恨んだ。国王を民を国を恨まざる負えなかった。そうしなければ彼が余りにも報われなさ過ぎる。そう思い。
ある青年も恨んだ。しかしそれは己に対してだ。何も気付かず何もできなかった弱い自分を恨んだ。
だが、誰が彼の死をどう思おうが彼の物語が終わったのには変わりはない。
人々は彼の物語をどう思い捉えるであろうか?滑稽な喜劇だろうか。はたまた、身を焦すほどの熱い恋愛劇だろうか。はたまた、余りにも報われない悲劇だろうか。
どれにしろ、今、此処で幕は下りた。これから始まるのはちょっとした前日譚。