幼馴染
結局、ジルはこなかった。
ドロシーは心を撫で下ろした。あれはからかいの言葉だったんだ。
貴族のお遊び。高貴な冗談。
胸が少しずきりとするのは気のせいだ。泥臭くなったまま、部屋に戻る。部屋といっても、雨風がしのげるだけの物置きだ。
院とは大違い。調理場だって野ざらしで、雨の日には火が消えないように見張っていなくちゃいけない。
けど、ここにはみんながいる。ドロシーのように身寄りのない子供達。彼らのためだと思うとどんなに手間のかかることでも全然苦じゃなかった。
いつものように、夕飯を作る。
野菜ばっかりのスープ。泥臭いサラダ。硬いパンを一人、一つずつ。
「ねえ、ドロシー。僕大きくなったら、聖騎士になるんだ」
「あたしは聖女様!」
「俺は世界で一番カッコいい竜になる!」
「ドロシーは? ドロシーは何になりたい?」
「私?」
机なんて大層なものは院ならともかく、物置の荒屋にはない。
だから作った料理は床に置く。破れたシーツの上に。
蝋燭の炎は頼りないけど、みんなは楽しそうに笑ってる。
だから、ドロシーも合わせて笑う。そうすると、少しだけ気持ちが軽くなる。
明日からの仕事はないのに、気分が紛れる。
「六英雄の誰になりたい?」
六英雄。昔、魔王を倒したとされる六人の英雄のことだ。
農民生まれの聖女様。
煌びやかなお貴族聖騎士様。
国一番の錬金術師様。
エルフの森の番人だった弓兵様。
剣に選ばれたの剣聖様。
聖女様によって改心した心優しき竜様。
孤児院には、彼らを模したステンドグラスや彫像がいくつもある。だから、それを見て、ああなれたらと夢想するのだ。あんな風に価値あるものになれたら、と。
壊れかけの皿に体当たりしてきたジェードから、料理を守りながらうーんと口ごもる。
「英雄とか、聖女とか大変そう。私は町のパン屋さんでいいな」
「パン屋さん!? なあに、それ!」
「いやだよ、ドロシー。そんなのじゃあ彫像作ってもらえないよ」
「吟遊詩人に語り継いでもらえない」
「パン屋さんなんて退屈だもん!」
「ええ、そうかな。だって、おいしいパンが毎日食べられるんだよ。ミティだって、おいしいパンが食べたい、食べたいってだだこねるじゃない」
「それはそれ、これはこれだもん!」
「じゃあ、こうしよう。私がみんなのためにパンをたくさん焼くから、みんなは英雄になって私のパン屋さんの宣伝をする」
「――ドロシーだけ、楽して成功しようとしてる」
聖書に目を通しながら、オズが口を挟んだ。
ドロシーと同じ年の子供はこのオズだけだ。
櫛の通るところがないほどうねった黒い髪。血のように澱んだ真っ赤な目。
整った顔立ちなのに、世の中を拗ねてみているから、眼光は鋭い。
目つきが悪くて、ぶっきらぼう。
でも、ドロシーの大切な幼馴染だ。
「ええ!? そうなの?」
「ドロシーずるい! やっぱりドロシーも六英雄から選んでよ」
せっかく丸め込もうとしたのに。頬を膨らませ、オズを見る。
「オズって意地悪だね」
「ドロシーが悪い」
むっと睨む。オズは今日の朝方からずっと、ドロシーに怒っている。病み上がりのまま、パン屋に行ったのが気に入らないらしい。
もう熱もなかった。だからあのときはまず謝りにいかなくちゃと思ったのだ。……意味はなくて、解雇されてしまったけれど。
「僕の言った通り、どうせあいつら話も聞いてくれなかったんだろ」
「……うん」
「だから言ったんだ。謝りに言ったって無駄だって。……少し休んだら? 無理しすぎなんだよ。今日だって、僕が作ったのに」
「オズの料理はいや〜!」
「だって泥みたいなんだもん」
「スープはヤケドしちゃうぐらい熱いし」
「言われてるよ、オズ。まずいって」
「そんなに直接的じゃなかっただろ!」
ぷんぷん怒ったオズは聖書から視線を上げた。
「ドロシー。僕は明日、王都に行く。三年は帰ってこれない」
「試験に落ちなかったらでしょう?」
「僕が落ちるならば、錬金術師の見習いは皆落ちるさ」
凄まじい自信だった。けれど、その振る舞いが許されるほどオズは優秀な錬金術師の見習いだった。
この町には錬金術師が一人しかいない。
王都から派遣された、錬金術師を教育するための先生役だ。
だが、その先生ですら、三日でオズの世話を投げた。
オズが先生が行えなかった薬草の調合に成功し、鉄や銅の錬成に一人で成功したからだ。
王宮錬金術師になるための試験は年に一度、行われる。
受験資格は十八歳から。その試験に合格したものは正式に錬金術師と名乗れるだけでなく、王都に自分の研究室を持つことができるらしい。
王都で三年間、経験を積めば希望する地区に配置され、先生役としてその地区で生まれた錬金術師の卵達を育てながら自分の研究が出来るという。
オズがいなくなるのはドロシーとしては寂しい。けれど、彼の門出は喜ばしくもあった。
オズとドロシーは同じ時期に捨てられた。
だから、物心がついたときから側にいた。家族という温もりをドロシーは知らないけれど、きっとオズとの関係はそういう温もりに一番近い。
オズは自信家で、でも料理が下手。自堕落な体質で床でごろごろ寝そべって本を読むのが好き。
そんなオズのことをドロシーは好きだった。
「一人でこいつらの面倒を見れるのか、心配だ。ドロシーってたまに抜けてるから」
「オズにだけは言われたくないよ」
「パン屋になりたいなんて言うし」
「パン屋はいいでしょう!? 起きたらパンの匂いを嗅ぎたいなって思っただけ」
「パン屋になったら早起きしてそのパンの匂いを嗅ぐために働かなくちゃいけないと思うけど」
聖書を閉じて、オズがシーツの近くにやってきた。ドロシーは守っていた皿を元の位置に戻して、子供達を見回した。
彼らはもう英雄の話に飽きて、早く食べたくてうずうずしているのか皿のなかを凝視している。
「オズ、今日もお祈り、したい!」
「魔王をうち滅した……? なんだっけ」
「まほうつかいをやっつけた勇者たち!」
「えいゆうたち、だったもん!」
「はいはい。じゃあ、手を組んで」
この間、院を覗き込んだ子達が食事のときのお祈りを見たらしい。それからはこちらでもやろうと真似をしている。
ドロシーだって、オズだって、きちんとしたお祈りなんか知らない。
だから、お祈りの言葉はデタラメだ。英雄達のことだってうる覚え。
毎回少しずつ違う。
けれど、そんなこと、皆分かっている。
分かっていて、それでも真似してる。
何だかそれを唱えるだけで、少しだけ自分が良いものになれる気がするから。
「魔王をうち倒した勇ましき六人の英雄達がもたらした平穏に感謝をこめて、この祈りを捧げます。明日も今日のように素晴らしき日々でありますように」
「ありますよーに!」
「ありますように!」
手を組んだ子供達は口を揃え、目をつぶって祈りを捧げた。
ぱっと目を開いた彼らは遠慮はいらないとばかりに皿にがっついた。
「ほら、ドロシーも食べて」
「私が作ったんだよ」
オズは笑って誤魔化すとほらほらと言って腐りかけのパンを差し出してくる。オズの分だ。
いつもならば、おばさんがくれる余りのものパンが並ぶ。けれど、ドロシーが辞めさせられてしまったから、もうあの美味しいパンは食べられない。
腐りかけのパンは食むとカビの味がする。ふわふわなあのパンが恋しい。
「ありがとう、オズ」
苦味を耐えながら笑みをつくる。
苦くても、平気だった。
だって、オズがくれたものだ。オズは大食漢で人に食べ物をあげたりしない。けれど、ドロシーのためにパンを分けてくれた。
その気持ちが嬉しかった。
「別に」
照れ隠しをするようにオズは頬を掻いてそっぽを向く。
――心安らぐひととき。夢のような晩餐だった。
まだ、日は明けてはいなかった。
けれど、オズは行くのだという。
馬車の中には、すでにオズの先生がいた。早くしろと言いたげに眉を顰めている。
「もう、行くんだね」
「ちび達が起きてるとうるさいだろ。僕はうるさいの、嫌いなんだよ」
「寂しくなるね」
まだ全然、オズがいなくなる実感がない。数日留守にすることはあっても、何年も一緒にいないなんてはじめてだ。
だから、全然、実感がない。まるで、ちょっとお使いに出ていくオズを見送っているみたい。
寂しいと口に出していても、なんだか、空っぽな音だった。
「本当にそう思ってる?」
「……実はまだ全然実感がない。オズと何年も会えないなんて。だって、いつも、オズは隣で寝てたんだもん」
「そうだろうと思った」
くすくすと笑って、オズは荷物を馬車の後方に括り付けた。
「これ、礼拝堂の棚に戻しといてくれるか。返しそびれてた」
オズが差し出してきたのは、夕食のときに読んでいた聖書だった。受け取ると、不自然に膨らんでいた。
「オズ、何か挟んであるみたいだけど」
「ば、ばか! ここで気が付くなよ!」
「え。でも、栞がわりになにか挟んでいたんじゃないの?」
「違う! そ、それは、礼拝堂のなかで読んで」
「……? 私あてなの? でも、私、文字はあまり得意じゃ……」
読めるには読めるけど、得意じゃない。聖書の言葉は難解で、読めない。それに、文字は書けない。
「礼拝堂の本棚に辞書があるから。それで調べて。難しい言葉で書いてないし」
「いまここで読んでくれたらいいのに」
「……ここで読んだら、僕が王都に行きたくなくなるだろ」
「どう言うこと?」
「ばか、ばかドロシー。こういうのはそういうことだって相場が決まってるだろ」
そういうこと?
ドロシーには分からない。首を傾げると、真っ赤になったオズが、眦を吊り上げてこう言った。
「告白、告白の手紙なんだよ! 本当、本当にばか。僕の純情をもて遊んで楽しい!?」
「え!?」
「あー! もう、だからここで言いたくなかったんだ!」
告白って。えっと。
ドロシーは貰ったことがないもの。話だけは聴いたことがある、キラキラした想いの結晶。好きという形。
「私にくれるの」
「他の誰にやれって? 僕はお前にしかやらない」
オズは頭を手のひらで覆いながら、早口で捲し立てた。
「僕が王都から戻ってきたら、結婚してくれって書いてある」
「け、結婚っ……!?」
「そう。返事は僕が帰ってきた時にって、もう! 言わないためにしたためたのに!」
「で、でも。紙なんて初めて見たよ。これ、高いんじゃないの」
「高いよ……」
顔を見られたくないと言わんばかりに、オズは手で覆ったまま続けた。
「だからこそ、僕の気持ちがわかるだろ。生半可なものじゃないって。でも、お前がパン屋をやめるなら取っておけばよかった。……給金が出たらこっちに送るつもりだけど、それまではどうにかやりくりできそう?」
「できるよ! いざとなれば、生えてる雑草を食べる。……みんなには悪いけれど」
「お金が出来たら、すぐに送るから」
ばっと顔を上げたオズの瞳にはもう迷いはなかった。
「絶対に戻ってくる。だから、僕を待っていて欲しい。絶対、ここに帰ってくるから」
「本当に?」
「本当に。だから待ってて。僕は天才だから、王都でもうんと認められて、大金持ちになってここに帰ってくるよ。クソみたいなこんなところじゃなくて、新しく、親なし子のための施設を作ってやる。ドロシーのために、パン作るところもつくってやる。僕が、何でも叶えてやるから」
オズは血のように真っ赤な色をした瞳をしっかりとドロシーに向けた。
「僕と、結婚してよ」