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ミカエルに選ばれたもの

 

「改めて。お前の名前は?」


「ドロシーです」


 夜の礼拝堂は音を全て吸い込んだようにしんと鎮まりかえっていた。

 こつこつと前を行くジュダは祭壇の前で立ち止まる。


「私はジュダ。ジュダ・ロダンだ。ロダン村……。ここからほど近い村の出身だった」


「ロダン村。……申し訳ありません。聞いたことはないです」


「当たり前だ。魔法使いに燃やされてもう王国のどこにもないからな」


 声が出せなかった。シャイロックと話していたとき、彼は魔法使いに対して酷い嫌悪感を抱いているようだった。村と言っていたようにも思う。

 彼の故郷が魔法使いに燃やされたのか。


「お前は?」


「……分かりません。路上に捨てられた子供だと聞いています」


「……すまない。配慮欠ける質問だった。捨て子だったのだな」


 孤児なのだから、両親のことを聞いたところで話せるわけがないと分からないのか?

 ドロシーは苛立ちで、睨みつけてしまった。ドロシーだって、どこで産まれたのか知りたかった。どんな人間がドロシーを捨てたのか知りたかった。


「ええ。捨てられました。親の顔も見たことがありません」


「すまない」


 自分の失言にジュダは背を丸めた。恵まれた人だ。

 親の顔を知っていて、懐かしがる故郷がある。

 ドロシーにはないものを、彼は持っている。

 けれど、彼がなくしたものを、ドロシーは知らない。

 燃やされた村は、荒屋を思い出させる。

 オズも子供達も燃やしてしまおうとする業火。ごうごうと燃え盛る火のなかに飛び込むオズ。


 村を焼いた炎を見ながら彼は何を思ったのだろう。


「名前しか、私はお前のことを知らない」


「知りたくないと思う人の方が多いです。それに、意味がない。知ったところで、価値なんてありませんから」


「両親の話をするべきではなかった。教会では、一般的な話題だったから」


「構いません」


 首を振った。教会の聖職者がドロシーのような薄汚れた孤児の話をまともに聞いてくれているだけで、ありがたく思わなくては。

 ジュダを殺しかけた女だ。もっと詰問されると思ったが、違った。

 ジュダは先ほどから全く態度を変えていなかった。

 シャイロックと対峙していたときのような苛烈さで責められると思っていたが、理知的で落ち着いている。

 怖いぐらいだった。


「どうして、私の聖具のことを知っている? 他の神父も気が付いていないことだ」


「どうして……」


 本当のことを言ったところで信じはしないだろう。

 捨て子の妄言だと思われるに決まっている。

 長椅子に腰掛けた。つるりとしたオークの背凭れに寄りかかりながら言い訳を考える。

 祭壇の前に立つジュダはその美しさも相まって、モナーク神が遣わしたか神子に見えた。


 背中にはステンドグラスがあった。月の光を受けて、きらりと輝く様子は幻想的だ。六英雄の姿が描かれている。聖ミカエルの姿もあった。剣を持ち、魔法使いと戦っている。

 背中には翼を宿し、激烈な炎を浴びせている。

 守護天使ミカエルは、聖女を導いた。


 ――君は大天使ミカエルの言葉を聞いて旅に出たと言っていただろう。


 ジルの声がよぎった。ドロシーはもうそれがいつのことだか思い出せないでいた。本当にジルが言ったかもあやふやだ。

 けれど、その言葉は啓示のように思えた。

 孤児が認められる方法。

 昔、昔に農民の娘が聖女になった奇蹟。

 そうだ。農民の娘がなれるのだから、きっとドロシーだってなれる。


「ミカエル様が教えて下さったんです」


「……ミカエル? 聖ミカエルのことか」


「はい。厳かで、透徹とした声でした。ミカエル様が私におっしゃったんです。……過ちを正せ、と」


「過ちを正せ?」


 瞬きを繰り返す。ゆっくり喋った。ジュダは説法をするとき、穏やかにゆっくりと喋っていた。

 賢い人はゆっくり話すのだ。

 頭がぎゅいんぎゅいんと動いているのがわかる。

 飾る言葉はいらない。大切なのは人を信じ込ませる力だ。


「そうしてジュダ様が、何度も過ちを重ねられるのを見ました」


「わ、私が?」


「最初は分かりませんでした。ミカエル様がおっしゃった言葉は、過ちを正せ、それだけでした」


「過ちとは……」


「もうお分かりのはずです」


 祭壇に寄りかかるように後退したジュダは、かすかに息をするように唇を震わせた。


「天使の言葉を聞いたと……まるで聖女のように?」


「はい。……ジュダ様。貴方の過ちを、天使は見ておられました」


「過ち。……私が無辜のものを殺すと?」


「いいえ」


「ち、違うのか」


 慌てるジュダの頭は今、ドロシーが嘘を言っていないかずっと審議しているのだろう。

 一言の間違いが、命取りだ。舌を湿らせ、大仰に頷く。


「無辜の命よりも大切なことがあります。ジュダ様、貴方は無辜の命を奪い、苦悩し、自ら命を奪う。――自殺されるのです」


 神は、人々に罪の天秤をはからせる。だが、その秤を掲げる聖職者は己を裁く秤は持たない。

 彼らは正しく、公平で清廉であるべきだからだ。

 聖職者がいくら人を殺そうと、明確に地獄に落ちるという話はない。彼らの審判こそ、神の行いのように語られることもある。

 モナーク神は慈愛深き子らを愛し、憐れみを持って迎え入れる。


 だが、自殺は最も重い罪であり、地獄に堕ちると記される。

 天国には行けず、無限の苦しみに至る。火で炙られ、逃げようとも逃げ場所などなく、永劫に苦しみ続ける。


 聖職者は自殺を何よりも恐れているのだ。

 天国を約束されている彼らが、地獄に堕ちるのだから。


「……――!」


 ジュダは言葉もないようだった。ただ、呆然と立ち尽くしている。

 ぎゅっと手を握り込む。


「……失礼ながら、私も私で益がありました。幼馴染のオズという少年、そして孤児のみんながジュダ様に殺される可能性がありました。ミカエル様は、その光景を見せられた」


「お前が私を殺そうとしていたのはその為か」


「……はい。ミカエル様に選ばれたといっても私は俗物です。いざとなれば身を呈して貴方を殺すつもりでいた。――しかし、愚かな私にミカエル様はお導きくださった。蒙昧な私の頭にひらめきをくださった」


「私は誰も、まだ殺してはいない。モナーク神に誓い、その言葉、偽るつもりはない」


「はい。愚かなことを致しました。ジュダ様こそ、ミカエル様がお選びになった使徒だというのに」


 彼の前で跪く。

 天使の声を聞いたという女。すぐに認められるはずがない。

 だが、選ばれたのは自分だと知ればどうだろう?

 特別なのは、ジュダだ。

 ドロシーではなく、彼こそ、天使に選ばれた。

 そう聞かせられたらどうだろう。

 胡散臭いと思うだろう。だが、ひとつ、欲望が落ちる。選ばれたのは自分だと、自尊心が満たされる。


 誰もが特別扱いを好むものだ。清廉を謳う聖者であっても変わらない。


「『怒りの秤』をお持ちでしょう」


「それもミカエル様の導きで知ったのか」


「はい。その聖具のお力で、どうか私の幼馴染をお助け願えませんか」


「……お前の幼馴染を殺した者は、魔法使いなのか。魔女であるのか」


「分かりません。ただ、異端審問官に見せ掛けて殺すことだけは確かです」


「無辜の者を主の威光を振り翳し弑虐するとは、許し難い……」



 ドロシーは笑いそうになるのを堪えた。

 お前が言うのか。火で焼き殺そうとしたお前が。

 お針子の皆を串刺しにして殺した男が。

 罪人がのうのうと生きている。ドロシーが味わった苦痛も知らずに。


「分かった。だが、どうか教えてはくれないか。私がどんな罪を犯したのか。私が誰を殺したのか」


「……はい」


「そして、お前のことを教えてくれ、ドロシー。お前のおかげで私はまだ神に見捨てられていないことを知れた」


 そしてと、ジュダはかすかに微笑む。

 ほころぶと言った方がいいような、優しい笑みだった。


「そしてどうか私のことも知って欲しい。聖ミカエルに選ばれた人」


 息をのむ。ドロシーはジュダを騙した。嘘をついて、聖ミカエルの名を語っている。

 微笑まれる資格はない。そもそも、ドロシーはジュダの愚かさを憐んでさえいた。孤児に騙されている。

 選ばれた人だと。何一つ、ジュダは特別じゃない。ドロシーも選ばれていない。


 聖ミカエルだと思った声は幻聴だろう。

 何の因果か死んで蘇ってを繰り返させられるだけの女だ。

 地獄の罪人なのかも知れないとすら思う。こうやってモナークは意地汚い孤児を玩弄するのだ。


「ジュダ様が望まれるのでしたら」


 あほだと思った。ドロシーが悪人であったら、骨の髄までジュダから搾り取っていただろう。


 この人は何で怪しんだりしないのだろう。


 自分に都合のいい話を素直に受け入れられるんだろう。騙しているのではないかと疑ったり、穿った視点で見ないのだろう。

 無垢な人間だ。


 憐れだと思うし、怖くも、滑稽にも思えた。

 だけど、それだけ。罪悪感はなかった。


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