扉の向こうの人
「シャイロック様が許して下さるのならば、お側でお世話をさせて下さい」
そう、彼女が願っていた。
魔王を倒したあと。王都に凱旋する前のことだ。
平和になった地平を眺めながら、こぼれ出たように。
シャイロックと契約したものは三度、願いを叶えられるのだという。
彼女はたった一つの願いしかシャイロックに望まなかった。
魔王を倒し、救世の手伝いをして欲しい。
残り二つの望みがなくては契約が破棄できない。
シャイロックはそう言っていた。破棄したところで、手放す気はなかっただろうに。
ドロシーは長く考えた後、シャイロックの残り二つの願いはどうするという質問に答えた。
恥ずかしそうに、けれどしっかりとシャイロックの目を見て。
「かなうならば。シャイロック様がお嫌でなれければ、ずっと」
ちかちかと、眩暈がした。
吐き気がこみ上げてくる。ドロシーはどうして、選んでくれないのだろう。
いつも、あの優しい瞳が向けられることはなかった。
シャイロックは鷹揚に、構わないと頷いた。ドロシーが花のように笑う。
妬心が疼いた。けれど、と心の中で嘲笑う自分もいた。
このあと、ドロシーがどんな目にあうか知っている。
だから、この妬心は意味がない。
結局、ドロシーがシャイロックと結ばれることはないのだから。
■■■
親に愛されたことがない人間は、修道女になれないんだよ。
聖職者とは、神の御慈悲の現れ。我らこそが、神の御心を体現せしもの。
一度も、愛されたことがないものは、与える愛を知らない。
ドロシーお前は、与えることを知らない。ただ、欲しがるばかりだ。
卑しいとはお前のことを言うのだ。
憐れだ。ただ、憐れだ。
小さな頃、聖書を読めば修道女になれると思っていた。
貴族の子女達は毎日、朝食を食べて、本を読む。シーツや服を洗うことも、食器を洗うことも、彼女達はやったことがなかった。いつだって、ドロシー達、孤児の仕事だった。
だから、修道女になりたかった。働かず、遊んで暮らしたい。
洗い物をしすぎて、手の皮はめくれ、親指の形が変形した。畑に襤褸靴でいくせいで、虫に食わたのか、足の一部が壊死しかけたことがあった。満足な食事をとれるのは、モナーク神の生誕祭ぐらいで、いつもぐうぐう腹が鳴っている。
いつからだろうか、孤児とはそういう生き物になってしまった。疎まれ、否定されて、鼻つまみ者の扱いを。
そのとき、神父様に相談したのだ。ジュダの前にいた壮年の神父だった。
彼はドロシー達孤児に優しかった。目線を合わせてしゃべってくれたし、聖書を朗読してくれた。
勇気を出した問いかけは、ただ憐れまれただけだった。
彼はかわりにといって働き口を紹介してくれた。ドロシーが働いたから、子供達はドロシーよりひどい飢えに襲われることはなかった。
優しい人だった。
……でも、本当にそうだったのだろうか。
――お前は俺の助手だろう。
シャイロックはドロシーを助手にしてくれた。
彼がドロシーに語り掛けた言葉は厳しいものが多かったが、それでも彼は一度だって孤児だから傍によるなとは言わなかった。
彼の寛大さこそ、優しさと呼ぶのではないかと、ふと思った。
「ロズウェル卿」
「お、おお、すぐに参ろう」
急に振り下ろされる鞭がなくなる。
のろのろと顔を上げた頃には、ロズウェルの後ろ姿は見えなくなっていた。
傍にいるのは、ジルだった。だが、様子がおかしい。
じっとりと見つめられている。
ひっと息をのんだ。彼に、シャイロックごと刺されたことを思い出した。
殺される。目を閉じる。カタカタと、体が震えた。
何度殺されても、痛みを思い出すだけで頭が真っ白になる。
「……?」
だが、身構えても何もなかった。勇気を出して瞼をあげると、ジルはロズウェルの背中を追っていた。
声をかけられなかった?
前はドロシーと名前を呼んで声をかけていたのに?
……思えば、この十数回の死で、ロズウェルの近くにジルを見なかったように思う。
ロズウェルを殴り殺そうとしたときもだ。彼は近くにいなかった。
なのに、今回はロズウェルを制止した。だが、ドロシーには声をかけなかった?
何度も繰り返してきたのに、今回は何かが違っている。
体を起こす。背中の傷が痛い。
――治してもらおう。
反射的にそう思っていた。足が、シャイロックが占拠していた薬屋にむかった。
扉を叩いて出てきた薬師はドロシーを見るなり眉間に皺を寄せて唸った。
慣れた反応だった。食べ物を恵んでくれと頼みにきたのだとでも思ったのだろう。
「シャイロック様はいらっしゃいますか」
「……ッ、シャイロック様のお名前をどこで」
「シャイロック様はどこにいらっしゃいますか」
扉を開き、薬師が室内へと招く。
神経質そうな男だった。眼鏡を持ち上げ、ドロシーを睨みつける。
「どこでそのお名前を聞いたか知らないが、みだらにお呼びするな」
「それはシャイロック様が魔法使いだからですか」
そして、貴方も魔法使いだと断定すると、男は何度も首を振った。
魔法使いであることを否定しているのかと最初は思ったが、どうにも違うと言いたいようだった。
「あのお方は神なのだ」
「……神? 自分で賢神だとはおっしゃっていましたが」
「本当のことだ。あの方はこの世、初めての魔法使いであらせられる。産まれでいえばモナーク神が産まれる何千年も前からこの世界にいらっしゃった。彼は人が初めて作った王国の医師であり、何千年と時を生きる魔法使い。竜に至ったもの」
抑揚のない声なのに、興奮しているように早口だった。
「あの方は死んだとき神に召し上げられると決まっている方だ。世界を統べる三柱。価値と生命の神セフィロト、偉業と戦の神シユウと並ぶ比類なきお方だ」
「……? 何を言ってるんですか?」
セフィロトというのは聞いたことがある。シャイロックが言っていたからだ。だが、モナーク神の他にゴロゴロと神がいる?
しかもシャイロックは死んだら神に召し上げられる?
とても信じられない話だった。
「あの方はもはや、現人神であられる。英雄でも、魔法使いでも、竜でも、肩書きとしては不足だ。雷や嵐と同じ。その名を誓文とするだけで強力な呪いとなる。みだりに濫用してはならぬ名前だ」
「何を言っているのか、本当に……」
「分からないか。魔力はなさそうだものな。だが、お声をかけて貰ったのだろう? とても栄誉なことだ。……探しているのは何故だ」
「助手にしてくださると」
前の世界のことだが、バレることはないだろう。
そう思っていってみたが、薬師は腰が抜けたようにひっくり返った。
「な、ば、バカな」
「何が、バカなのですか」
非難されたと思い低い声が出た。孤児が、と思われたのかと思ったのだ。
「あの方は弟子は何人か取ったが、助手など一人も。何でも一人でお出来になる方だ」
「……そ、それはどうでしょうか」
ボタンの掛け違いやボサボサの髪をそのままにするのはシャイロックが生来から持つ物臭さが原因だろう。一人でなんでも、というのは何度もお世話をしていたドロシーにとっては同意しかねた。
彼は下手をすると、本当になんでもドロシーに丸投げしたのだ。
「魔法を使えぬものが、あの方の助手……」
「助手というか、小間使いのようなものだと。……お世話をさせていただいておりました」
ああ、と納得したように男は頷き立ち上がった。
「それならば確かに。……しかし、妙ではあるな。あの方は何も言われなかったが」
それはそうだ。このドロシーはまだシャイロックと会っていない。
ジルのように無視される可能性すらあった。シャイロックが気まぐれで助けなければ、会えていなかったのだろうし。
だが、それでも会いたかった。
治療してもらいたいから?
……たぶん、違う。
オズを救うためには、シャイロックが必要だから。
オズを救う? 自分でも馬鹿らしく思う。
意味なんかないじゃないか。ドロシーを好きじゃないオズを本当に救いたいのか。
あの牢屋から助けてもくれなかったのに?
「シャイロック様はここにいらっしゃるのですよね?」
「いや、もう旅立たれた」
「……! 東の街に? 麦の根が病に侵されたとは聞きましたが」
「そこまで言われたのか。ああ。昨日立たれた」
「待って下さい。王都に向かう道は封鎖されているのでは。魔獣が出たのではなかったのですか」
王都から聖騎士の一軍が出て討伐するのだと、シャイロックは言っていたはずだ。
だが、薬師は怪訝そうな顔をして首を振った。
「魔獣? いや、そんな話は聞いたことがないが」
ぞわぞわと背筋が震える。
また、変わった。封鎖されていたものが、元に戻った?
世界が元に戻ったのか? だが、あのジルの様子は異様だった。
世界が知っている形に戻ったのに、違和感だけが積もっていく。
いや、考えている場合ではない。このままではシャイロックに会うことが出来ない。
「おい、君。どこにいくつもりだ」
「追いかけます。今ならば間に合う」
「だが、すごい擦過傷だ。待ちなさい。薬を処方しよう。本当ならば二日は休んだほうがいい傷だ」
「……いえ。お金がないので」
手持ちは殆どなかった。これでは、馬車に乗ることもかなわない。
ドロシーは向き直り、頭を下げた。
「あの、お金を貸していただけませんか。必ず返しにきます」
「本当に追いかけるつもりなのか。……言っては悪いが、あのお方は慈悲深い方ではない。助手だの小間使いだのも、ただ言われただけで覚えていらっしゃらない可能性の方が高い」
そもそも言っていないという言葉を喉の奥に押し込む。
死んで、繰り返していることを伝えよう。シャイロックならば何か分かるかもしれない。
前に嫌な予感がして打ち明けなかったことを今更後悔していた。あのとき打ち明けていれば変わっていたかもしれないのに。
オズを助けるか、助けないか。
今は考えたくない。シャイロックに会ってから決めても遅くないだろう。
オズが王都に向かうまではまだ時間がある。
……いや、そもそも、オズは王都に向かわないかもしれない。
好きな女の子を救うために、錬金術師になることを諦めるかも。
考えるな。今は、シャイロックに追いつくことだけ考えるんだ。
「はい。それでも、行きます」
「……そうか。分かった。だが、治療はしよう。傷口をそのままにすれば最悪死ぬぞ。金も、恵んでやる。あの方にお声をかけてもらった、その幸運を祝って」
目を瞬かせる。薬師は薬棚へと向かった。
「……あの、貴方も、魔法使いなのですか」
「薬師の大半はそうだ。西の街の領主に駆け込んでみるか」
「孤児が魔法使いを見つけたと吹聴したところで、頭がおかしいとされるだけですよ」
「そうだろうな。……私も孤児の生まれだからわかるよ」
薬草を取り出していた薬師が動きを止めて、ドロシーを見やる。
彼の眼差しには哀れみが見えた。
「座って待っていなさい。鎮痛薬も出してあげよう」
不思議だった。ドロシーにはこの人が悪事を働く魔法使いにはちっとも見えなかった。
箒で空を飛ぶようにも見えない。
名前も知らないのに、落ち着く。静寂というか、とにかく静かで、安心できた。
苦々しい臭いがしてくる。薬をすり潰しているらしい。
ゆっくりと腰掛ける。やっと、背中の痛みを思い出せた。
薬師は本当に治療をしてくれ、鎮痛薬も出してくれた。
破れた服も変わりを用意してくれた。
銀5つと銅30。ドロシーが持ったことがないほどの大金を薬師は用意した。
お金は返さなくていいと言われたが絶対に返しにくると固辞したら笑って好きにしろと言われた。
金は誰かに奪われないように体中のあちこちに分散させた。熱を持つ体に鞭を打って、馬車乗り場にむかう。いくつかの乗り場を探し回って、やっと目的の男を見つけた。
「へえ、嬢ちゃんよくわかったなァ……。そうだよ、昨日薬師先生を乗っけたよ」
「やっぱり、そうだったんですね」
オズと西の街を出たとき、この御者の男が金の鞄を持った薬師の乗っけたといっていたことを思い出した。
探して聞いてみればやはり、シャイロックは彼の馬車に乗ったのだ。
「その人のあとを追いたいんです。……その、処方していただいた薬に問題があって。弟が危なくて」
嘘だった。だが、この御者は人がいい。こういった方が親身になってくれると思った。
「そうなのかい!? そりゃあいけねェ。……だが、今からだと、早くついてもモルテナントーー薬師先生を降ろした街には明日の昼になっちまうぞ」
「それでもかまいません」
「そうかい。おれの馬は休ませなきゃなんねェ。知り合いにモルテナントを通る奴がねえかきいてみてやるよォ」
「ありがとうございます!」
代わりの人間はすぐに決まった。これしかないと、銅十を見せると、いいさと御者は鷹揚に笑った。
「弟さんのためだ。それに、ついでだしな」




