恋に狂う男
胸がぎゅっと締め付けられるように痛む。
嬉しい。
嬉しい。
どうしよう。それしか言葉が思い浮かばない。
オズが、ドロシーのこと好きだなんて。
結婚なんて考えたことない。
ドロシーは捨て子だ。道端に捨てられ、孤児院に連れてこられたらしい。
両親のぬくもりを知らない。血の繋がった温かさをしらない。
けれど、孤児院にいる子供達のことを、家族だと思っている。
オズのことも。
「うれしい」
「ほんと?」
「うん。うれしい」
結婚なんてよく分からない。パン屋のおばさんは、永遠を誓いながら不倫していた。この世には沢山の裏切りがあって、ドロシーが捨てられたのだって、その一つだ。
誰だって自分以外のことが嫌いなんだ。そう悟って生きてきた。そうじゃないと自分の中の醜くてどうしようもない感情が溢れてきそうだったから。
けれど、オズはドロシーの願いを叶えてくれるという。
パンをつくる場所を作ってくれるって。
親なし子のための施設を作ってくれるって。
院長先生がお金を横領していると知って、なんでそんなことするのって思わなくていいんだ。
偽善ぶりたい貴族からの心ない援助を受けなくてもいいんだ。
嫌がらせを受けたりする必要もない?
かびたパンを出さずに済む?
いつか、そんな現実が変わると思って本当にいい?
酷いことに、酷い! って大声を出しても許されるのだろうか。
しかたないと諦めずに済む?
――オズは、天才だ。きっと、やってくれる。
だって、ドロシーが知る中で一番賢いのはオズだ。オズ以上に頭がいい人を見たことがない。だったらきっとやってくれる。だってオズは、ドロシーが出来ない沢山の言葉を読めて書ける。計算だって早い。
「オズと、結婚する。私、ずっとオズを待ってる」
「…………うん」
オズは目元にいっぱい皺を作って泣きそうになりながら、笑った。
そんな顔を見ていると、ドロシーの方が心がいっぱいになった。
「あのね、オズ。私、文字を読むのは得意じゃないんだけど、織物は得意だよ。刺繍も。料理も得意。それと、それと。算数も、得意だよ。パンは一つで銅一枚。三つで銅三枚。百個で銀一枚」
「しってる」
「だから、役に立つよ。私、働き者な方だと思うし。死ぬまで働くよ」
「働き者だから、結婚したいってわけじゃない。ドロシー、僕はお前が好きなんだよ。役に立つから好きなわけじゃない。それにドロシーが少し抜けてるの、知ってるし。狡賢いときがあるのも、分かってる」
「そう、なの?」
そうなんだ。オズは全部わかってくれるんだ。
「そう。だから、待っていて。きっと、僕以外にドロシーにぴったりな人なんていないから」
「……うん」
嬉しい。跳ね上がりそうだ。
こんな素敵なことを言われたのは生まれて初めてだった。生きていて良かったと素直に思えた。
パン屋の女将さんにクビだと言われた時、ドロシーは自分が価値のないゴミクズになってしまったのではないかと思った。
けれど、そうじゃなかった。
ドロシーはオズに好きだと言われた。
働き者だからじゃないんだって。
働けなくなっても……。風邪をひいても、許してくれる?
クビになったりしない? 汚く罵らない?
この町中の幸せを束ねたって、きっとドロシーのこの嬉しさにはかなわない。
「うれしい。……私、こんなにうれしいこと、初めて言われたよ」
「じゃあ、僕以外に言われないで。ドロシーは僕以外にこんなことを言われちゃだめだ」
「うん。……うん、オズ。言われないよ、オズ以外、言うわけないよ。本当に、本当に嬉しいな。あはは……。何だか、すごく目が熱い。どうしよう、オズ。どうしたらいいのかな」
ドロシーの瞳の下を、オズはキスをした。何度も、何度も。
その度に、目が熱くなって、ぽろぽろと涙がこぼれた。どうして泣いているのか、ドロシーにもわからない。
胸が熱くて、たくさん食べたあとみたいにもう何もいらないと思う。少しお腹が空いていたのに、おかしい。
でも、少しも悪くなかった。それどころか、ドロシーはとても満足していた。
「ありがとう、オズ……」
もう時間だと言ってオズは馬車に飛び乗った。
暗闇の中、馬車は闇に溶けるように消えて行く。
オズが無事、王都に着きますように。
それだけを思ってずっと、ずっと、手を振り続けた。
オズが乗る馬車を見送り、院に寝泊まりしている令嬢達が食べた皿を洗い終えて、礼拝堂に入る。
日中に入ることを禁じられている。ドロシーのような孤児がいると品格が落ちるから、と。
だが、夜の帳が下りた頃ならば大丈夫だ。
月光が透かしガラスに光を与えて、床に美しい模様を映し出している。
ドロシーはそれを見るたびに、この礼拝堂のことが好きになる。ドロシーが知る限り、一番綺麗な建物だ。
今日の恵みに感謝します。
明日も一日、良い日でありますように。
祈りを終えて立ち上がり、礼拝堂の奥にある本棚を目指す。そこには、子供用の辞書がある。
月の光の下で、オズに貰った手紙を広げる。
紙は分厚くて、とってもきれいだった。ドロシーが持っているなかで、一番綺麗なものだ。汚さないように気をつけないと。
辞書を読みながら、恐る恐る文字をなぞる。
「雨……におい? オズ、長いよ。とっても長い……」
それでも一生懸命文字をなぞった。意味を調べた。声に出して、間違っていなさそうか確認する。
口にした言葉は、まるで美しい絹みたいに滑らかだった。
「『雨の匂いが一番強い夜にこれを書いている。僕の好きな匂いだから。ドロシー、いきなりこんなもの書いて、ごめん。でも形にしておきたかった。何度も、何度も読み返して、ドロシーに分かって欲しかったから。僕はお前のことが好き。こんなこと言うと、ドロシーは子供達に向ける愛みたいに思うかもしれないけど、そんなことない。僕は一人の女の子として、ドロシーが好きなんだ』」
ドロシー。名前をなぞった。こんなに綺麗な文字なんだ。こんな綺麗な文字の並びが、ドロシーなんだ。
オズが書いてくれたドロシーという文字は、とても美しい。この名前がとても好きだ。
ドロシー。ドロシー。
なんて、綺麗な名前なんだろう。
オズが価値を認めてくれた自分の名前。
誇らしい、ドロシーだ。孤児の、惨めな女の子じゃない。
『どうしてか知りたいだろうから、教えてやる。ドロシーはぬけていて、どうしてそんな間違いするんだよって過ちを繰り返す。僕がなおせと言っても、全然だめ。一度、子供達の食事のために自分の薬代を使って、酷い肺炎になって寝込んだことがあったよな。そのとき、僕は思ったんだ。馬鹿すぎるって。あいつらなんて、一日二日食わなくてもなんとかなるのに。――でも、ドロシーは熱に浮かされながら笑ってた。美味しかった? って、僕に言った。そのとき、僕はドロシーはとんでもないばかなんだって思ったよ』
……むっとしながら文字をなぞる。
オズは口頭で伝えてくれていてよかった。こんなの見ても、きっと最後まで読もうとしなかっただろうから。
いつもの憎まれ口だと、そう思っていただろうから。
『でも、だからこそ守りたかったんだ。だってドロシー。信じられる? お前が寝込んだ日、僕はずっと心臓が痛かった。離れないで、死なないで。ドロシーがいなくなったら僕も死んでやるって、そう思ったんだ』
「……ふふ」
死ぬなんてとっても恐ろしい言葉なのに、オズの手紙の中のこれはちっとも怖くない。むしろ……優しさを感じた。
『針の刺し傷に火傷のあと、ドロシーの働き者の手が僕は怖い。毎日朝から晩まで働いて、食器を洗って、畑を耕して。それなのに、ちっとも辛いだなんて言わない。そんなドロシーが大好きでーー怖い。いつか寝込んだあの日みたいに笑いながら死んじゃうかもしれないから』
「死なないよ」
死ぬなんて、絶対にない。オズが約束してくれたから。ドロシーはオズの帰りをずっと待つんだ。
『国の錬金術師になれば、使いきれないほどの金貨を貰えるらしい。金貨だぞ、金貨。ドロシーに浴びるほど用意してやる。それで、窯も、風呂場も、水場も全部買って、きちんと言う。ドロシー、僕と結婚して。最期まで一緒にいてくれって。死が別つまで、ずっと一緒に』
金貨だって!
ドロシーはお客様から一度受け取ったことがあるだけだ。それもすぐにおかみさんに取り上げられた。孤児院の子供が持っているとろくなことがないからと。
オズはそんな貴重なものを、ドロシーに持たせてくれるという。
孤児院の子供だなんて言われない。太陽みたいに輝くそれで、たくさんの大切なものを買ってくれる。
生きるために、働くために、大切なものを。
待ちたいと思った。オズを。オズがもたらしてくれる幸せを。
胡座をかいていちゃ、だめだ。
明日から、どんな仕事でもしてみせる。元々、ドロシーは働き者だ。
縫い物だって得意だし、簡単な計算なら出来る。洗濯物だって得意だ。家事なら一通り出来るし、汚い仕事だってやる。
……文字も、練習したらいいかもしれない。そうしたら、オズと手紙のやりとりができるかも。
『だから、ずっと僕を待っていて。ドロシー』
待っているよと書いて送ったら、オズは喜ぶかな?
オズの喜ぶことがした。ドロシーにくれた幸せを返したい。
大食らいで、顰めっ面なオズの顔が綻ぶような優しさをあげたい。
こんなに、ドロシーが幸せだということを彼に知って欲しかった。
手紙をぎゅっと胸におしつけた。
親愛なるドロシーのオズより。
最後の言葉にはそう書かれていた。ドロシーのオズ。オズはドロシーのもの。
飛び上がって何度もオズの名前を呼びたくなった。こんな幸せなこと、あっていいんだろうか?
ドロシーは明日、もしかして死んでしまう?
いやだ、死にたくない。
オズのことを待ちたい。オズの手紙に返事を書いて、帰りをずっと待っていたい。
オズのドロシーより、という言葉で手紙を送り返したかった。ドロシーみたいにオズは飛び跳ねてくれるだろうか?
礼拝堂のなかで一番、神聖なものはこれだ。
ドロシーは優しく何度も文字をなぞった。幸せな言葉が並んでいると思うと、何度も何度も噛み締めるように指でなぞってしまう。
「ドロシー、何を読んでいるの?」
突然、声が近くで聞こえた。さっと手元が暗くなり、大きな手がするりと手紙を取り上げる。
「手紙だ。とても綺麗な紙だ。俺は手紙を君に渡していたかな」
「え……」
立派な紳士、ジルだ。金色の髪は真夜中に浮かぶ月と似ていた。ジルは目を細くして、ドロシーにもう一度、問いかけた。
「俺は君に手紙を渡した?」
「い、いえ。旦那様、その……礼拝堂に入って申し訳ありません……」
こんな時間に彼が礼拝堂に来るだなんて思いもしなかった。
平伏しながら謝る。ジルは声を低くして言葉を続けた。
「じゃあ、どうして君はこんなものを持っている?」
「お、幼馴染がくれたんです。私に、と」
「幼馴染?」
「オズという孤児の一人で、錬金術師の見習いで……。ええっと、今日、試験を受けに行ったんです」
ふうんと相槌を打ちながら、ジルは平伏するドロシーの肩に手をかけた。
「男だ」
「は、はい。……あの?」
「君が俺以外の男の手紙をーー恋文を持ってる」
ぎちぎちと肩を掴まれ、痛みに顔が歪む。
目の前の紳士は艶然とした様子で唇を開いた。
「あの、旦那様」
「ジルだ。ジルと呼んでと、俺は言った」
痛いと言っていいのかも分からなかった。彼の瞳が暗闇のなかで爛々と輝いて見える。
「顔を出すと俺は言ったはずだよね? こんなものを貰って、喜んでいた?」
「か、返して下さい!」
悪い予感がして咄嗟に手紙に手を伸ばす。
ジルはドロシーをじっと見下ろしている。怖くて、怒る前のような、それでいて泣き出す前の心細いよう子供のような顔。
けれど、手紙を無茶苦茶に破いて捨ててしまうような危うさを秘めている。
「こんなものが欲しかったのか? ならば、俺に贈らせて。紙だって、これよりいいものを選ぼう。拙い言葉だ。ドロシーにはもっと華美な言葉が似合うのに」
「そんなもの、いらない!」
ドロシーは夢中で叫んでいた。
そんなもの、必要ない。ドロシーが嬉しかったのは、オズがくれた手紙だ。言葉だ。キラキラとした未来、約束だ。
オズの気持ちを踏み躙るようなことを言われて全身の毛が逆立つようだった。
目の前の貴族様は、オズがドロシーが読みやすいようにと考えてくれたことさえ知らない。
「いらない?」
「汚くない、綺麗なもの! 私はこの手紙以上のもの、必要じゃない」
「どうして」
「オズがくれたから。オズが私のために、書いてくれた。文字の読めない私のために、優しい言葉で。幸せな未来も約束してくれた。この街で生きて行くには必要な、希望も」
貴族様にはきっと分からないんだ。綺麗なハンカチを持って、服を着て、美しい人だから。全て満たされている人だから。捨て子のドロシーの気持ちなんて分かりっこない。
「オズという男が好きなんだ?」
好きだ。
ゆっくり頷いた。目の前の美しい紳士は目を細めてくしゃりと自分の髪を拳で握りしめる。
「なるほど。……なるほど」
ゆっくりと彼は後退る。怯える獣のようだと思った。
「その男を、殺そう」
「……は?」
何を言われたのか、分からなかった。
殺す? オズを?
「そうすれば君は俺を見てくれるだろう?」
「何を、言って」
「あぁ、大切なことを伝え忘れていた。再会できて、舞い上がり過ぎていたから、つい大切な言葉が二の次になっていたね」
ジルは手の中にある手紙をびりびりと破いてしまった。
紙片が床に散らばる。ドロシーは飛びつくようにかき集めた。
オズの大切な言葉達が千切れていく。幸せな言葉達が床に無残に散らばる。
「やめて! やめて!」
どうしてこんなことをされなくちゃいけない?
孤児だから? 辞書を開かないときちんと文字も読めない馬鹿だから?
照れ臭そうにドロシーに手紙を差し出してきたオズの顔が紙と一緒に千切られていくようだった。幸せなあの瞬間が、灰でもかけられたように煤けていく。
「どうして……」
呆然としてジルを見上げるドロシーに、彼は優雅に跪く。
優雅で、洗練された貴族の礼だ。一瞬、見惚れそうになり歯を食い締める。
手紙を破いたのは正真正銘この男だった。ドロシーは見惚れている場合ではない。睨みつけ、何でこんなことをと吠える。
「君のことが好きだ、ドロシー。ずっと、恋焦がれていた」
甘く蕩けた瞳がドロシーを映す。唇が震えた。ジルの吐息が近い。
「どうか、俺を選んで。その男のことは忘れて、愉快に暮らそう」
「何を、言っているの」
「何を? 君と俺のこれからのことだ。まず君が聖女であることをあの嘘つきな貴族どもに分からせる。知っているかな、ドロシー。赤公爵と言ってね、君の子孫が貴族になったんだって。そして、その貴族達は不敬にも自分達こそ聖女に選ばれる子女を生み出せると、信じきっている」
ジルの言葉が一言も、ドロシーにはわからなかった。
聖女――聖女?
あの魔王を倒したという?
けれど、そんなご立派な人、ドロシーとは無関係だ。
明日のパンにだって困るような女が、聖女と関係があるわけがない。
だって、聖女だったらきちんと文字を読めるはずだ。パン屋をクビになったりしないはずだ。ドロシーの両親が、ドロシーを捨てないはずだ。
ドロシーは聖女なんかであるはずがない。
「けれど、今世の赤公爵家に産まれたのは、男だけ。次男坊に女装をさせてまで家の誇りを守ろうとしたが、看破された。それからは方々を駆けずり回っているという。ドロシー、君が出向けば貴族達は跪き、その身の神聖さに畏怖すら覚えるだろうね。俺が君に出会いそうだったように」
熱に浮かされているようだった。
それぐらい、目の前の男は人のことを見ちゃいない。
泣き出しそうなってしまう。手紙を破かれただけでもドロシーにとっては信じられない事態なのに、これ以上は耐えられない。
「……いや!」
もう、手紙の破片はない。全部、拾った。
部屋を出るための扉は二箇所ある。ジルに追い付かれないように最短距離を行けば外に出られるはずだ。こんな話、もう少しも聞いていたくない。
だってドロシーには一つも関係ない世迷言だ。
「私は、聖女様なんかじゃない。何か、誤解してる」
「誤解? 誤解か」
「貴方は、私の大切なものを壊した酷い人です! 鞭で打たれたあと、声をかけて下さってありがとうございました。けれどもう、お会いしたくもありません!」
ジルの体を無理やり押し退ける。
振り返ることなく、出口へと急いだ。手紙の破片が一枚だけ落ちる。泣きそうになりながら、それでも扉へと手をかけて、暗い夜の中を走り去る。
「ドロシー」
甘く、蕩けるような声で呼ばれた。けれど、すぐに扉は閉まってばたんと言う音に阻まれて消えた。