君と結ばれる人間(死因:刺殺)
屋敷の下には二色の旗がはためいている。
一つは黄色、もう一つは青だ。
シャイロックは二つの旗が出た瞬間、部屋から出て屋敷の玄関へと向かった。白衣を羽織った彼の背中は怒っているように見え、ドロシーは縮こまりながら続いた。
玄関を開き、外に躍り出る。武装した兵士達がなかから出てきたドロシー達を殺気立った様子で睨み付けた。
「シャイロック様、何を考えていらっしゃるんですか」
「――あの旗は六色貴族の旗だ。黄色は【年増】の色。そして、青は俺の色だ」
青伯爵。【竜】の一族だ。
ジルは竜の血を飲んだ一族だと言っていた。
ならば、このたなびく旗の先にいるのは。
「愚か者が俺の血を飲み、子孫を語っている。下劣な行為に一言文句を言ってやりたくてな」
「黄色の旗と並ぶのが腹立たしいというつもりなのだろうか」
兵達が声の主を見やり、道を開ける。中には跪いて祈るものまでいた。
太陽に輝く髪は祝福されたように黄金に輝いていた。澄ました湖面の青は深い瞋恚を映しメラメラと燃えている。
甲冑を身に纏ったジルは、鎧の重さなど微塵も感じさせぬ優雅さでシャイロックの前に立つ。
驚いたことにシャイロックは一度も声を発さなかった。壮絶な舌禍はなりをひそめ、伺うように男に視線を注いでいる。
「――聖騎士殿」
驚愕と苛立ちを混ぜたような声でシャイロックは聖騎士殿とジルを呼んだ。
「お前、あの聖騎士殿か」
「驚いた。シャイロック。お前は俺のことなどカケラも覚えてはいないと思っていたが」
「は、ハハハ、あの信仰深き聖騎士殿が転生しているとはお笑い種だ! モナークは信徒に苦難を押し付けるのが好きらしい。寵愛されし神の神子がまさか、前世の記憶を保持しているとはな!」
「そうもおかしなことか」
「おかしいとも! お前、モナークに業を背負わせられたのだぞ。やはり割腹が良くなかったか。自殺は禁忌だものなあ」
「……もうすでに信仰を捨てて久しい神を引き合いに出さずとも己の滑稽さは理解しているつもりだ。理解出来ないのはお前の行動だ、シャイロック。お前はいつも世界を終焉に導こうとする。何が目的なのだか、俺には一つも理解出来ない」
「お綺麗な聖騎士殿には分かるまいよ。それに何を勘違いしているか知らないが、今のところ、俺は世界を終焉に導くつもりはない。この国をひっくり返し、孤児と只人の地位を逆転してやろうかとは考えているが」
「シャイロック様!?」
何だその変な考えは!
声を出した瞬間、ジルの視線がドロシーに向けられた。心臓を鷲掴みにされるような殺気のこもった視線だった。
美しいジルから向けられたことがあるのは蜜のように蕩ける眼差しか、嫉妬のこもった強烈な瞳だけだった。殺意を抱かれたことはなく、体のあちこちが石になってしまったように固まってしまう。
「……ああ。羨ましいか? ドロシーという女だ。俺の小間使いをやっている」
「ドロシー」
「この女、孤児でな。俺はこの女のために国家転覆をしてやろうかと。救国などやったところで、恩を仇で返すような奴らばかりが溢れているこの国に嫌気がさした」
「そうか。なるほど。いないと思ったら君はシャイロックを選んだということか!」
急にジルが大声で叫んだ。
ドロシーの顔を嫌悪に塗れた表情で見ていた。
ーーシャイロックを選んだ? どういう意味だろう。
「孤児だからと虐められた? けれど、孤児に対して迫害がない世だと君はいないじゃないか。孤児に寛大であればあるほど、春の日が眩しいほど、幸せが近いほど、君は惨たらしく死ぬ。だったら、俺はーー」
「……何の話を?」
「シャイロック、俺は別にお前の国家転覆には微塵も興味がない。このちっぽけな西の街でいいのならば自治権を認めてやってもいい」
勝手に言っているのだろう。黄色い旗を持った兵士がぶんぶん首を振っている。耳の部分だけ横に長く伸びたその甲冑は、エルフ用のもののように見えた。
「だが、強欲なお前のことだ。他に何か企みがあるのだろう?」
「疑われたものだな。……ああ、あるとも。王族ども、そして安寧を享受する王都の愚民どもをまとめて血祭りにあげる」
「外道め。もはやあの頃の人間は殆どが死んでいる。復讐に何の意味がある」
「お前があらかた殺して回ったものだしな? だが、それがどうした? あの王都で、利益を得ている屑どもを焼き殺したいと思うのは当然のことでは?」
「お前にもそのような情動があったとは驚きだ。お前にとって、それほどまで憎いものか」
「――お前はあの鼻歌が聞こえるか?」
鼻歌? と上がり調子な声でジルが尋ねた。
後ろの黄色い旗を持つ騎士がもだもだと慌てているのが分かる。
それはそうだ。シャイロックは王都を滅ぼしたいと言っているのだから。
気が気ではないのだろう。
それでも近寄ってこないのは、ジルを信用しているからというよりはシャイロックのことを恐れているからに思えた。
「何の話をしている?」
「……聖騎士殿は前世で好き勝手皆殺ししたから、満足したのだろうが。前世の行いに満足し、今世でいくら王都の犬になろうが勝手だが、俺は一人も殺せてはいない。俺の復讐はまだ始まってすらいない」
「無用な殺戮を選ぶのならば、誅するしかない」
「やめておけ、俺に勝てる相手などいないのだから」
腰の剣に手をかけるジルと、それを見て鞄をドロシーに預けるシャイロック。
馬鹿げているとドロシーは思った。シャイロックの何もかもが、馬鹿げている。
王都を滅ぼしたい? そんなの、変だ。
聖女が王都で死んだから、シャイロックは王都の人間が憎いのだろう。
けれど、それは何百年前のことだ?
あのとき生きていた人間は誰もいないだろう。
怒りをぶつけるべき人間はもう誰もが死んでしまったはずだ。
ジルもそう言っていたし、聡明な彼がわからないはずがない。
本当は、他に殺したい相手がいるのではないのか。
誰か、憎くて、憎くてたまらない相手が。
シャイロックが殺したいのはその憎い相手だから、きっと王都の人間を殺し尽くしても殺意が消えることはないのだろう。
ならば、この戦いさえ無意味だ。
ーードロシーには、シャイロックが憎むその相手が誰だか分かる気がしていた。
シャイロックが指を鳴らした瞬間、ジルがひとっ飛びで懐まで潜り込む。
体を逸らしてシャイロックが避けたものの、数本髪の毛が舞う。
「お見事!」
「他人を臆面もなく褒められるのはお前も数少ない美徳だな」
落ちた髪の毛がどろりと溶けて泥水のように地面をつたっていく。
それは石畳の窪みに水が流れるように奇怪な紋様を描く。
輝かしい光と共に、地面が盛り上がる。
地割れのなかから、槍が現れた。四方八方に飛び、後ろで見守っていた兵士達を刺し貫く。
「助けてやらずともいいのか、聖騎士殿」
「助けたところで無意味だ。お前が兵に手心を加えるわけがない」
「仲間のような物言いだな」
堅いはずの甲冑もろとも刺し貫いた槍に兵達が逃げていく。
ピクピクと痙攣する兵士達は確かに、どう間違っても命を取り留めることはなさそうだった。
「……何を手加減している、シャイロック。お前の傲慢さ、驚くべき残忍さを俺が知らぬとでも? 知恵と終焉の神と称されるお前の罪業を俺が知らないとでも思っていたのか?」
「ハッ、俺の二つ名までご存知とは知らなかった。――いやはや、本当にどこでその情報を手に入れた? 俺の二つ名など、普通に生きていれば知り得ぬことだが」
「いつ二つ名が変わった。モナーク神もだ。業と慈愛を司る御柱が、審判と慈愛だと? お前こそがモナーク神と賭けをしたのか?」
ふうんと、顎に指をあてながら、シャイロックがつぶやく。
「詳細は知らないのか。聞き齧った情報を繋ぎ合わせて、歪に把握しているのか?」
「何が歪だと?」
「二つ名など、容易に変わるものだ。所詮は、偶像崇拝のための区分。万象の神である俺に万感と名付けぬぐらいだからな」
「お、お前……」
後ろでのたうつ兵士達を無情にも切り伏せて、ジルははあとため息をついた。
「本当に変わらないな。少しは尊大な自尊心を隠してはどうだ」
「……? 何故隠さねばならない? 俺という男は何千年と変わらぬ。生まれたときからシャイロックという生き方だ」
「お前……。本当に変わらないな」
「何だそれは。褒めているのか」
軽口に、ジルは重々しく頷いた。
「……ああ。お前の数少ない美徳だ」
「どうした、聖騎士殿。美徳、美徳と。俺を褒めてばかりではないか。転生などしたせいで性格が百八十度変わってしまったのか。鳥肌が立ってきた」
「ドロシーはそんな変わらぬお前だから、傍にいるのだろうな」
はんと、シャイロックはあきれるように鼻を鳴らした。
手を振ると、兵士達を飲み込む血の河が現れた。串刺しになった兵士達以外は、血の河にのまれ、悲鳴すら上げることなく流されていく。
「この女の心を、俺が握っているとでも思っているのか」
「違うとでも? お前は昔から、ドロシーに慕われていた」
「慕っていた男だというのならば、なぜ俺はあの女が牢にとらわれているとき、呼ばれなかった? 民衆どもに血祭りにあげられているとき、傍にいなかった? 誰もあの女を助けられなかった。それが答えだろう」
ちらりとドロシーをシャイロックは見やった。
ドロシーには何もわからなかった。分かりたくなかった。
青々とした瞳が、激情を秘めている。
――ああ、やっぱり。この人は。
「私は、聖女様のかわりなんですね」
「……そう思うか」
そうであるに違いない。
ドロシーという名前も、聖女様の名前なのだろう。
奇妙な縁だ。ドロシーは何の価値もない女なのに、この国で一番価値がある女と同じ名前であるだなんて。
その名前が縁で、シャイロックはドロシーを構ってくれたのだろう。
ジルだってそうだ。面影と名前が同じで、聖女本人だと思われた。
分かってしまえば簡単なこと。けれど、胸がちくりと痛む。
結局、ドロシーには何の価値もないのだ。何も成し遂げられない。誰にも愛されない。
親にさえ捨てられた。それはそうだ。
ドロシーだって、ドロシーのことが嫌いなのだから。
一つだっていいところが思い浮かばない。
大嫌いだ。
「シャイロック様は、王都を攻め落として、都に住む人々を殺しても満たされることはないと思います」
うめき声が聞こえる。人の命が容易く刈り取られる。この人は死神のようだ。
それでも、ドロシーは思い出す。
ロズウェルを蹴り飛ばし、ドロシーの腕をつかんで連れ出してくれたのは彼だった。
あのときの手に持った黄金の鞄のきらめきを。髪が風になびいて、疾走した足の軽やかさを。
誰もやってくれなかった尊い行為を。
「私は貴方が誰を本当は殺したいかを知っています」
食事を作ってくれて嬉しかった。食事をドロシーのものだといってくれて嬉しかった。
彼はドロシーをだれかと重ねていただろうが、それでもドロシーは嬉しかった。
怖い魔法使いだ。人を殺すことに良心の呵責すらない。
けれど、ドロシーにだけは優しかった。
彼の優しさを浴びれたことは幸せだった。
シャイロックは目を見開いて、ゆっくりと瞼を閉じる。
再び視線が合ったとき、彼は笑っていた。
「ああ。俺も知っている」
驚いた顔をしていたのだろう。額をつつきながら、シャイロックがほほ笑む。
「だから俺は、終焉の二つ名を手に入れた。俺こそ、終焉をもたらす邪悪な竜だからな」
「シャイロック様。もう、やめましょう。こんなことに、意味はない」
「意味はなくとも、恋敵は殺す必要がある。俺も男だ」
「……ジル様と、聖女様を取り合っていたんですか」
眉を顰めて、シャイロックはドロシーを見た。
「……どうして、聖騎士殿の名前を知っている?」
「え?」
……あ。そういえば、ここでは、一度だってジルに会っていなかった。彼の名前を知る機会は一度もなかったはずだ。
シャイロックは、ジルを聖騎士殿と呼んでいた。
「あ……」
戸惑うドロシーを怪訝そうに見るシャイロックの後ろには、ジルが迫っていた。
彼を突飛ばそうと腕を前に出すが、びくともしない。
そのままシャイロックは後ろから刺し貫かれる。
そして、ジルの持つ剣はそのままドロシーの腹部まで届いた。
「がっ、は」
口のなかに、血があふれてくる。
信じられないものを見るように、シャイロックがドロシーの頬を撫でた。
「お前」
「俺が、ドロシーごと殺すとは思わなかったのか、邪竜」
「お前は……」
「俺はお前とは違う。今度は、この男とは会えないようにして工夫するよ。大丈夫。任せてほしい。何度だって、君が間違えればこうやって正そう。何度も、何度も、何度も。何十と、何百と、何千と繰り返そうとも、君と結ばれるのは俺なのだから」
だからね、優しい声でジルは言う。
「君は俺を選ばなくてはならないんだ。この男でも他の男でもなく、俺だけを」
剣が引き抜かれる。
「それが君のために尽くした俺への褒賞だと思わない? 誰のために瀆神を行ったのだと? 誰のために、薄汚い竜の血を飲んだのだと」
痛みで立っていられない。
「全て君のためだ、ドロシー。君の愛は俺のためにある。ーーまた会おうね、ドロシー」
シャイロックの傷はたちまち塞がっていく。血を流すドロシーは反対に、シャイロックは血さえこぼれない。
「ドロシー」
目玉がこぼれそうだと思った。
彼は、聖女が殺された場所をこのような瞳で見ていたのだろうか。
口のなかにある血が減らないから、ドロシーは声が出せなかった。
けれど、何か言えたとしてもきちんと言葉にならなかったと思う。
考えがまとまらず、ぐちゃくちゃだったからだ。
きっと、ドロシーはまた死んで巻き戻る。
オズは、ドロシーのことが好きだろうか。
目の前にいるシャイロックのことではなく、オズのことばかり頭によぎる。
真っ赤に染まる炎に飛び込んでいくオズの後ろ姿だけが。
「嫌だ、いかないでくれ。ドロシー」
縋るような声も、やがて聞こえなくなる。
静寂に身を任せて、目を閉じる。
やっと、死ねた。そればかりだった。




