シャイロックは笑っている
「業と慈愛の神、モナークよ。僕がお前のその傲慢を打ち砕いてやる」
恐れ知らずが勝負を挑む。我らが神は玉座に腰掛け微睡むように男を見た。三柱の神が見届けるなか、勝負は確かに始まった。約定に従い、運命を紡ぐ。女は奇跡を起こし、救国をなせるか。
さて、勝負の行方は?
◾️◾️◾️
ある絶望の一幕。
天使が見せるありし日の悪夢。
聖女が死んだ。ありうべからざる復讐譚。
夥しいほどの屍の山。地に倒れ伏した兵士達を避けながら足を踏み入れるが、知らず知らずのうちに誰かの骨を砕く。それほどまでの殺戮だった。
屍の頂に座るのは一人の男。真っ白な白衣を血で汚し、黄金の鞄に腰掛けていた。何かを待つように目を閉じて、悲鳴を楽しそうに聴いている。
ジルは怖気が走った。
いよいよ、本性を表した竜は、血の雨に酔いながら恍惚としているように見えた。
聖女が殺された、らしい。
ジルは聖女がどんな人間だったかを知らない。農民だったというが、凱旋パレードで護衛をしたばかりで人となりをまるで知らなかった。
処刑されたのだと、いう。伝聞だった。ジルは東方の反乱分子を鎮圧しに行っていたのでよく、知らなかった。
だが、男のことは知っていた。魔法使いシャイロック。魔の根源に至り、人間から竜となった男。
いくら、聖女とともに魔王を討ったとしても、魔法使いであることは変わりない。モナーク神に盾突くのならば、殺すとジルは王に誓った。
その王も皮を剥がされ、王門に晒されていた。……王族達は皆、そうだった。子供一人例外はない。虐殺だった。
後ろに付き従う騎士達が絶望の声を上げる。王都の兵達を殺し尽くした竜は、ジルが駆けつける音に閉じていた瞳を開けた。
「聖騎士殿、遅かったな」
「竜、お前は何をしでかしたか分かっているのか」
「何を? そちらこそ、何をしでかしたか分かっているのか。俺のものを殺し、蹂躙した。お前達の王都を奪還し、魔王の城まで譲ったろう。恩を仇で返すとは」
「……聖女は禁忌を犯した。だから、処刑されたのだ」
そう、聞いた。黄金の魔王を復活させるため、魔法陣を描いたのだと。復活こそなかったが、魔獣が湧き、人が死んだ。
異端者は死すべきだ。魔王はこの国の半分の人間を殺した。再び蘇らせれば、この国ごとなくなってしまう。
「黄金の魔王オズマを蘇らせようとした咎のことか」
「オズマという名を呼ぶことさえ穢らわしい。オズマという名前は今後千年、呼ばれるに値しない」
「オズマはお前たちの神にも賭けで勝ったというのに、そのような物言いをするとは。無知な男だ」
「我らが主は常勝の王であり、正義の御旗である。いくら欺瞞を弄そうが、真実は変わらない。そもそも不敬だ。神はモナーク様ただお一人。御柱が誰かに負ける訳がない」
「真実! 真実ときたか。妄信する騎士よ。神を知らぬ愚蒙の男よ。お前如きではモナークの幻影を見るばかりか。……俺の聖女が魔王に心奪われたという証拠は? なぜ、自ら殺した魔物を蘇らせようと?」
大地が血を浴びて、悲鳴をあげるように揺れる。カタカタ、死体が蠢いた。
シャイロックはやおら立ち上がり、ぼさぼさの長い髪を風に流れるままたなびかせる。
「お前たちはこう言った。虚栄心ゆえだと、あの女は王都に凱旋したあの歓声をもう一度得るために魔王を蘇らせようとしたのだと」
シャイロックは血の涙を流していた。涙のあとが頬に黒々と残る。
「あの女が何を犠牲にしたか知っているか? 己の腕と引き換えにお前達の故郷を守った。王都を奪還し、救ってやった。あの女が何を望んだか、知っているか」
知っているかと尋ねているというのに、シャイロックはジルの答えをきいてはいなかった。
「自分の農具を貰うことだ。王に片手で使える鍬を貰おうとしていた。自分の村に帰り、田畑を耕すことしか考えていなかった。そうだとも、あの女は黄金の城さえ欲しはしなかった!」
雷が鳴り響き、雲が渦を巻く。白い稲妻が走ると、ジルの後ろに控えていた騎士達が泡をふいて倒れる。
濃密な魔力が充満している。魔王の城であった黄金城内部よりも魔力濃度が高い。
ここまでの高濃度だ、シャイロックはこの場に干渉できるはずだ。この雷も、吹きすさぶ風も、シャイロックが生み出している。
「――神だ」
絶望の色がこもった声が漏れる。
ジルとて気が付いている。シャイロックは処刑してきた魔女や魔法使い達とは強さの質が違う。
天候を操るほどの魔法使いなど、ジルは対峙したことがなかった。
「あの女が死んだ日。王族どもは貴族を呼んでパーティーを開いていた。知っているか? 聖女の千切れた指が余興で出たそうだ。魔王よりも、魔王のような真似をするとは思わないか?」
「……何を、考えて」
「さて。だが、大層愉快だったのだろうな。ドロシーは死んだあと衆愚どもに犯されて、恥辱を受けた。死体を俺が見つけた時には驚いた。目玉をカラスがつついていた。雨の中、寒そうで……」
死者を辱める行為に眉根を寄せる。
聖女はなにかの策略によって罪を着せられたのかもしれない。
そうだというのならば、我々は無辜の聖者を殺したことになる……。
シャイロックが行う残虐な行為も、理解が出来てしまう。兜がずんと重くなった気がした。
雨が降るなか、聖女を見下ろすシャイロックの姿を幻視する。
――胸がずきりと、痛む。
救国の英雄を、寄ってたかって凌辱したのか。
凱旋パレードで降らせた花弁を、彼女は幸せそうに見上げていたのに。
指を千切り、死姦したのか。無情にも?
「偉大なる聖騎士殿。俺にご教授願えないか。あの女が何をした? 世界を救ったというのに、この国を守ったというのに、あの最期こそ、相応しいと?」
答えを、ジルは持たなかった。持つはずがなかった。
「――この終わりは相応しくない。あの女のために誰一人として世界を滅ぼさないというのならば、俺が滅ぼそう。あの女にはその価値があった」
帯刀した聖剣が鞘から飛び出す。今まで一度もこの刀が抜けたことはなかった。
聖剣ベルセルク。認めた相手にのみ刀身を見せる不思議な剣で、記録では三回しか抜かれたことがなかった。一度も刀身を見ずに死んだ聖剣使いが何百人いたことか。
「下がっていてほしい」
かろうじて意識の残っている騎士達に呼びかける。聖剣が抜刀した三回のうち、使用者が生き残った記録はなかった。この聖剣は使い手さえ飲み込む最終兵器だ。
周りへの被害は計り知れない。おそらく、ジルは一振りしただけで死ぬだろう。
正義の鉄槌。モナーク神の金槌と呼ばれるこの聖剣は人には過ぎたるものだった。
「お前達が言った。ドロシーは魔王をもう一度倒し、歓喜を浴びるために復活させようとしたのだと。だが、復活させる必要はない。俺こそ、魔王になる男。あの女に討ち倒されるもの。そうとも、ドロシーは俺を殺すために蘇る」
「戯言を。聖女は死んだ」
「ああ、そうだとも。お前達が殺した! だから聖騎士殿、お前に倒されるわけにはいかないな。俺が負けるのはあの女だけだ。あの女だけが唯一お前達を救えた。救世主たる女をお前達が殺した!」
眩く光る刀身を前にしてもシャイロックは怯みもしなかった。
体が震えで揺れる。ジルはこの一振りで死ぬ。だが、この魔王は死ぬのだろうか。竜と呼ばれる所以を、まだジルは目撃したことがない。
彼は人型の姿のまま、炎を口から吐くこともない。
力を出し切っていないことは容易に想像がついた。だからこそ、恐ろしい。
それでも剣を握りしめる。この悪魔を殺すと、誓った。
星を束にしたような剣の煌めきがあたりを包む。
ああ、ジルの体が光にのまれ崩れていく。
「ドロシー、お前こそがーー」
シャイロックは笑っている……。
ただ、誰かを待つように、鞄に腰掛けて、笑っている……。




