第12話 十二番目の悪魔・下
旧題「月天曰く、其は勇者」
カクヨム版から編集しています。
ジェイムズが剣を振り下ろした瞬間、全方位に朱色の閃光が飛散した。
朱色の閃光は距離をとって牽制していた騎士にすら届き、鎧諸共切り裂いた。構えた盾が砕け、剣を持つ腕が落ち、首が飛ぶ。
一瞬で周囲は血の海へと変貌した。血と肉片の飛沫の中で騎士達が倒れていく。
ガルドは閃光に聖剣の炎を当てて弾いたが、防ぎきれなかった閃光が肩当ての装甲を切り飛ばした。
その場に立っているのはジェイムズとガルドの二人だけだった。騎士達は皆、痛みに喘ぎ倒れ伏していた。二度と立ち上がれないものも少なくはなかった。
「兄さんの部下であるのに、容赦なし、か」
ガルドの声は僅かに震えていたが、剣を握る手は平静を保っていた。
「お前が悪いんだ。俺に話しかけなければ、お前と戦えるだけでよかった」
脂汗をにじませ、死相が見え始めても尚ジェイムズは不敵に笑った。
「意味のない説得で水をさされるのは、興醒めだろう?」
ジェイムズがまだ正気を残していると分かれば、教会騎士達は攻撃を躊躇するだろう。言葉で引き戻そうともするだろう。それが煩わしいとばかりに、ジェイムズはかつての同胞を叩き伏せたのだ。
実弟のガルドと本気で戦うという目的の為に、やってのけたのだ。
「それだけの為に、兄さんは――」
ガルドの目はジェイムズの行動を非難していた。
「リーフとか言う殺し屋を追い詰めたとき、お前は説得しようと考えたか?」
「……っ」
ガルドの目が揺れた。
「そしてお前はあのとき、許しを乞いたのか?」
ジェイムズは血痰を吐きながら、言葉を重ねた。
ガルドの顔が険しくなり、ぐっと奥歯を噛み締めた。
「ああ、知っていたさ。お前が隠そうとしていたことなんてな」
ジェイムズの言葉がガルドに突き刺さる。ガルドは平静を保とうと堪えていたが、剣を握る手に力が入っていた。
「多少剣の腕が立つだけで、特別になったつもりか。お前もあの女に」
「――黙れ、それ以上はシルヴィア様への侮辱と受け取る」
温度の下がった声で、ガルドが発言を遮った。ジェイムズは侮蔑するような笑みを浮かべた。
「はっ、仲間を殺し、俺を殺した売女をまだ崇めるのか!」
「違う!」
ガルドは迷いを振り切った目で、ジェイムズを見据えた。
右目は髪に隠れて見えないが、両目で見据えているのは明らかだった。
怒りを振り払い、鳶色の目に刃の鋭さを湛えてジェイムズに剣を向けていた。
「……俺が、俺がシルヴィア様を殺す。ジェイムズ、貴方もだ」
ぱらり、とガルドの周囲を火の粉が舞った。聖剣がガルドを鼓舞するように炎を噴き出した。
「神を冒涜するものは何であろうと、容赦はしない」
ガルドが身に着けていた防具の残骸が剥がれ落ち、黒い制服姿になった。
第十二隊教会騎士の纏う黒い衣は、守護神ロエールに忠誠を捧げた唯一の悪魔ヴレイヴルに由来する。信念の為に同胞と決別し、その身を贖罪と献身に捧げた勇者の色はガルドに相応しかった。
「ああ、そうか」
ジェイムズは顔をしかめた。挑発するつもりが、竜の尾を踏んだのだ。
口元に残る血痰の残滓を手の甲で拭い、震え始めた指で魔剣をがっちりと掴んだ。指先は冷たく感覚がなくなっていたが、手にありったけの力を込めて上段に構えた。
既にジェイムズの身体は魔剣の副作用で内部がぼろぼろになっていた。朱色の光を放つ度、内蔵に針を刺しこまれるような激痛が襲っていた。
吐血したことからも、本当に体内が串刺しになっているのかもしれない。
それでもジェイムズは魔剣から借り受けた力を行使し続けた。
魔剣の表面に朱色の閃光が走るのと同時に、ジェイムズはガルドに踏み込んだ。
「はああああ――――っ!」
気合と共に、魔剣が振り下ろされる。
魔剣に宿る光の強さは騎士達を薙ぎ払った時と同等以上。真正面から受け止めれば聖剣といえど無事では済まない。
ガルドも聖剣を下段に構え、突進した。聖剣の纏う赤い炎が剣先から尾を引いて流れる。
「うおおおおっ!」
魔剣に先んじて、聖剣が跳ね上がった。
朱色の閃光が赤い炎を圧殺するよりも速く、細剣の如き技巧で魔剣の切っ先が僅かに左へと弾いた。
放たれた閃光は延長線上の廃屋を吹き飛ばし、ガルドの顔の左半分が赤く染まる。ガルドの身体が前のめりに沈み込み、右に傾きながら倒れていく。
放心した動きにジェイムズが勝利を確信した瞬間、ガルドの右足に力が入る。
大地を割れんばかりに強く踏みしめた右足を軸として、ぐるんとガルドの身体が旋回する。跳ね上がった聖剣が、急速に下降し、荒波のように突き上げた。
抉るように放たれた突きは、寸分違わずジェイムズの心臓を貫いていた。
ガルドの前髪が風圧で払われ右目が露出する。左目と同じ鳶色、目尻に走る傷は涙の跡にも見えた。
「――――あ」
ガルドの右目を見つめたまま、ジェイムズは絶命した。
ガルドが捻りをつけて剣を引き抜くと、ジェイムズの身体は前に倒れた。ガルドはジェイムズを受け止めることなく、地に伏せるに任せた。
顔についた血を拭い、ガルドは息を静かに吐き出した。魔剣の一撃は左耳と結い上げた髪、僧帽筋を切り裂いていた。閃光の余波で制服の左袖が吹き飛んでいたが、負傷はかすり傷程度と浅かった。
血を吐きながら戦っていたジェイムズに対して、余りに軽微で、圧勝と言って差し支えない程の力の差だった。
「クククク……」
ガルドの足元から笑い声がした。死んだ筈のジェイムズの指が動いた。
胸から血を流したまま、ジェイムズは魔剣にすがりついて起き上がった。
心臓並の大きな血痰をがはりと吐き、口を左端を釣り上げて歪めた。痰が絡んだ喉がクケケ、と音を立てた。
「すげぇな、テメェは」
立ち上がる力は残っていないのか、魔剣を抱え込むようにしてジェイムズは座り込んだ。
ガルドは冷めた目でジェイムズを睨めつけた。
「お前は……魔剣か」
ジェイムズも、虚ろな目でガルドの顔を見上げた。
「認めてやる、テメェは今の俺よりも強いぜ。剣の腕ヤバ過ぎるだろ、ニンゲン」
俺がやってもぜってー負けてた、と大して悔しそうにもせずに、あっけらかんとジェイムズの死体が言った。
「シルヴィア様はどこにいる」
「シルヴィア……ああ、あいつか。そんなん上に決まってるだろ」
ジェイムズの白蝋のように青褪めた指が、上を指した。
「テメェはすげぇよ。ああくそ、ニンゲンを惜しいとか初めて思った」
悔しそうな言葉と裏腹に、死んだはずのジェイムズの顔は生前よりも輝いて見えた。
騎士達の呻き声と漂う血の臭いの中で、狂気のように輝いていた。
「あいつと契約してなけりゃ、ついていきてぇところだが」
「そうか、だが、此処で終わりだ」
ガルドの聖剣の刃に炎が灯った。魔剣に宿った魂すら焼く、神の炎だ。
「そういや、テメェの名前をちゃんと聞いていなかったな。何て言うんだ」
必殺の剣を突きつけられて尚、ジェイムズの顔に悲壮感は微塵も浮かんでいなかった。
「ガイエラフ・チェクルス」
「よし、じゃ、また会おうぜ。ガイエラフ」
口の左端を釣り上げて笑う死んだジェイムズに、ガルドは再び剣を振り下ろした。実の兄との殺し合いを演じさせた、おぞましい魔剣を叩き折るために。
バチッと音を立てて、黒い軌跡が聖剣を弾いた。
それは、黒い蛇の尾だった。蛇は指1本分の末端と引き換えに、聖剣に宿った炎を吹き飛ばした。
口から朱色の雷をちらつかせ、鉱石の蛇がジェイムズを守るように鎌首をもたげた。
反撃を警戒してガルドは後方へと飛び退った。
「ガイエラフ・チェクルスに俺の力ある全ての名を懸けて誓おう。天命続く限り、必ずまた会おう。俺の名は――」
蛇の鱗がミシミシと音を立てて剥がれ落ち、蛇の背に刺々しい塊を形成した。
人の頭程に成長した鱗の塊は真っ二つに裂けて翼となった。
「――ギルスムニル・ヴレイヴル・レイジェアト。嘗て魔王に仕えた〈二ノ剣〉にして〈黒の雷〉、そして〈勇者〉の名を負う呪われた剣の竜だ」
蛇がするりと薄紅色の刃に絡みつき、ジェイムズの腕の中から魔剣を奪った。
指が魔剣から離れた瞬間、ジェイムズの肢体が力なく崩れ落ちた。
翼の生えた蛇は魔剣を抱え込んだまま真上へと跳躍した。
人に三重に巻き付いても尚余る、鎖鞭のような身体をしならせ蛇は事も無げに宙を舞った。螺旋を描きながら城壁の上を目指して蛇は飛翔した。
飛び去っていく翼ある蛇を、ガルドは呆然として見送った。魔剣の告げた名を口の中で反復するが、音にならない。
「まさか、そんな」
焦点の定まらない目で、ガルドは呟いた。
髪を結い上げていた飾り紐の残骸がとうとう耐えきれずにぷつりと切れ、解けた髪が左耳の傷にかかった。
髪の毛が傷口に触れる痛みに、ガルドははっとした。
逃げ去る魔剣を目で追い、城壁を見上げた。
「いけるか、メリー」
ガルドの声に呼応して、聖剣の表面に赤い光が走った。
赤い光は罅のようにも、紋章のようにも、或いは文字のようにも見える紋様を刃全体に描いた。
紋様が聖剣を覆うと、ガルドの背後に赤い短槍が二本顕現した。
ガルドが城壁の上を見据えると、短槍の先端がガルドの視線に合わせて宙に浮いたまま傾いた。
狙いを定めるガルドの眼前で、蛇は城壁の上端へと達した。蛇の行く先には人影があった。槍のような細長いものに縋って立つ誰かが、城壁の上に立っていた。
ぼろぼろに破れた黒い外套、両腕に巻いた薄汚れた布、そして陽の光に映える月色の髪。
「シルヴィア」
目が合ったと直感した瞬間、短槍が二本同時に放たれた。
一本は蛇へ、もう一本は――
◇ ◆ ◇
「危ないっ!」
リンの叫びと共に、リーフが床に押し倒される。赤い槍の纏う熱気がリーフの顔を掠めた。
もう一つの槍は蛇の片翼に直撃、蛇が墜落する直前に魔剣は城壁の上に投げ出された。墜ちていった蛇は、空中でばらばらに砕け散って消滅した。
リーフが支えにしていた槍が、軽い音を立てて転がっていった。
「何やってんのよ馬鹿!」
「ようやく追いついたのかリン」
「ちっがぁーーーーうっ! 馬っ鹿ぁっ!!!」
リンが顔を真っ赤にして罵倒しても、リーフは顔色を微塵も変えなかった。
「何よ、そんなに死にたいわけ! リーフの馬鹿!」
リンはリーフの胸ぐらを掴み、ぎゃんぎゃん喚いた。リンが割って入らなければ、槍はリーフの頭を貫通していただろう。
「ギル、今のは竜でも死んでいたのかい」
リーフはリンから顔を逸らして、床に転がる魔剣ギルスムニルに話しかけた。
――ノーガードで頭ふっ飛ばされて、生きてる奴はあんまり知らねぇな。
冷静なリーフに対して、ギルも冷静に返した。
「そうか、つまり死ぬというわけか」
「何当たり前のこと言ってんのよ竜ってみんなアホなの、ねぇ!」
――アホみてぇに頑丈な奴は多いぜ。
「ナイフ投げの的には丁度いいね。食うのに困れば見世物小屋に行くのもよさそうだ」
――テメェの場合はまずナイフが刺さらねぇだろ。斧投げてもらえ斧。
「ああーーっ! もうっ!」
リンは帽子をかぶったまま頭をかきむしった。
「冗談だ……助かったよ、リン」
少しすまなそうな表情になったリーフを見て、リンは大きく息を吐いた。
リーフの上から降り、肩を貸して立ち上がらせた。リーフの腕が僅かに震えていたが、リンは敢えて指摘しなかった。
「ガルドを仕留め損なったのかい、ギル」
城壁の上に放り出されたギルに、リーフは視線を向けた。
――あれは無理だ、無理。テメェが全快でも分が悪いっての。使い手の経験差がヤバい。
――凄く怖いニンゲンでしたね。僕もちょっと戦うのは遠慮したいっていうか、あの魔剣と戦いたくないっていうか。
自分ではなく、魔剣を振るう方の力不足だとギルは言い放った。イーハンもここぞとばかりに追随して弱腰を晒した。
強力な魔剣で実力差を無理やり埋めようとしていたリーフには耳が痛い話だった。
「さすが、勇者の再来とさえ言われる騎士か」
――は?
「しかしあそこまで兵も消耗したとあっては、動きにくい筈だ。足止めにはなった」
リーフは下を覗いた際に、ジェイムズが引き起こした惨事も確認していた。
聖都から脱出するにあたって、リーフが立てた計画は単純かつ物騒だった。
教会騎士の動きを麻痺させた上で、民衆をパニックに陥らせる。普段なら、市民の心の拠り所たる教皇が表に出ることで、天変地異による恐怖を和らげることができた。しかし、その手が使えず、疲弊した教会騎士しかいない状況ならば、リーフを追いかける余裕がなくなると踏んでいた。
さらに、教会騎士達の中にできるだけ負傷者を作っておけば、聖都を出る際の追手の動きは鈍くなる。苦しみに悶える仲間を置いて敵を追うなど、躍起になっている様を市民に晒せば、不満を持つ小教会に暴動を誘発させかねないからだ。
「最後にもう一度だけ、この国の根底を揺さぶればボクらの勝ちだ」
リーフは薄紅色の刃の魔剣を屈んで手にとった。
リーフの視界が城壁の上から、廃墟に塗り替わった。死体に溢れ、がらくたが転がり、落書きだらけの生者のいない町――リーフには見慣れた光景だった。
魔剣ギルスムニルが嘗て滅ぼした町の中に、リーフは立っていた。
普段と違う点は、リーフの手の中に変わらず魔剣があることだ。
リーフの眼の前には、青年が立っていた。普段の誤魔化しを全て脱ぎ捨てて、そこに立っていた。
ただし、せめて格好つけたいのか、以前は剥き出しだった火傷の痕を徹底的に取り繕っていた。
冬の空を思わせる透明感のある青の詰め襟に身を包んだ姿は、軍人か騎士を思わせた。だが、所属を示す紋章も武勲を示す勲章もなく、胸元と肩が非常に寂しかった。
黒い髪は相変わらず好き勝手に重力に歯向かっていた。ぼさぼさの頭と幼さを残した顔つきは十代前半と言っても納得してしまいそうだが、体格は一人前でリーフよりも頭半分程背が高く、首も男らしく太い。
肌の色もやや濃いぐらいで青でも赤でもない。耳も尖っていない。尾も翼もない。鉤爪も鱗もない。
朱色の瞳さえなければ、人間と変わらない、ごく普通の青年に見えた。
「リーフ、テメェが俺と交わした契約を覚えているか」
青年が口を開いて問いかけた。
「勿論、忘れる筈がない。それがボクが此処に立つ理由なのだから」
リーフは答えた。
「ボクはこの国の中枢にいながら、国を支える教義を転覆させることに手を貸した。それは失敗してしまったのだけれど、嘗ての仲間を一人でも救い出したかった」
リーフは旅の理由を述べた。
「でも、誰も救えなかった」
リーフは旅の結末を述べた。
「だから、ボクが此処に立つのはこの国の外で君に殺されるためだ。リンをこの国から逃した後でね」
リーフは調子を一切乱すことなく自分の結末を述べた。何も為せなかったというのに、悲哀も未練も感じさせない声だった。
「ボクが死んだ後は、この身体は好きにしてもらって構わない」
「……今更かもしれねぇが、後悔はないんだよな」
奥歯にものが挟まっているような、すっきりしない顔でギルが言った。熱のない、宝石のようなリーフの目を落ち着かない様子で見ていた。
先延ばしにできるかもしれない死を前にして、リーフは奇妙なまでに静かだった。その境地を求めていたというのに、実際に目にしてすっかり戸惑ってしまっていた。
「君にそれを言ったところで、何も変わらないことはボクが一番よく知っているのだけれど」
いや、君も分かっていたねとリーフは自分とギルの胸を交互に指さした。
「結局ボクは何も成さず、ただ死体の山を築くだけなのさ。君のような優しさが欲しかった」
リーフが述べた言葉は無味乾燥で、他人が書いた能書きを読み上げているようだった。
「優しいのか、俺」
ギルが自身の左頬をさすりながら、顔を少ししかめた。
「君は十分にヒトに譲歩しているじゃあないか。それが神の、怪物の優しさなだけで」
縋り付いてくる手を蔑みながらも、必ず二回は律儀に握り返してきた魔剣をリーフはそう評価した。
リーフはギルに歩み寄った。
「最後に一つだけ謝っておく」
リーフは魔剣を両手で捧げ持った。
「身体を傷だらけにしてしまって、ごめん」
魔剣を迷いなくギルに差し出した。
ギルは魔剣の柄に手を乗せた。口の左端を釣り上げて笑うと、人離れした牙が覗いた。
「俺は十分綺麗なままだと思うぜ」
リーフが城壁の上で魔剣を素振りした。両腕に走る痛みに、顔が少し引きつった。
「やっぱりまだキツいな……ま、なんとかするか」
怪我した左足を若干引きずりながら、リーフは近くに転がっていた槍に近づいた。
「おい、リン。クソ弱野郎と一緒に離れてろ。ぜってー近づくなよ、巻き込んだらマジで死ぬからな」
リーフは魔剣イーハンを足で蹴り上げて手に取り、リンに向けて軽く放り投げた。
普段は顔に貼り付けている嘲るような笑みを隠し、真剣な面持ちで忠告した。
――すみません、よろしくおねがいします、まだ死にたくないです。
「あんたこそ、リーフ殺したら許さないんだから!」
渋々ながらも、リンはイーハンを抱えてリーフから離れた。
リーフは魔剣の先端を城壁の床に突き刺した。しかし、無敵の切れ味を誇る魔剣ギルスムニルでさえも城壁に弾かれ、削れることさえなかった。
その体勢のまま、リーフは魔剣の柄頭に両手を重ねて置いた。
「我らが真祖たる剣よ、地に眠りし魔王よ、ヴレイヴルの名において上奏奉る」
リーフの紡いだ言葉に反応して、魔剣の周囲に朱色の光が散乱した。
魔剣から放たれた光に応えるのかのように、リーフを中心とした大地が朱色に輝いた。範囲は中心から五歩程度、光は城壁の上にまで届いていなかったが、リーフの口角は僅かに上がった。
「我が名はギルスムニル・ヴレイヴル・レイジェアト。魔王より二の冠を預かりし精霊なり。我が身を捧げ、神威を此処に示さん」
リーフの身体に朱色の光が纏わりついた。
リーフの両腕と左足がバチバチと弾けるような音を立てた。リーフの両腕に巻かれた布が急速に赤く染まり、足元には血溜まりが広がっていった。貼りついていた結晶がなくなったことで傷口が開き、再び大量出血を起こしていた。
激痛に崩折れそうになる身体を無理やり立たせ、リーフは魔剣を持ち上げた。
魔剣の刃が薄紅色から漆黒へと変わっていった。宝石の透明感と輝かんばかりの鋭さを湛えた黒は、野獣の爪のような威圧と暴力を放っていた。
「終の雷よ!!」
悲鳴のような絶叫と共に、リーフが魔剣を城壁に突き立てた。
夜が城壁の上に落ちてきた。
後に、聖都ギリスアンの市民達は口を揃えてそう言った。
真昼の青空を切り裂いて、天の果て或いは地の底から闇が城壁に突き刺さった。
そして、神の加護を受けた城壁は二つに裂けた。
黒い雷に抗うように、城壁を構成する石材が灰色の光を吐き出した。灰色は黒を中和し、残った朱色を包み込んで溶かしていく。
だが、灰色が黒を消化するよりも速く黒の波濤が城壁に叩きつけられた。爆音と共に、風景が一瞬で塗りつぶされる。
白い城壁の表層に醜い亀裂が走った。絶え間なく降り注ぐ雷が亀裂を押し広げ、瓦礫がバラバラと落下していく。
雷嵐の中心で、リーフは血を流しながら歯を食いしばって耐えていた。
刃を弾いていた城壁に魔剣を穿ち、腕力でさらに押し込もうとしていた。魔剣の表面に、細かい亀裂が浮かび上がった。
硝子が割れる音を響かせて、魔剣を覆っていた黒い刃が砕け散った。
黒い刃の消滅と同時に、雷嵐もぴたりと止んだ。
「……くそ、やっぱ無理か」
リーフは激痛に膝をつき、肩で息をしていた。顔には大粒を汗が止めどなく浮き上がり、技の負荷の大きさを物語っている。
「この距離で崩せねぇ、さすが、本物の王の力――」
リーフの口から透明な胃液が溢れた。薄紅色の魔剣に寄りかかり、城壁の上に吐瀉物をぶちまけた。
液体が城壁の亀裂に吸い込まれるように流れていった。
一歩分の幅の断絶が城壁に刻まれていた。切れこみは壁の両面に渡り、遠目にも見える一本の黒い線を永劫に残していた。
城壁の構造を崩す程の痛手には至らなかったが、魔剣ギルスムニルは神の築いた城壁を両断したのだ。
「リーフっ!!」
耐えきれなくなったリンが駆け寄った。今にも倒れそうなリーフの身体を、傷に障らないよう注意して支えた。
「凄いな、ギル」
リーフが感想を述べた。胃酸で喉が焼け、声は掠れていた。
「神の壁に傷をつけるなんて」
リーフの腕に巻かれていた布の繊維がみちみちと千切れていった。千切れた布の隙間から、鱗状の結晶が再び生えてきているのが見えた。
「ねぇ、リーフ……」
「まだボクは此処にいるよ、リン。ギルは君の家の場所を知らないからね」
心配そうに見つめるリンを尻目に、リーフはふらつきながらも立ち上がった。傷口は結晶に覆い尽くされ、血が溢れることはなかった。魔剣をいつものように背負い、左足を引きずりながらも聖都の外側へ向かって城壁の上を歩いた。
「さあ、家まで送るよ」
リーフが両手を広げて、リンに向き合った。ぼさぼさの月色の髪、破れた外套、埃まみれの白磁の肌には生気が薄く、新緑色の瞳には陰りが見えた。
リンは唇をぐっと噛み締めた。
最低限の銃火器を詰めた鞄にベルトで槍を固定し、そのうえで鞄を背負った。
「一緒に帰ろう」
リンはリーフの手を取り、しっかりと身体を抱きしめた。
リーフの両肩を覆うように、結晶で構成された翼が出現した。結晶は灰色がかった半透明で、リーフの髪の色と同じだった。まばらに濃い色の結晶が混ざっているせいで、純白の天使とはとても言えなかった。
リンを抱く腕に力を込め、リーフの身体が後方に倒れていった。後ろには支えるもの等なく、遥か下に大地が鎮座していた。
◇ ◇ ◇
「シルヴィア!」
絶叫が城壁の上に響き渡った。
聖剣を片手に、ガルドが城壁の上に駆け上がっていた。リンが踏破した道筋を全力疾走したのか、息は激しく乱れ顔も上気していた。
城壁から足を離す二人を視認した瞬間、聖剣を投げ捨てて疾駆。右腕を伸ばし、間一髪リーフの手に触れた。
――『また』は今じゃねぇぞ。
ガルドの耳に、威圧する男の声が聞こえた。脳裏に朱い目の蛇がちらついた。
掴もうとした手が強張る。
砕け散りそうな宝石の目と縋るような鳶色の目が交錯し、重力に引き離される。
ガルドを城壁の上に残し、二人は地面に墜ちていった。
リーフの背に煌めく翼が大きく広がって大気を掴む。くるりと上下を反転させ、頭を上に、リンを身体の下にして羽ばたいた。
風に乗り、ふわりと翼が上昇した。
城壁に沿って大きく旋回し、ガルドから距離を離していく。
そのまま、振り返ることもなく、太陽の沈む方へと飛び去っていった。
ガルドは遠ざかっていく銀の翼を見送るしかなかった。目で軌跡を追いながら、膝から崩れ落ちた。
最後に触れた右手を握りしめ、やり場のない思いを足元にぶつけた。
「あなたは、また、俺を置いていくのか」
押し殺した声を聞くものは、誰もいなかった。
◆ ◆ ◆
翼を羽ばたかせ、銀色に陽光を反射する影は西へと一直線に向かっていた。
リドバルド王国は聖ギリスアン教国の西に位置し、深い森を緩衝地帯として接している。聖都から国境までは徒歩で三日かかるが、森の最東端までなら一日半程度で辿り着けた。
徒歩を凌駕する飛翔速度では、夜に差し掛かる頃に眼下に木々の黒い陰が見えた。
森の中に隠れれば、追跡を撒ける可能性が大幅に高くなる。リーフの目が丁度よい着地点を探して忙しなく動いた。
突然リーフの首ががくりと落ちた。そのまま体勢を崩し、一気に下へと引っ張られるように墜落する。
直後にリーフの目が開いたが、もはや持ち直せなかった。
「ちょっ……これっ、まっず」
二人は頭から樹冠に突っ込み、全身を枝葉で叩かれた。
リーフはなんとか地面に衝突する直前に身体を翻し、右の翼を下敷きにして衝撃を和らげた。
「うぎゃっ」
左半身を地面に打ち付け、リンも悲鳴をあげた。
大地に倒れ伏したリーフの背中で、翼が端から崩れおちていった。
「ちょっと、どうしたのリーフ!」
「くそっ、ああ……もう無理……限界」
リンを抱きしめていた腕を解き、リーフはだるそうに頭を掻きむしった。身を起こそうとするも、肩にすら力が入らず背中は地面から離れない。
みるみるうちにリーフの顔から血の気が引いていっていた。最早、死人と大差ない土気色だ。
「え?」
「駄目だ、後は好きに、して、ろ……」
弱々しくリンを突き放す仕草をとったまま、リーフは気を失った。度重なる戦闘と身を削る大技は、リーフだけではなくギルも蝕んでいたのだ。
――ええぇぇっ! ギルさんまで気絶しないでぇぇ……
魔剣とは思えない情けない声をイーハンが上げた。
がさがさと、草を踏みつける音が響いた。リンの動きが一瞬固まった。
野生動物か、モンスターか。リンは鞄から散弾銃〈森狼〉を静かに取り出して構えた。手元を見ずに弾丸を込め、安全装置を外す。
状況はリンに圧倒的に不都合だった。
モンスターに最も効果的である火炎瓶は自分達も煙に巻かれる危険性があるため使用できない。距離を詰められたら、最悪の場合、格闘戦を挑まなければならなかった。
木々の影から、人の背丈は優にある大きな姿が現れた。
三角の立った耳に、前に突き出た長い鼻孔、顎からはみ出た舌は粘性のある涎を垂らしている。全身を迷彩のような斑のある緑の毛皮で覆い、細いが逞しい四足で支えていた。
狼色とも揶揄される暗い琥珀の瞳がリンを油断なく観察し、睨み返すリンの石炭色の瞳も厳しい色を宿した。
「野生のヤツハオオカミとか、最悪」
周囲を取り囲む三頭のモンスターに、リンが毒づいた。
ヤツハオオカミは対モンスター弾の製造のためにリドバルド王国で家畜化しているモンスターである。厳格な社会性を有していることから、下手な草食モンスターよりも飼い慣らしやすいが、それは柵の中でのみ通じる話だ。
野生のヤツハオオカミの群れを安全に討伐するためには、完全武装した熟練の小隊が必要となる。数さえ揃えればゴリ押しで対処できる草食モンスターとは格が違う。
リンはその腕前に達していたが、生憎一人しかいなかった。
「ちゃんと仕事しなさいよ、教会騎士」
威嚇用の炸薬をそっと握り込んでいると、ヤツハオオカミ達が突然動きを止めた。
背中を丸め、尻を地面につけて動かなくなった。おすわりを命じられた犬のようだった。
「は?」
突然の事態に戸惑うリンの耳に、聞き慣れた音が聞こえた。
音の出処を辿り、リンは後ろを振り返った。
森の奥から、ヤツハオオカミよりも一回り大きな体躯が近づいてきていた。




