咎人の聖職者
「興が削がれた。犯人探しは後回しだ」
と言って、シャイロックはドロシー達の寝泊りする荒屋にずかずか入り込んできた。
いくら制止しようと無意味で、唖然とする孤児達を前に指をぱちんと鳴らし、魔法を使った。
シチューや肉を乗せた皿がふわふわと浮く。
良い匂いに、すんすんと子供達が鼻を鳴らした。
「しゃ、シャイロック様!?」
「まずは腹ごしらえからだ。それにしても何だこの崩れかけの廃屋は。お前は何故、こんなところで生活している。隣にある孤児院はどうした」
「孤児院は……。その、私達のようなものは駄目だと」
「何を馬鹿なことを。孤児院に、孤児がおらず誰がいるというんだ。神父どもも目を瞑り、天秤を傾けているのか? 毎日、過った方向に?」
唇を噛む。ドロシーだって吹き荒ぶこんなところにいたくはない。
けれど、ここを出てどこに行くというのだろう。
子供達を連れて泊まれるアパートメントなど、どこにもない。そもそも、孤児に住居を貸してくれるところなんて、ないのだ。
「――まあいい。お前達、どいていろ」
「えー!」
「お兄さん、ドロシーの恋人?」
「ドロシーのどこが好き?」
「おれはねー。頑張ってくれるところ」
「料理も得意だしね!」
「そうそう」
「ドロシーの服、キレー! 私も着たい! 着せて着せて!」
「じゃれるな。俺は子供は嫌いだ」
手で払いながら、シャイロックが部屋を一周した。部屋といっても切れ端のような布が床に置かれているだけの何もない部屋だ。
すぐに終わり、ゆっくりと振り返る。
「ドロシー、手を」
「は、はい」
手を合わせた瞬間、あたりに稲妻が走った。真っ白な光が部屋中を走る。
再び目を開けたときには荒れ果てた室内は、きちんとした家になっていた。
「え!?」
「ドロシー! 暖炉があるよ、暖炉!」
「すっごおい! 何これ、キレー」
「絨毯だ。値がはりそう……。いくらで売れるかな」
「机がある! 椅子まで!」
子供達はどたばた走り出してしまった。
壁がある。天上がどこも壊れていない。
壁もある。風が吹き込まない!
燃え盛る暖炉まで! 意味が分からない。
ふわふわな毛布。人数分のベッド。皆が座れる椅子に、テーブル。
「質素なものになったな。台所ぐらいは加えてやるか」
ぱちん、音が響くと、床からにゅるりと洗い場と窯が現れた。皿やコップが入った棚まである。
「シャイロック様!? これは」
「お前の粗末な家も見れるものになった」
「ま、魔法で、こんなものも、出来るんですか?」
「ああ。料理は先に並べておくか。お前達、手伝え」
走り回っていた子供達がぴたりと止まってシャイロックの周りに集まる。
「はーい」
「ねえねえ、何、何、これ」
「皿を用意しろ。お前、次盗み食いしようとしたら逆さ吊りにするぞ」
「ケチ!」
シャイロックは口答えをしたジェードをゆっくり見やった。縦に割れた瞳孔が怪しく光る。
「お前のための食事ではない」
「ここにあるならオレたちのもんだろ!」
「はあ……。お前のような餓鬼がいるからこの女が食べれないわけだ。お前、名前は?」
「は? ジェードだけど。なあ、もういいだろ。腹減った」
「ジェード、お前はそこで反省していろ」
言われた瞬間、ジェードがその場に座り込んだ。
手を祈るように突き上げて驚いたようにあたりをぎょろぎょろと伺う。
「は? ……は? な、何したんだよ! 動かない、体、動かない!」
「お前達で料理をしたことは? 食材を調達したことは?」
「な、なんだよッ、何が言いたいんだよッ」
「――俺がドロシーに与えたものをお前達は勝手に食した。それを誇るな。子供でなければ、首を刎ねていたところだな」
「シャイロック様! ジェードに、何を」
「躾だ。お前が出来ないようだったから、かわりにしてやる。お前達も食器を置いたら壁に立っていろ」
シャイロックが命令すると規則正しい歩き方で孤児の皆が壁に向かった。指の先まで伸ばして、兵のように整列した。
「――さて。晩餐を始めるか」
むずむずする。子供達は泣き出しそうな顔をしたまま壁にそって等間隔に並んでいた。
シャイロックに促され椅子に座ったのはいいが全く落ち着かなかった。
それもそのはずで、ドロシーの席はシャイロックの隣だった。大きなテーブルに二人でちょこんと座っていた。
「あの、シャイロック様」
「ん」
口を開けて、シャイロックが待っている。
何を?
どうしたら?
戸惑いながら、シャイロックと自分の手を交互に見る。
「え? え? ……あ、食べさせますね」
スプーンでシチューを口に持っていくと、もぐもぐと咀嚼始めた。
ごくりと嚥下し、またあ、と口を開く。
「その、シャイロック様」
「ん?」
「子供達に、食事をさせてもいいですか?」
「これは俺のものだ」
咄嗟に声が出なかった。
シャイロックがお土産と言って持たせてくれたものだが、確かに彼のものだ……。
ドロシーのものじゃない。
けれど、一度、ドロシーにくれたじゃないかと思ってしまう。ドロシーのものだったはずだ。
「ですが、皆お腹が減っていて」
いうたびに言葉から力がポロポロとこぼれ落ちていく。
私が貰ったのにと思ったのはドロシーだったはずだ。
なのに今更、善人ぶって子供達に分けようとするのか?
煩悶を感じ取ったのか、シャイロックがん、と再び口をあけた。
「シャイロック様、ちゃんときいてください」
「聞いている。聞いていて無視しているんだ」
「シャイロック様……」
「萎れていると面白いな、お前は。……子供達が腹が減っているから、俺のものを分けろと? 俺が腹が減っていても無視か」
「ち、違います!」
「何が違う」
訳が分からなくなって、スプーンを持つ手が震えた。
子供達がお腹が空いているのは事実だ。
毎日、ろくなものを食べさせていないから、ドロシーの分がなくなるのは仕方がない。
けれど、そんな事情、シャイロックには関係ない。強要してはいけないとは分かっているのに、どうして譲ってくれないのだろうと恨みが募る。
年長はドロシーとオズだけ。皆、背丈もまだ伸び切らない子供達だ。
ドロシーが我慢しなきゃいけないんだ。
だから、シャイロックにも我慢して欲しい。
そう思ってはいけない?
シャイロックはいい大人で、魔法で何でも出来る。
お金だって沢山持っているじゃないか。魔法で何でも生み出せて、立派な家まで用意できる。
譲ることは難しいことではないはず。
「私は、ただ」
「ただ、なんだ」
鋭い青い瞳がドロシーを射抜く。するりと、声が漏れていた。
「シャイロック様はお腹が空いているんですか? 子供達はいつも腹ペコで」
「腹が減っていないと言ったらお前は分けろと言うつもりか」
「い、いいじゃないですか。私にも食べさせてくださいました」
「俺はお前だけにこれを渡したつもりだった」
ーーそんなの、出来るわけない。
ドロシーは子供達の食事代を稼ぐために仕事を掛け持ちしていたのだ。
一人だけいい食べ物をたべて、眠る。そんなこと、許されるはずがない。
骨だけの子供に与えられるのは、拳だ。
古くて堅いパンがご馳走。暖炉の火なんて、教会でしか見ない。
みんなで寄り添わないと、寒くて眠れない。
孤児というのはそういうものだ。
ドロシーのもの、なんて一つもない。
「私だけのものなんて、ありません。シャイロック様。孤児に私だけのものなんて、贅沢なんです」
「俺が与えたその服はお前だけのものだ」
嬉しいと感じてしまい、目を伏せる。
ドロシーのもの。ドロシーの……。
「俺が与えたものを他人に与えるな。不愉快だ」
「シャイロック様、分かって下さい」
「欺瞞だ」
シャイロックはドロシーの願いを切って捨てた。
「子供の腹が満たされたところでお前の腹は満たされない。お前はその餓鬼どもにはなれないし、その餓鬼どももお前に頼り切るだけだ」
「私はお腹が空いていても、いいんです」
「ならばお前は異常者だ」
「……いつも皆が喜んでくれるのが、嬉しかったんです。だって、いつも、孤児だって馬鹿にされて、金がなくなれば疑われるのは私でした。お客さんが理不尽を言って怒っても、悪いのはいつも私だったんです。でも帰ったらご飯を待っているこの子達がいるから、頑張れた」
忙しい、忙しい。悩んでいる暇なんて無駄!
そう強がれた。
「……だから、何もかも差し出しても構わないと?」
「……そんなにいい人間に見えますか? 本当は嫌でした。私だって、私の方が、お腹が空いているんです。でも、皆に好かれる人になりたかった」
本当は、ドロシーだって六英雄になりたかった。
彫像が欲しかった。吟遊詩人に語り継いで欲しかった。
誰かに誇れる自分になりたかった。
夢を、見たかった。ステンドグラスに描かれる美しいものでありたかった。
けれど、ドロシーは文字すらろくに知らない子供で、勿論、魔王なんて倒せる人間じゃない。
毎日毎日、働いて、それでやっと買えるのが子供達の人数分以下のパンだけ。
子供達のように夢は見れない。見る時間は、無駄だと捨ててきた。
そうしないと綺麗な夢に溺れて戻ってこれないから。
「オズは大食漢で、でもいつも私と同じ分しか食べませんでした。錬金術師見習いの給金をいつも分けてくれた……。そのお金でドロシーが食べてと言っていたけど、出来なかった。オズに、食べさせてあげたかったから」
一度、オズのために食事を作ったことがある。オズはすぐに気がついて子供達に分けていた。
あの時の、オズの姿を見て、ドロシーは自分を恥ずかしく思った。
オズは子供達のことを考えていたのに、ドロシーはオズによく思われたくて、隠れてコソコソと彼一人に振る舞ってしまったのだ。
オズはドロシーのと言っていてもきっと子供達のために使って欲しかったに決まっているのに。
「結局、子供達が食べました。私は、パンの一欠片だけ。ぐうぐうお腹が減っても、体を丸めて耐えました。そうすれば、気絶するように眠れるから」
「ドロシー」
名前を呼ぶ声はしっとりとしていて、情けなくなり泣きそうになった。
「我慢したのはそうすれば胸が温かくなるからです。ありがとう、ドロシーって言われると嬉しくて頬が熱くなって目の前が滲むんです。自分が産まれたことが誇らしくなって、明日も頑張ろうって思えるからなんです。子供達は感謝をしてくれますよ、シャイロック様。他の誰もしてくれない、感謝を。私はその言葉で満たされるんです」
それでもやっぱりお腹は減る。
パン屋でバレないように黒焦げのパンを食べたこともあった。店頭に並べないほど酷い真っ黒け。
炭の味がしたけれど、とても美味しかった。
指についた灰まで舐めとった。
「私は、ただ自分のために子供達に食事を分けていたんです。私の自己満足のために」
「自己愛が強く、他人に褒められたがる女だと?」
「は、はい」
「お前は聖女ではない」
鞭で打たれたような痛みが走る。
自分が高貴な聖女様には決してなれないと言われたようだった。
確かに、ドロシーにはその資格はないだろう。だからこそ、呻き声を殺す。
「はい。……シャイロック様の知る聖女様とは似ても似つかない人間ですよね」
口元を隠しながらけらけらと音が出そうなほどシャイロックは笑った。
「ドロシー、お前、聖女がどう死んだか知っているか?」
「い、いえ……」
「助けた王都の連中に焼かれた。農民の女が、王都の煌びやかな民衆に石を投げられ、火炙りにされた。聖女が焼けて灰になった場所には、今では六英雄を讃える像が置かれている」
目の端に涙を浮かべ、シャイロックは笑い転げるように吐き捨てる。
何も、言えなくなった。彼が怒っているように見えたからだ。
「善良さは人を殺す。欲こそが皮の下に流れているというのに、ただ人を助けたいだの、幸せにしたいだのと言われる方が頭がおかしくなる。――ドロシー、人は人のためになど頑張れないものだ」
シャイロックは唇の端を持ち上げるように、笑みをつくる。頬をぽたりと涙が落ちた。笑っていたときに溜まっていた涙だった。
「死ぬ時、善行などあったところで意味などない。聖女は救世の偉業を達し、武勇と偉業の神の目に止まったが、結局、悲惨な死からは逃れられなかった」
「焼き殺された」
「そうだ。人は無常だ。人生はまやかしだ。安寧は暴力の前に屈し、些細な願いさえ蟻のように踏み潰される。世界を救ったのは間違いで、国を守ったのは誤りだった。武器を取った手が血に染まり、業を背負うだけ。報いなど、あるものか」
ステンドグラスに描かれた魔王を救った英雄。聖女は本当に焼かれて死んだのだろうか。
――魔女のように?
……いいや、違う。魔女だと誰かに謀られたんだ。だから、火刑にあった。
魔王を倒したのに、民はそれに報いなかった。人生の最期には苦痛だけがあった。
誰も、聖女は魔女ではないと言わなかったのだろうか。
磔にされた女達を運ぶ人達は、やがて暗くなると、街の皆が松明を持って練り歩くだろう。
葬列だ。
彼女達は魔女ではなかった。ならば、亡くなった人間に相応しい弔われ方をする。
聖女はそう扱われなかったのか。
「この国の人間に救済する価値などなかった」
血潮が沸騰するような静かな怒りだった。
「この餓鬼どもをお前が助ける価値などない。食事は全て、お前のもの。お前だけのものだ」
前の世界で、皆に分け与えたビーフシチューが、どうしてかドロシー一人分だけ残ったことを思い出した。
神技だとすら思ったあの魔法を、シャイロックはどんな気持ちでかけてくれたのだろう。
真心が透けるようで、嬉しかった。
けれど、それと同じだけ子供達がお腹が空いているのに、自分だけ贅沢をしていいのかと悩んでしまう。
これは、偽りの煩悶だ。
ドロシーは自嘲した。
シャイロックの言葉がとても嬉しかった。ドロシーだけのものが、嬉しいのだ。
まるで特別な何かになれた気がして……。
「……シャイロック様は食べているのに」
「お前が食べさせた。俺に食べさせるためにお前がいる」
甘えるように首を傾げてみせるのだからタチが悪い。
シャイロックは怖い存在なのだ。そう思えば思うほど、ドロシーだけに向けられる砂糖のような甘さに溺れそうになる。
「お前のものを、俺にだけわけろ」
ん、と口を開いて雛鳥のようにスプーンを待つシャイロックを、ドロシーは可愛いと思った。
口元に運ぶ。はむと、子供のように咀嚼を繰り返す。
美味しいですかと、問えば普通だとそっけない。
けれど、ドロシーが子供達に視線を向けると、口を開く。
まるで他に目線をやるなというように。
「シャイロック様」
「なんだ」
「子供達をどうかせめて座らせて下さい」
「立ったままは可哀想だと?」
「はい」
「――俺はお前と食卓を囲むのは構わないが、どうでもいいこの孤児達と食事をするつもりはない。所詮、お前が目をかけてやったから温情で助けているだけだ」
「で、でも。……? 助けて、いる?」
荒屋を変身させたことを言っているのだろうか。だが、そうだとしたら、どうして今も助けている、と言わんばかりの言い方なのだろう?
「――もう、破ってくるか」
パリパリ、鏡にヒビが割れるような音がしている。
シャイロックは立ち上がると、最後にとでも言わんばかりにスプーンの中にあった肉を頬張った。
「シャイロック様? これは、どういうことですか?!」
「犯人だ。俺の魔力を嗅ぎ付けてやってきたらしい。――出し物だとでも思って楽しんでおけ」
「出し物って……」
蜘蛛の巣がはったように家に亀裂が入る。暖炉の色が緑へと変わり、壁が崩れた。
すらりとした長身が躍り出る。
闇を纏うような漆黒の修道服を翻し、紫の瞳が怪しく光る。
短髪の黒髪は、モナーク神の寵愛を一心に受けたように艶やかで、顔はとびきりの美丈夫である。
――ジュダ様だ。
ドロシーは悲鳴を上げそうになった。
この間、赴任してきたばかりのこの神父は人を寄せ付けない高潔な部分があった。
この人が、お針子達を殺した?
オズを、殺す人?
女達を惨殺するような、残忍な人にはとても見えない。
「魔法使いめ。面妖な技を……」
「面妖とはおかしなこと。神父殿、どうした。この荒屋に用があるのか」
「――魔の巣窟だ、ここは。畏れ多くもモナーク様の庭で、瀆神の行いを堂々としたとは!」
「堂々と? ただ、子供達に住む家を与えてやっただけだろう。吹き荒ぶ荒屋。暖炉もないとは、何が慈愛の神であると」
「煩わしい。孤児とは前の世の穢れに他ならぬ」
「――驚いた。まだモナークの業病の名前を認識している者がいるとは。ただの神父にしては、ものを知っている」
シャイロックは指を鳴らした。すっと一瞬で服が変わる。
初めて会った時に来ていた白衣だ。やはりだらしなく、ボタンが一つずつズレている。金の刺繍が、緑色の暖炉の炎に照らされ、艶やかに反射した。
「名前は何という?」
「魔の使いに名乗るものか」
「ではやはり、神父殿と呼ぼう。それとも殺人鬼と呼ぶべきか?」
「貴様ッ!」
両目をギラつかせ吠えたジュダは、地団駄を踏む。
「異端審問官に憧れた神父殿。慈愛の神たるモナークに瀆神を行ったのは自分だという自覚はないのか?」
「何を、馬鹿なことを!」
「魔力感知すら出来ない男が、でしゃばった故の悲劇となぜ、気が付かなかったのか。お針子達は罪なく死に、お前のかわりに王女が牢獄に囚われたぞ。ほら、清貧たる神父殿、我こそ魔女と間違えて女達を殺したと名乗りをあげないのか?」
それとも、と煽るようにシャイロックは続ける。
「我が身可愛さに王女を捨て置くか? まァ、偉そうな女だ。俺は死んだところで一向に構わんが。聖職者は秤を持ち、はかられることはない、だったか? お前達、聖職者は裁かれることがないのだったな。裁くとしても内々に終わらせる。それこそ、異端審問官の出番だ」
「し、知ったような口を……。魔法使いめ、人心を惑わし、私さえもはかってみせたな!」
「はかる……? お前の無知に俺を巻き込むな。勝手に誤解したのはそちらだろう」
手に黄金の鞄が現れる。シャイロックは、だるそうにそれを足元に置いて、足を乗せた。ゆっくりと、怠惰な動きだった。
「それで? 俺はドロシーに前座を見せてやると息巻いたが、まさか神父殿は戦わぬと言うわけではないだろうな?」
「――ドロシー、お前はこの魔法使いと契約したのか。家を与えると言われて? たらふく食事を作ってやると甘やかされて?」
ジュダの瞳がドロシーを見遣る。彼がドロシーの名前を呼んだのにまず驚いた。
一度も名前を呼ばれたことなどなかった。
彼は孤児の中の一人として、ドロシーを認識しているものだとばかり思っていた。
ドロシーという名前があることを知っていたのか。
「ジュダ様が、お針子のみんなを殺したのですか?」
「魔王に組した極悪人ゆえだ」
泥のように紫の瞳が濁っている。狂気が、支配している。
「でも、みんなは魔女じゃなかった。ジュダ様は、無関係の人間を殺した」
「魔法使いの魔力を充満させていたあの女どもが悪い」
「そんなの、おかしいです。私が料理を分けたから、そうなってしまっただけ」
「ではお前のせいだ、ドロシー! なんと愚かな。魔王に組したか。主の威光によってここまで生き残れたというのに」
「そう威張るのならば、少しはまともな扱いをしてみせればよかったものを。お前は自生した花を見て自分が手ずから育てたと嘯いているようなものだ」
……教会がなければ、確かにドロシーは生きていなかっただろう。幼子の頃に捨てられ、それからずっと世話になってきた。
今思えば前任の院長はもう少しまともな人間で、ドロシー達は小さい頃、孤児院で暮らしていた。
いつから、この場所に移動してきたのだったか……。
「……この魔法使いを殺したあとは、お前にも相応の罰がくだるだろう」
「ならば、思い上がったお前に罰を与えよう。罪状は殺人罪。罪もない女どもを殺し、異端審問を気取った。それになにより、俺の女に罪を擦り付けようとしている。もちろん、死罪に値する」
血に染まったように真っ赤な秤を、ジュダは取り出した。
「モナークの『怒りの秤』! 珍しいものを持っている。お前の給金の何十年分だ? 信徒達から巻き上げた金で買ったのだろう?」
「私の信仰を馬鹿にするな!」
「馬鹿になど。だが、本当にお前は魔力がかけらもないらしい。魔法使いを相対するには力不足だ。――ああ、それで異端審問官にもなれずじまいか?」
ピクリと眉をあげ、ジュダが秤を投げ捨てた。
シャイロックが『真実の秤』を無造作に投げたように。
これも、聖具の一つ、なのだろうか。
秤は、周囲に溶け込み、真っ赤な霧を広がらせる。息が苦しくなり、喉をおさえる。せき込むと、口の端から、血がこぼれた。
「ドロシー、息を止めておけ。『怒りの秤』はモナークの伝承を再現した聖具だ。体内にある魔力を吐き出す代物。お前のように馴染みかけの人間は消耗が激しい」
手で口を覆いながら頷く。
だが、シャイロックは大丈夫なのだろうか。
シャイロックの説明では、一番、負担が多いのは彼自身だろうに。
「それにしても、本当に珍しいものを出してきたものだ。二百年前にも俺にこれを持って挑んできた聖職者がいたな」
ふっと、シャイロックが霧のなかに消える。視線を動かして探すが、声だけは響いていた。
金色の鞄が、主の帰還を待つように寂しそうに置かれている。
「鞄を開ける必要もあるまい。――賢神たるこの俺、シャイロックに誓う。罪人を地に伏せ、信仰を打ち砕こう」
「――魔法使いめ! 我らが主、モナーク様。どうか、どうか、どうか、憐れなる迷い子に慈悲を。我が信仰を導に私に勝利を」
「誓文は魔力を持たないものには意味がない。そう習わなかったか? モナークに力を借りようとしても無駄だ」
「穢らわしいその口で主の名前を口にするなぁ!」
ジュダは手を振り回していた。だが、シャイロックはどこにいるのかすら分からない。
霧となって消えたまま姿を現さないのだ。
「お前達、魔法使いは害悪だ。魔王に与する邪悪な者ども。主の威光を穢すおぞましき癌が! 人々を惑わし、地を血で汚し、悪徳を栄えさせ、貪婪で人を誘う。許してなるものか!」
「く、ククッ! なんだその伽藍堂な悪態は。全て魔法使いが悪いとでもいいたいのか。人が堕落するのも、悪に身を堕とすのも、我らが手招いたせいだと? なんだ、その言いがかりは」
「私の村を滅ぼした分際で、よくも! あの悍ましい炎を忘れるものか。人を焼いたお前達を、我らが焼いて何が悪い? お前達は産まれるべきではなかったのだ。人間ではない、獣よ。人に限りなく近い、主より光を賜れなかった魔のものよ!」
「――あぁ」
じゅわりと滲むようにシャイロックが姿を現す。
「お前のようなものに時間を割いても無駄だな」
ジュダの体を浮かすと、シャイロックは足を潰した。
――それからは見れなかった。
残虐すぎて。
ジュダが呪いの言葉を吐く。シャイロックはそれを優雅なクラシックでも聞くように耳を傾けていた。




