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散々な日

 

 散々な日だ。

 風邪を治し、病み上がりの体を引きずりパン屋へ向かったドロシーに言いつけられたのは解雇だった。

 どれだけ追い縋っても、おばさんは許してくれなかった。


 優しくしてやれば付け上がりやがって。お前のような役たたずの家なし子より、もっと使える子を雇うからさっさとゴミために帰りな。


 箒で追い払われ、何度も頭を叩かれた。

 悔しくて、泣いてしまいそうだった。けれど、泣いている暇なんかない。今度は皿洗いを手伝っている酒場に向かった。

 だが、反応はパン屋と同じ。ほとんど門前払いだった。


 一度休めば信用がなくなることは分かっていた。


 けれど、心のどこかで甘えていた自分がいた。店の役に立っている。人の役に立っている。

 自信があった。あるつもりだった。

 けれど、ドロシーは誰にも必要とされてはいなかった。


 誰かに取って変わられる誰でもいい存在だった。


 明日からどうやって生活しよう。頭では考えられるのに、心が追いつかない。

 これからどこか店の面接に行こうか。けれど、パン屋は街の中心部にあってそれなりに有名で、常連客はドロシーの顔と素性をよく知っている。


 パン屋のおばさんがあることないこと吹き込めば、次に決まった場所で悪評を立てられてしまう。

 そうすればまた辞めさせられる。

 どこまでいっても、孤児だという事実からは逃れられない。

 孤児というだけで、肩身の重い立場に陥る。親がいないというだけで。好きでそうなったわけではないのに。ドロシーが捨ててくれといったわけではないのに。


 とぼとぼと次に行く店のあてもなく、孤児院に戻る。


 シスター達は日中に帰ってきたドロシーを邪険に扱うだろう。

 成人の孤児が、孤児院にとどまることを彼女達は嫌う。

 シスターと言っても神に身を捧げた者は一握りで、ほとんどが良家の子女達だ。

 躾や教養を覚えるために預けられている。だから、正式にはシスター見習い。

 同じ施設内で過ごすが、扱いは天と地ほどの差もある。

 というのも、彼女達は食器を洗うこともなければ料理を作ることもない。

 掃除や洗濯、汚いものに触れる仕事はしない。


 恋愛小説と聖書の朗読、裁縫の稽古、楽器の練習。そんな煌びやかな生活を繰り返している。

 汚い仕事は全部、ドロシー達の仕事だ。汚物の処理から、残飯で肥料を作り、それを裏の畑にまくことも。


 彼女達は汚い、臭いと言ってドロシー達を遠ざける。

 いつも水で体を洗っているけれど、石鹸や椿の油で髪を洗う彼女達にとっては何も付けずに洗うドロシー達は臭いのだろう。


 ーー邪険にされてもいいか。今日ぐらい、彼女達の嫌味に耳を塞いで、畑の草取りをしよう。


 そう思い施設の門を潜ろうとした時だった。

 中から黄色い悲鳴が上がった。

 赴任してきた神父が若く美しい男だった時と同じようなーーいやもっと甲高く、興奮した声だ。


 声は庭から響いているようだった。

 建物を回り込み、中庭へ出る。中庭を突っ切れば畑に辿り着く。

 この間肥料をやったばかりなので、鼻が曲がるほど臭うはずだ。

 だからシスター見習い達はこの時期は庭に近寄りもしない。

 そのはずなのに、彼女達は中庭に集まり、きゃあきゃあと悲鳴をあげていた。中心にはだれかいるようで、熱心に話を聞いているようだった。


 だれかが孤児を引き取るために見に来たのだろうか。

 その人が整った容姿をしているから、騒いでいるのかもしれない。


 成人を迎えているドロシーが引き取られることはまずない。関係のない話だと思い、来た道を引き返えそうとした。

 そのとき、人の壁の向こうで朗らかな声がした。


「やあ、ドロシー。やっと帰ってきたね」


 一瞬、自分の名前が呼ばれたと分からなかった。

 名前を呼ぶ声が優しすぎたのだ。

 ドロシーを呼ぶ声は、大抵が苛立ち混じりだ。あるいは泣きそうなとき。孤児の仲間達が抱きしめて欲しいときに使う。

 でも、この頃一人だけ、ドロシーを甘い響きで呼んだ人がいた。

 美しい、いい匂いがする紳士。

 でもここにいるはずがない。


 ドロシーは声を無視して歩いた。だけど、声は諦めることなく、ドロシーを呼び続ける。


「ドロシー、こっちを向いて」


 声は、なお甘くなる。


「ドロシー、どうして行ってしまうの?」


 阻む人間などいないように、声はドロシーを呼び続ける。


「俺を見て。会いに来たんだ。お土産も一緒だよ」


 誘うような響きを持って男が声で手招く。


「ドロシー、ドロシー、ドロシー?」


 容赦なくドロシーの名前を連呼する声に恐怖が募った。返事してくれるまで決して口を閉じないと言われたようだった。


 ドロシーは覚悟を決めて人の壁をかき分けた。

 幸い、ドロシーに触れられるのを嫌って退いてくれた。

 声を張り上げて通してといわずに済んだ。


「ああ、ドロシー。よかった。無視されるのかもしれないと思って胆が冷えたよ」


「……旦那様!」


 やはりというか、ドロシーの名を呼んでいたのは帽子を落とした紳士だった。

 婉然とした笑みを浮かべ、ドロシーを砂糖が降りかかった菓子のように甘い瞳で見つめている。

 なぜこんなところに彼がいるのか、解せない。

 罰を与えるために鞭を打ちに来たというにはドロシーを呼ぶ声は甘過ぎる。

 それに、彼が今座っているものはなんだ?

 訝しむ視線に気がついたように、彼は答えてくれた。


「これはね、愛おしい君を鞭打った男だよ。死ぬよりも酷い目に合わせてやろうと思ったんだけど、その前に君にも仕返しをする機会が与えられるべきだと考えて持ってきたんだ」


「持ってきた? ーーっ!」


 彼が座る椅子は、ドロシーを鞭で虐めた僧侶でできていた。

 顔が腫れ上がり、老健そうな顔つきが見る影もない。

 枯れ木の手と足をついて、馬のように男を背中に乗せている。


「もうじわけありまぜん青公爵! わだぐじめがいだらぬばかりに……」


「素直なのはよろしいね。でも、君が謝るべきなのは俺じゃない」


 腹を蹴飛ばし、紳士は詰った。老僧は腫れ上がった顔中に涙を溜めてぼろぼろと泣き始めた。


「お嬢様っ! わだぐじめが、いだらぬばがりに……! もうじわげございまぜん!」


「ほら、ちゃんと頭地面に擦り付けて謝らないと駄目だろう?」


 言われるがまま老僧は地面に頭を擦り付けた。

 恥も外聞もなく、尊厳もなく、ただ許されたいからそうしているのだと言わんばかりに。


「お許じぐだざい、お嬢様ぁああ!」


 目の前で起こるあまりのことに瞠目した。

 涙を流しながら謝り続ける老僧。

 その上に乗りながら、ずっと腹部を蹴り続ける紳士ーー青公爵と呼ばれた男。


 今日一日が夢なら覚めて欲しいと強く願った。そうしたらパン屋のおばさんに死ぬほど謝ってパン屋の仕事を続けさせてもらう。

 売れ残りのパンを貰って縫い物をして、皿洗いに行く、平凡な毎日に戻るのだ。


 けれど、目を瞑って、開いても、現実は変わらなかった。


 紳士はドロシーをじっと見つめ、いつ許すか、どう許すか、測っているようだった。

 試されているという事実にごくりと空唾を飲み込む。

 どうしてこんなことになったんだろう。

 混乱する頭を整理して唇を動かす。


「もうやめて下さい。私はこれ以上は望みません」


「心優しいね、ドロシー。君はこの間もそう言った。けれど、今の君も許すのかな。それは予想外だ」


「どうしてですか。私は本当に」


「だって」


 紳士は立ち上がり、踊るような優雅さでドロシーの目の前にやってきて腕を取る。


「ほら熱を帯びている。叩かれた場所が膿んだろう? 君は寝込んで、勤め先をクビになった」


「ど、どうしてそれを……!」


「君のことなら何でも知っているよ、ドロシー」


 優しい手つきで腫れた傷口を愛撫された。

 ぴりっと刺激が走り、痛みに顔を顰める。


「青公爵」


 傷口を抉られているにも関わらず、ドロシーは彼に怖いや恐ろしいといった負の感情を抱くことが出来なかった。

 ドロシーを慈しむような瞳がそうさせるのかもしれない。

 彼が浮かべる優しい情を無下には出来なかった。

 優しさが誰彼構わず与えられるものではないと知っている。


 身をもって、知ってしまっている。

 だからこそ、注がれる優しい感情に嫌悪感を抱くことができなかった。


「ジルと呼んで。君にそう言われるのはむず痒い」


「ジル様?」


「ジル、と呼び捨てで。君と対等でいたいんだ」



 怒号や悲鳴が飛んだ。だが、ドロシーの耳には入ってこない。

 この紳士はドロシーと対等になりたいと言ったのか?


 顔が赤くなる。そんなことをいう貴族、知らない。見たことがない。聞いたこともない。

 戸惑い、苦悩した。本当に名を呼べば手のひらを返してドロシーを鞭で虐げるのではないのか。


「呼んで、ドロシー」


 懇願するような瞳に負け、ゆっくり舌を濡らす。

 恐怖で唇が震える。歯がかちかちと耳障りな音を立てた。


「ジル」


 言った瞬間、美しくて呆気にとられた。美しい大輪の花が開いたように笑ったのだ。


「うん、ありがとう、ドロシー。君のためにこの男を、今から酷い目に遭わせるからね」


「酷い……え?」


 這いずって逃げようとしていた老僧を足で踏み付けて、蕩ける甘い笑顔でジルが囁いた。


 地面を指で掻く老僧は綺麗な宝石が埋め込まれた指輪を汚しながら、慈悲を乞うていた。


「さあて、皆、お待ちかねの私刑の開始だ。見学料は取らないので、好きに見て行ってくれたまえ」


 声を張り上げ、ジルがシスター見習い達を呼び寄せた。

 彼女達は目を輝かせて、踏みつけられた老僧の周りに集まってくる。


「鞭打ちですか?」


「爪剥がしですか?」


「それとも火炙り?」


「どれでもいいです! ううんと残虐なものがいい!」


 口をあんぐりと開けて驚く。

 彼女達は何を言っているのだろう。

 とても正気とは思えなかった。


 確かに彼女達は傲慢で、残酷だ。ドロシー達のような孤児を見下して、悦に浸っている。

 けれど進んで血を見たいと望むようなはしたない性根ではなかった。


「残酷、残酷、ね。一番残酷なのは火炙りだよ。肌が溶けて、煙で息が出来なくなるのだからね」


「じゃあそれにしましょうよ、青公爵」


「そうしましょう。そうしましょう!」


 シスター見習い達が口々にそういってジルに迫る。

 仕方がないといわんばかりに片目を閉じて、ジルが頷いた。


「では、そうしよう」


「そ、そうしようって、ジル……様!」


「ジル」


 強めの言葉で正され、勢いが殺される。

 ぱちぱちと瞬きを繰り返して、拳に力をこめ、名前を呼んだ。


「ジル」


「なあに、ドロシー」


「火炙りは非人道的というか……その、いけないことだと思います!」


 言い切ると、肌を刺すような視線を感じた。見習いの少女達がドロシーを敵意のこもった瞳で凝視しているのだ。


「あなた、孤児のくせに青公爵に意見するつもりなの?」


「思い上がりも甚だしくってよ! そもそも御尊名をお呼びできるだけで光栄と思いなさい!」


「ねえ、青公爵、わたくし達もジル様って呼んで構いませんかぁ?」


 科をつくり、媚を売る彼女達の圧に押され、ドロシーは口を閉ざす。

 そもそも、貴族のジルに意見するのはおかしなことなのだ。彼女達の意見はもっとも。


 だから、意見するのは、ドロシーの自己満足にしかならない。

 けれど、嫌なものは嫌!

 自分を虐げた人間だろうと、目の前で黒焦げになって欲しくない。


「嫌だよ、気持ち悪い。君達には見学だけを許したんだ。それ以上の行為は許さない」


 彼女達は怯えるように顔を引きつらせた。だが、それは一瞬のことで、すぐに惚けるような笑みを見せてはーいと甘い声を出す。


「この媚びへつらうのだけが上手いご令嬢達のことは無視して構わないよ。でも、もう私刑をするって決めちゃったからね。口に出したものを軽々に取り下げるのは、青公爵の名が廃る」


「じゃあ、せめて火炙りはなしでいきませんか?! そ、そうだ。私は鞭打ちにあったので、だから、彼にも鞭打ちで勘弁してあげて欲しいです」


「鞭打ち、か。やだ。もっと、苛烈なものがいい」


「――!? か、苛烈、ですか?!」


 ジルは可愛らしい口調でそう言い放った。

 鞭打ちだけでも十分苛烈だ。

 鞭に慣れていない人間が振るうと、骨が砕け、肉が裂ける。

 鈍痛が走り、皮膚が腫れる。熱を帯びた腫れのせいで、ドロシーのように寝込むこともあるのだ。

 簡単に、人を痛めつける事ができる恐ろしい罰なのに。


「俺のおすすめは火炙りなんだけど。だめ?」


「だめです! 鞭打ちにしましょう? ね?」


 ジルは考え込むような仕草をした。数秒後、にこっと口角を上げる。

 嫌な予感しかしないその笑みに戸惑いながら、一挙手一投足を見つめた。


「分かった。じゃあ、ドロシーが代わりに俺の言うこと、なんでも聞いて」


「ええ、ききます。ききますとも……え?」


「本当! ならよかった。うん、じゃあ、鞭打ちにするね」


 とんでもないことを流れで頷いてしまった! とドロシーが気が付いたときには遅かった。

 ジルは楽し気に鞭を振るい、豚のような悲鳴を老僧はあげる。

 それを囃し立てるように、見習い達は歓声を響かせた。


 ここは何と言う名の地獄だっただろう。ドロシーは半ば悪魔に魂を売り渡してしまったような心地で、ぼんやりと眺めていることしかできなかった。



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