ゴミ屑の絶望(死因:多臓器不全)
――死にたくない。
痛くて、痛くて。
痛くて、痛くて、痛くて。
死んでも、終わらなくて。
たぶん、三回は死んだのだと思う。
地面を見ながら、ドロシーは何度も考える。
シャイロックは何度死んでも、助けてはくれなかった。
考えるのに疲れて、目を閉じようとしたときだった。
石が見えた。
何の変哲もない、拳の大きさの石。
いつもならば蹴り転がすような大きさのそれを見たときに思った。
……殺せる。
だって、シャイロックに扇動された街の人々は石で王女を殺していた。
握ってからは早かった。ざらりとした感触を、ぎゅっと握りこんで飛び起きる。
老僧は驚いて動きを止めた。反抗されるとは微塵も思っていなかったのだろう。
老僧の瞳に浮かんだドロシーは大きくて、なぜか笑っていた。
殴った感触は軽かった。何度も振りかぶった。
血が出るまで殴り続けると、ロズウェルは腰を抜かして倒れこんだ。
「はーッ、はーッ」
血のべっとりとついた石を投げ捨てる。
背中が痛いのに、手の方が痛い。
殺そうとした? なんで?
自分でもどうしてこんなことをしてしまったのか、わからなかった。
ロズウェルは皺くちゃな唇を震わせる。
「この、この、魔女がァ!」
はじかれたように走り出す。
どうして、こんなことをしたの。
いや、でもあいつは私を何度も何度も殺したじゃないか!
獣のように荒い息を吐きながら走る。血が点々と、跡をつけるように落ちていた。
どこにも帰る場所なんてなくて、ドロシーは結局、荒屋に戻ってきていた。
子供達が話しかけてきても、うまく返事ができなかった。
ドロシーの傷を見ても、まず最初に出た言葉が、「おなかがすいた」だったからだ。
泥をつけたように汚れた毛布の上に、オズの借りていた聖書があった。ドロシーはなかに挟まった手紙を抜き取った。
あて先は、読めなかった。
でも、少なくともドロシーとは書いていない。
どうせ、ナタリーシャという名前なのだろう。名前の響き通り、綺麗でかわいい女の子なのだろうな。
あんなに心に刻んだドロシーという自分の名前は、教えてくれたオズさえ書いてはくれないのか。
封筒をはいで便箋を取り出す。力任せに破いた。
小さく、小さくして、踏みつぶした。
こんなもののためにオズが火の中に飛び込んだのだと思うと馬鹿らしくて笑えてきた。
こんな吹けば飛ぶようなものより、ドロシーは下だったのだ。
ドロシーを一番に据えていてくれたオズにはどうやったら会えるのだろう。
また、死んだらいいのだろうか。何度死んだら、あのオズに会えるのだろう。
オズがしてくれた約束を、ドロシーはまだ期待していた。
「……ドロシー?」
名前を呼ばれたから、振り向いた。
オズがいた。いつもの、質素なズボンとシャツだけの姿だ。
「すごい怪我してる。……はやく、治療しないと」
オズが伸ばしてくる手を振り払う。
床に視線を落とすと、オズは今、手紙の存在に気が付いたように目を見開いた。
「な、なんで。僕の手紙」
「ナタリーシャって人だよね」
「……なんで、名前を知っているんだ」
「先生が教えてくれたんだよ」
散り散りになった手紙をオズがかき集める。
ジルがドロシーの手紙をびりびりに破り捨てたとき、こんな気持ちだったのだろうか。
オズが拾い集め、ドロシーを見上げる。信じられないと顔に書いてあるようだった。
「お医者様を目指すってきいた。錬金術師をやめて」
「ドロシー、なんでこんなことをしたんだよ」
「そんなの、私が訊きたい!」
オズは戸惑ったように瞳を揺らした。
当たり前だ。被害者はオズで、ドロシーは加害者なのに、その加害者が意味の分からないことを喚いている。
「私は……ッ。オズがナタリーシャって人のためにお医者様になったら、私の未来はどうなるの」
「未来って、何」
オズは、街の自慢の錬金術師になって、あふれるぐらいの金貨でドロシーのために家を建ててくれる。孤児のための施設を作ってくれて、そこでパンを焼く。
なんでも叶えてやるからと言ってくれたじゃないか。
「僕の未来に、ドロシーの未来は関係ないだろ」
「……ッ!」
拳を振り上げた。憎かった。ロズウェルより、憎かった。
ドロシーの顔をみれば「おなかすいた」としか言わない子供達より、ずっとずっと憎かった。
――オズと、結婚する。私、ずっとオズを待ってる。
待ったって意味がない。
――働きものだから、結婚したいってわけじゃない。
約束なんて、意味がない。
――役に立つから好きなわけじゃない。
あの投げかけてくれた言葉はすべて、泡沫の夢だった。
あんなに輝いたものが? ドロシーの、幸せが?
何もなくなる? そんなの、許されない。許したくない。
――だから、待っていて。僕以外にドロシーにぴったりな人なんていないから。
素敵な泡沫。幸せな夢。溶けて消えてしまった、ドロシーの未来。
町中の幸せを集めても足りないぐらいの幸せが、あんなに近かった幸せが、遠い。
胸が背中よりずっと痛かった。
使いきれないほどの金貨で、家を用意してくれる。パン屋をさせてくれる。でも、そんなのどうでもよかった。ドロシーはオズに愛された。好きだと、言われた。
ずっと、待っていてと乞われた。それだけが、本当に幸せだった。
けれど、ドロシーのことが好きだと言ってくれたオズは、もうどこにもいないのだ。
目玉を取られて、腹を十字架の剣で貫かれていたオズが、あの死んでしまったオズこそが、ドロシーのオズだった。
もう、オズは死んでいる。
どんなに願っても死人は蘇らない。
もう、何も考えたくない。涙で何も見えなかった。何もしたくない。何も知りたくない。
手の力が抜ける。
「ごめんなさい」
駆け出していた。もうここにはいられない。
戻りたくもない。
街の外を目指して走り続けた。この街にいたくなかった。
関所の前に来た時だった。
後ろから腕を掴まれた。顔をじろじろと見られ、こいつだと男は叫んだ。
騎士団の格好をしていた。シャイロックが殺した人間もいた。
「こいつが、ロズウェル卿を」
「とんでもない餓鬼だな」
「憐れだねえ。おい、お前。ロズウェル卿をーー貴族に手を出したそうだな」
「石で頭を殴ったそうだな。高貴な血が流れた。お前、無事でいられるはずもないよ」
男達に取り囲まれる。手にこびりついた血を見て、騎士達はため息をついた。
「生臭い餓鬼だとは思ったが、汚れを洗いもしないとはな」
「馬鹿餓鬼がやったことだ。頭なんか回るわけないだろ」
「こい、馬鹿女。楽に死ねると思うなよ。……賄賂すら払えないような身なりの女だな」
「そりゃあ、孤児だからな。心配するような親もいない」
「ああ、パン屋のドロシー? こいつが? 誰だよ、かわいいって言ってたやつ。冴えない頭空っぽそうな女じゃねえか」
おかしい。前は、シャイロックが殺してくれたのに。今はぺらぺら、ぺらぺら、言葉が途切れない。
「股は緩そうだけど」
「だれか食った奴いるの?」
「さあ、知らない。お前は聞いたことあるか?」
「犯してみればわかるだろ」
「違いない。牢屋でやるか?」
すべての臓器を地面にまき散らしていたのに、気持ち悪い言葉が止まらない。
「ヤだよ。やるならお前だけヤれよ。こんな不細工とはお断り」
「俺だって」
「――シャイロック様」
小さく、祈るように呟く。
「あ? なんて言った?」
騎士の一人が顔を覗き込みながら頬を叩く。
「シャイロック様! 助けに来て。助けに来て下さい。どうして、助けに来てくれないんですか?!」
髪を振り乱して騎士達の腕から逃れようと暴れる。
どうしてドロシーの近くにいないのだろう。パンをくれたくせに。助けてくれた癖に。ドロシーを大切にしていた癖に!
「私が死んでもいいの!? どうしてですか!? 聖女ではないから? でも、ジル様が聖女だと言っていたのに!」
君こそが聖女だとジルが言ったのではないか。
シャイロックだって聖女と重ねていた。名前が同じだから、気遣い、国家を転覆させてやるとすら言ったのに!
どいつも口ばかりで、ドロシーの側にはいない。
今、ドロシーは辛い目に遭っているのに。誰も助けてはくれない。
「私が悪いのですか。でも、私を価値のあるもののように扱うから。温かいパンをくれて、優しい言葉をかけてくれたから。私はそんな恵まれた、選ばれた、特別な立場ではなかったのですか?」
「違うに決まっているだろ。お前みたいな孤児。どんな詐欺師に騙されたのかは知らんがな」
甲冑の奥で、不気味なものを見る目で騎士がドロシーを見ていた。
「お前はそこらの塵と変わらん。馬鹿げたことをしたものだなあ」
「脳みそが空っぽなんだろう。少し見目がいい男のいうことにコロッと騙されでもしたのさ。選ばれた? 特別? 何を勘違いしてるんだ。お前はゴミ虫なんだよ」
頭皮ごとちぎられそうなほど髪を引っ張られる。
「お前が傷つけたお方はな、お前みたいなゴミ虫が一生手出し出来ないような高貴な方だ。この意味が分かるか?」
分からない。分かりたくない。
ロズウェルは、ジルの前では滑稽なほど怯える老僧だった。シャイロックの前では床のシミと同じだけの価値しかなかった。
すぐに殺され、顧みられることもなかった。
血の臭いが恋しい。シャイロックの殺戮が今ここにこそ必要だった。
「お前は今から牢屋にぶち込まれて死ぬまで黴臭い風と一緒に寝起きすることになるんだ」
「ま、泥臭いこの女にはお似合いさ」
「それもそうだな」
髪の毛を引っ張られて連れていかれる。
最後までシャイロックはこなかった。
「おとなしくしてろよ、馬鹿女」
鉄の扉が閉まった音が、鼓膜の奥で何度も反響する。
鉄格子の隙間から冷えた空気が流れ込んでくる。湿った石壁にはカビがこびりつき、鼻を突く異臭が喉の奥をえぐった。
騎士達のいう通り、牢は人の汗と、汚物とカビの臭いが混じった酷い臭いがしていた。
背をつけた床はざらついて冷たく、身体の熱を容赦なく奪っていった。
うめき声が他の牢からしている。かちゃかちゃ、鉄格子を揺らすのは風なのか、人なのかも判然としなかった。
ふと、首筋を何かが這った。反射的に手をやるが、そこには何もいない。
足の甲に小さな違和感。痺れかと思ったが、違う。這っている。何かが、確かに。
次は、手首。指の間。首筋。耳の後ろ。
ひとつ、またひとつ。数を数える余裕もない。気がつけば、全身がざらついた。
「虫だ」
気づいたときには遅かった。衣服の隙間から入り込んだ小さな影が、皮膚の上を自由に這い回っている。掻いても、叩いても、どこまでも現れる。
その感触は次第に現実感を失い、やがて皮膚の下へと潜り込んできたような錯覚さえ起こす。身体が、自分のものではないようだった。
叫ぼうとしても、声が出ない。喉が張り付いたように乾ききっている。
助けて、とさえ言えない。
虫なのか幻覚なのかも、もうわからない。痛みも痒みも、現実の感覚として受け取れない。
気づけば、腕に爪を立てていた。皮膚を裂けば、出てくるかもしれないと思って。
けれど出てくるのは血だけ。
どこにもいない。何で?
何でどこにもないの?
もしかしたら、最初から虫なんていなかったのかもしれない。
でも、それならこの痒みは? 疼きは?
頭の奥で蠢くこのざわめきは何なのだろう。
何日か経って、ロズウェルが牢を訪れた。
彼は鼻をおさえながら、失禁したドロシーを見下ろしていた。
ろくに食事も与えられてはいない。
罪人は死ぬべきだと、騎士達は思っているようだった。
牢屋に入れられているのは浮浪者か、ドロシーのように身寄りのないものなのだろう。悲しい慟哭だけがときより聞こえた。
おそらく、発熱しているせいか、体もよく動かない。虫は皮膚の中を這い回り続けて気持ちが悪かった。
「こやつか……」
「はい。間違いございませんか」
「そうだった、気がする。いや、この女だった。この女に間違いない」
「如何いたしましょう。どうやら身寄りのない孤児でして……」
「そうなのか? ハア。まあ、どうせこの様子だ」
「ではこちらで処分致します」
ロズウェルがいなくなると視界が急にぼやけ始めた。
心臓がはねまわり、うるさいぐらいに心音が聞こえる。
手先の感覚がなくなって、冷たくなっていく。体は火照っているのに。
「……こりゃ、死ぬな」
「死んだってかまいはしないさ。人毛は女の髪の方がよく売れる。女の死体もな」
「ハハッ、モナーク神の加護ぞある、ってな」
ドロシーは気付きを得た。
モナーク神はドロシーを何度も殺すために蘇らせているのだ。
永劫に苦しませるために。親に愛されず、人を殺しかけ、オズを憎んだからだ。
慈愛の神はドロシーを心底軽蔑しているに違いない。
この繰り返しに意味はない。ただ、罰を与えられているのだ。
モナーク神は罪人をはかり、裁く。
気がつけば、ドロシーはまた老僧に鞭でうたれていた。
夕日が暮れるまで、ドロシーが死ぬまで、それは終わらない。
また、死んだ。これが罰だと気がついたときから、近くにある石は誘惑であると気がついた。手を取り、ロズウェルを殴り殺すこともできる。
だが、結局そうしたところで待っているのは冷たい牢と残酷な死だけだ。
やり返すことに意味はない。
地獄と同じだ。永遠に鞭打ちを繰り返される。それだけの人生なのだ。
諦観で指の力が抜ける。ドロシーは、また、死んだ。




