夕日の下の一幕(死因:出血死)
歴史。
それは積み重ねてきた砂である。
コップは無数にあり、砂だけが平等に降り積もる。
結局は、誰もが塵芥であった。等しく無価値で、何の意味もない汚れであった。
だがあるとき、コップをひっくり返そうとするものが現れた。
砂のなかから育ち、外に出て全てを変えてしまおうと。
彼らは神と分類され、砂のなかの塵に崇拝され始めた。
世界のことわりとは指差す通り。神秘が生まれ、贄が祭られ、獣が人となった。
理知、驕慢、正気、欲望、好奇心、秘匿。
感情はコップを飛び越え伝染した。
もはや、これは砂ではなく。
ならば、砂であるはずのこの歴史とは何なのか。
知識はやがて、次元をわたり、人は交わり均衡は崩れる。
驕りは破滅を呼び、塵は厄災を産んだ。
現実は愛で汚れ、恋はただ、空しく終わる。
有限はつき、どれだけ繫栄を繰り返そうと、いずれ終焉は訪れる。
麦を焼いた魔王の炎を、大地は忘れない。
時が経ち、雨風が再び新芽を芽吹かせようと、もとに戻るものなどついぞない。
すべてが手のひらからこぼれ落ちる砂である。
モナークはその真理にたどり着き、信徒達に苦難を強いた。彼は慈悲の心で、教えを説く。
曰く、人生とは一度きりであり、繰り返す生などあり得ぬのだと。
転生などまやかしであり、水に映る己の姿のように似ていても、同じではないのだと。
これにより、悪と善は定まった。セフィロトの強いたものとは全く違う世界を、塵は見た。
ゆえにモナークは崇められ、功徳を積むため人々は天秤に救いを求めた。
しかし、その天秤は狂っていたのだろう。
今や、モナークの威光は陰るばかりである。
■■■
あの、鼻歌が聞こえる。
夕日の下で、シャイロックが口ずさんでいる。
聞き馴染みのある歌だった。懐かしくて、泣きそうになる。
黄金の斜陽が注ぐ、夢のような風景。
魔王の城へ続く道だというのに、土と泥の臭いがしてきそうだった。
毎日のように様子を見に行っていた畑がすぐ傍にあって、だらけた妹達に囲まれてうたた寝をしてしまった。そんな気さえした。魔王を倒しに行くなんて、夢物語のような。
陽が落ちれば終わるからねと声をかけそうになり、慌てて口を塞ぐ。
変なものだ。ここらでは、蝗は巨大化し、食物ではなく人を食べる。畑は焼き払われ、人の気配すらない。
正面には黄金に輝く城。その威光に身震いがしていたのに、震えが止まっている。
もう、怖くない。
鼻歌をうたうシャイロックは楽しげだった。
眉間の皺が取れて、子供のように夕日に手を伸ばしていた。
――あはは。
調子はずれのドロシーの唄ばかり聞いていたせいだろう。
彼の歌はへたくそで、聞いていられない。
「シャイロック様」
「……なんだ」
「――必ず勝ちましょうね」
村に帰ったら、兄に歌って貰おう。完全無欠のシャイロックが音を外す姿は、嬉しいけれど、罪悪感が押し寄せてくる。
きっと兄様ならば、きちんとした歌をシャイロックに教えてくれる。
存外、シャイロックは自分が知らないことが好きなのだ。
シャイロックは調子ハズレだと気がついたときお前はどれだけ下手なのだとあきれるだろうか。
――それでもいいから。
ドロシーが頼み込んだら、またこんな黄昏時にへたくそな鼻歌をまた歌ってくれたらいいな。
その後、聖女は魔王を討ち倒し、そして聖女は民衆に石を投げられながら死んだ。
歌? そんなもの、一度だって叶うことはなく。
故に聖女の思いなど、誰も知る由もなかったのだ。
■■■
痛みで瞼を開ける。
また、鞭で叩かれていた。
涎と汗をこぼしながら、老僧が怒り狂っていた。
これで何回目だろう。……三回目?
あれ。疑問が湧き上がる。
前の時は、シャイロックと一緒に広間に行く前ではなかったか。
深く考えなかったが、前のときだけ、おかしかった。
その前までは必ずこの場所に戻っていた。ロズウェルの鞭に打たれていたはずだ。
まるで、シャイロックに会う前に戻ってしまったような……。
そこまで考えて息をのむ。
――今度は、この男とは会えないようにして工夫するよ。
ジルはそう言っていなかったか。
いや、馬鹿げてる。ドロシーは頭がどうかしてしまったのだ。
そんなことあるわけがない。
まるで、ジルがドロシーの運命を牛耳っているだなんてことありえない。
考えるのはやめよう。もう少しでシャイロックが来るはずだ。
ロズウェルを蹴飛ばして、彼と一緒に逃げ出すはず。
そのあとはどうしよう。
……オズのこと、考えなくちゃ。
頭を丸めて蹲る。
はあはあと、吐き気がするような呼吸音が聞こえる。
「罰してやるのだ。この儂が! ありがたく思え、小娘!」
肩が痛い。背中が痛い。腰が痛い。
息が出来ない。
おかしい。シャイロックはいつ来るんだろう。
もう来てもおかしくないのに。
そっとあたりに目を這わせる。
通りかかる誰もが一度はドロシーに目線を落とすが、関わりたくないと言わんばかりに目を逸らして早足で去っていく。
それはそうだ。みるからに身なりの悪い女を助けようとは誰もしないだろう。相手は明らかに貴族で、ドロシーが粗相をしたのは明らかだ。
助けてくれる人間なんて、いない。
「ありがとうございます、はどうした?」
――シャイロック様。
「あぁ、儂に逆らうつもりか。お前如きが」
――シャイロック様?
どうして助けてくれないのだろう。
一度、助けてくれたじゃないか。
この老僧を蹴り飛ばしてくれたじゃないか。
頭に足を乗せられる。石畳に頬がめり込む。
鞭打ちがやまない。興奮したロズウェルは手加減なしでドロシーを叩いた。
ドロシーの体重の何倍もある男がドロシーを踏みつける。
ミシミシと、頭蓋骨が軋んだ。
――シャイロック様。シャイロック様。
魔王と言ったから助けに来てくれないのだろうか。
人殺しだと思ってしまったから?
泣き出しそうな彼を無視してオズのことを考えたから?
「死にたいのだな? 死にたいのだろう? 薄汚い女が。儂の手に触れよって。――さてはお前、魔女だな?」
「ま、じょ」
広間の女達が、磔になって死んだ姿が浮かんだ。
この老僧は魔女といえば痛めつけていいと思っているのだ。自分は高貴な身分で濫用しても咎められることはない。
王女だって嬲り殺しにした最低な男なのだから。
――シャイロック様。
「ああ、この淫売め。報いを受けさせてやる」
無情なことばかりが蔓延る。何を勘違いしていたのだろう。
シャイロックという傘があったから、ドロシーは生きてこれただけだ。
最初はオズを助けようとして木の棒で殴り殺された。
次は首をへし折られた。
弱いドロシーにはなすすべがなかったじゃないか。
責苦は夕方まで続いた。
鞭は骨の上を何度も叩き割るように打ち据えた。皮膚は削がれ、肉が露わになり、出血は止まらず、ドロシーの命はゆっくりと流れ出ていく。
そこへなおも鞭は容赦なく叩き込まれる。
血と汗が入り混じり、体温がじわじわと奪われていく。
魔女が、魔女がと、ロズウェルは自分の手の皮が剥げようと鞭打ちをやめなかった。
手は震え、指は動ごかなくなっていた。血が川のように滴り落ちても、誰も止めてはくれない。
意識が朧になり、意識が遠くなる。
ただ、石畳に頬を押し付けながら、ドロシーはぼんやりと、名前を口の中で転がす。
「…………」
最後の一打が落とされたとき、小さな胸は、静かに動きを止めた。




