ブルーマウンテン
*
男は女の前に跪いて泣いた。顔を上げると、
しゃくりあげながらそっと呟いた。
「すまない」
「勝手で」
*
桜のつぼみが膨らみ始めたころ、Aは理沙の元から姿を消した。理沙の一生をかけて愛するはずだった人間が彼女の手の中からそっといなくなってしまった。理沙はAの些細な癖まで思い出した。考え事をするときに顎の下を触るしぐさが本当に可愛らしかった。Aがよく飲んでいたコーヒーがあった。豆にまでこだわってよくAは馴染みの喫茶店にまで買いに行っていた。ブルーマウンテン。理沙は引き出しの奥からブルーマウンテンを入れジップロックを取り出した。「コーヒー豆は乾燥に弱いから、すぐに風味が飛んでしまう
んだよ」理沙は“一人分”のコーヒー豆を取り出して、ミルに入れる。ガリガリと豆を砕く音が部屋に空虚に響く。お湯を注ごうと思ったが、薬缶を火にかけるのを忘れていた。いつもはAが豆を挽き、理沙が湯を沸かしていた。理沙はコーヒーすら一人で淹れられないのかと嘲笑に浸った。二人で買ったコペンハーゲンのカップにコーヒーを入れた。久しぶりの一杯。それは、酸味も苦みも華やかな香りもいつも通り味だった。完璧なコーヒーではないが、懐かしい雑味も含まれていた。世界一のバリスタではなくAのコーヒーに世
界一の価値があるのだ。Aの腕に抱かれて寝た夜が蘇る。その腕は雷の音に震えていた。コーヒーの水面に映った理沙はどこか遠くを見つめていた。
*
なぜだろうか、夢だろうか目の前にはAが立っていた。それも前とは違う格好で。目深にキャップを被り、Tシャツとダメージジーンズを男らしく着こなしていた。ふと胸部に目
をやると、そこにはあったはずの膨らみは無かった。かなり大きかった胸をかつて理沙は手で優しく愛撫していた。
「なんで、おっぱいがないの」
「タイに行って、おっぱいと子宮を摘ってきた」
Aは下唇を噛みながらキャップを取った。わずかながら、顎に髭が生え始めていた。
「男性ホルモンの投薬もしている」
「男になりたかった。男として理沙を愛したかった」
Aの瞳の端には涙が溜まっていた。他人からの視線に一番臆病だったのはA自身だった。Aは理沙の前に跪いて泣いた。顔を上げると、しゃくりあげながらそっと呟いた。
「すまない」
「勝手で」