迷えない子羊
皆さんは「迷える仔羊」という話を聞いたことはあるだろうか。元は聖書に書かれたイエスのたとえ話であり、そこでは仔羊ではなく羊とされている。
今から軽く内容はここにまとめるが、詳しい内容は各々で調べてほしい、私は説明が苦手だし、嫌いだ。
あるところに百匹の羊を飼っていた羊飼いがいた、彼(彼女かもしれないかここでは便宜上彼と呼ばせてもらう)はその羊たちを一匹一匹大切に思い、扱っていた。
ある日、草を羊たちに食べさせようと草原に百匹を連れ出かけていった。
たくさん草を食べ、羊たちが満足したところで羊飼いは帰ろうとしたが、一匹羊がいなくなっていた。
羊はその時には、谷に落ちていた、情けない鳴き声をあげて、誰でもいいから救ってくれとでも言うように。
それから紆余曲折など欠片もなく羊飼いは羊を見つけ、百匹で帰った、という話だ。
この話は聖書の話なので、勿論教訓がある。
それは神さまは私達を探してくださるということ、そして迷える仔羊が帰ってくることは、九十九匹(この場合は九十九人のクリスチャンとなる)がいる事よりも喜びが大きいということだ。
だがここで疑問に思った人はいたのではないだろうか。そう、ここにおける神さまがキリスト教におけるヤハウェだと仮定するなら矛盾が発生するのだ、神は生命と義と知恵と力と善と慈しみとの源泉とされている。
だがもしこれを全て満たす存在が神であり、この羊飼いをそう例えるならば、羊を見逃すことはない筈なのだ。
つまり神は、羊をわざと逃し、教訓にするために羊を谷に突き落としたのだ。
だから私は学習した。
もう私は、あの場所から離れない。
私は普通な高原の普通な風車小屋で生まれた普通な女の子だ。
私は普通なのだから、他人と違うことは一生しないと14の時髪に誓った。
周りは皆何かを神に誓い、祈っていたから私も祈った。
周りは皆、怪我をしていた、私も怪我をしようとして、風車小屋の羽に捕まった。
子供一人くっついたぐらいじゃ、巨大な風車は止まらない。
子供一人飛び降りて、顔面を地面に打ち付けて。
一つの命が散っていった。
一つの神との誓いを、私は果たした。
皆最期は死ぬんだから。
皆一緒なんだから。
だから私は怖くない、もう私ははぐれない。
だから私は死んでった、はぐれないために飛び降りた。
神なんかのために谷には落ちない。
神なんかより、私のために。
谷に落ちるより、風車から落ちて。
谷に落とされるより、自分で落ちて。
たった一人の命は、風車の下で消えてって。
たった一人の子羊は、仔羊へと成り下がる。
なんて皮肉な最期だろう。
なんて不幸な最後だろう。
だってあの後あの神は。
私を刈って食べたもの。
記憶解説終わりです、ちなみにシックスが語り手の話は一つもありませんでした。