魔王となる男(死因:???)
パチパチという爆ぜた音で目が覚めた。
今まで、何をしていたっけ?
……シャイロックが孤児院まで一緒に来てくれ、作ってくれた料理の運搬も手伝ってくれた。
また夜にと言った彼は台車を残してまるで霧のように姿を消した。
迎えとはシャイロックが来るのかという問いかけすら出来なかった。
美味しそうな匂いにつられて孤児達はすぐに食事にしたがった。彼らをなだめすかして、お祈りをさせて、分け合った。
魔法を使ってくれたのか、料理はどれもどんなに時間が経っても温かく、孤児達にわけても、必ず一人分――ドロシー分は残った。
シャイロックの術であることは確かなのだろうが、ドロシーには魔法ではなく、神の御業としか思えなかった。
モナーク神は、貧しい人々の頭の上に葡萄酒の雨を降らせたーー。
ジュダの言葉を思い出す。透徹とした神父様の声は、学のないドロシーでも理解できた。モナーク神は、貧しい人に施しを与えたのだ。
シャイロック、様。
オズが帰ったら話があると言っていたのに、シャイロックに仮眠を取れと言われたことを思い出して寝転んでしまった。
気がつけば意識が飛んでいてーー今、目を覚ました。
オズは帰ってきたのだろうか?
あたりを見回して、暑くて、瞳の中に落ちてきそうになる汗を拭った。
夏でもないのに、何故こんなに熱いのだろう。
バチバチと鳴るこの音は一体何なのだろう。
煙たい、釜戸のような、熱した石の臭いがする。
――雑魚寝をしていたはずの皆が、身動きひとつしないのは、何故なのだろう。
一番近くにいたジェードの肩を揺する。首が、転がった。
「え?」
喉元から一刀両断されていた。首が、ころころと転がって、子供の足にあたる。
ミティの足だった。彼女は体を芋虫のように丸めていた。首が、ジェードのように切断されていて、落ちそうな切り株のようにズレている。
「ど、どういう……」
子供達一人一人を起こして回る。けれど、誰も首から上が胴体と繋がっていない。体を揺すると小さな頭が取れた。
「死んで……」
死んでいる、と言葉にしかけて唾と一緒に飲み込んだ。
これは夢なのだろうか。さっきまで一緒に食事をしていた孤児院の皆が首を斬られた状況で死んでいる。
何かの間違いだと思いたかったが、何度瞬きを繰り返しても、頬を手で打っても目の前の惨状は変わらない。
皆死んでいるのに、私だけ生き残った。
どうして?
ぶるりと体が震える。
異端審問官の真似をした神父の仕業なのだろうか。シャイロックと夜に追い詰めると約束した。それに勘付いてドロシーを殺そうとした?
どうして、どうして。
どうして?
オズを救おうとしたのに、人がどんどん死んでいく。
シャイロック。シャイロックに、助けを求めないと。
シャイロックならば、助けてくれる。ドロシーを鞭打ちから救ったように。彼のことを思うと、どろりとした泥の中に星を見つけたような心強い気分になった。
死体を置いて、ボロ小屋を出ようとした。だが、何かに躓いて、頭から転げた。
ゆらゆら、小屋の周りを炎が包んでいる。ああ、この荒屋は燃えていたのかと今更ながら思う。
足元には誰かがいた。真っ白な外套。真っ黒の手袋。
首はやはり、切り落とされていた。見たくなくて、目を閉じる。
――オズ。
ドロシーが馬鹿だからいけないのだろうか。シャイロックを頼ったから?
夜まで待ったのが悪かったのか。
バチバチバチ、火の爆ぜる音がする。オズの手を一度だけ握って、炎のなかに飛び込む。
――熱い。
はず、だった。
再び目が覚めたとき、ドロシーの腕も脚もぴくりとも動かなかった。
眼球をあちらこちら彷徨わせる。
……薬棚があった。書類。筆。しわしわになった白衣が、無造作に置いてある。
「起きたか」
覗き込んできたのはシャイロックだった。彼はドロシーの額に指で触れると、熱はないなとこぼした。
ここは、と言いかけて声が全く出ないことに気がついた。口をぱくぱく動かすのに、一音だってはっきりとしたものにならない。
「煙で喉が焼けている。しばらくは声も出ん。俺が加護の魔法を使っていて良かったな。そうでなければ、お前もあの孤児院で転がっていた死体と何も変わらなかっただろう」
死体。
……やっぱり、皆、死んだんだ。
炙るような熱の痛みを思い出し目蓋を落とす。
「犯人は殺した。お前の体も元に戻してやる。少し時間はかかるだろうがな。全く、自ら炎に飛び込むなど何をしているんだか」
死のうと、思って。
だって、オズが死んだから。
オズ。オズ。また、守れなかった。
ドロシーは馬鹿で、何も出来なかった。
何か情報を集める、だ。
寝ているうちにオズは殺された。
磔にされた一番最初も、何者かに襲われた二番目も、そして今度の三度目も、ドロシーのせいでオズが死んだ。
「死のうと思ったのか? あのオズとかいう男の後を追って?」
こくりと頷く。実際には違う。ドロシーはまた戻ることを信じているのだ。二度あったことは、三度目もある。
鞭打ちの瞬間に戻るのだ。
オズが死んだ世界に生きていたくない。
今度は、誰もしなないようにしよう。お針子達を殺そうとする犯人も突き止めてみせる。
「まだ死にたいのか?」
こくり。再び頷く。
シャイロックが唇を隠した。
呆れているのだろうか。
シャイロックがあの炎のなかから助けてくれたのだろうに、ドロシーは死にたいと意思を示している。
「そうか。ならば、俺があの男を、オズを蘇らせてやろうか?」
……え?
ドロシーは耳を疑った。シャイロックは何と今言った?
オズを蘇らせる? 死んだ人間を?
「俺ならば叶う。誰でもない、この俺ならば」
オズが蘇る?
そんなこと、出来るのか。神様だって、出来ないだろうに。
疑心を瞳から感じ取ったのか、シャイロックは喉の奥で笑ってみせた。
「俺に出来ぬことなど何もない。ただ、相応の代償が必要だ。お前にも、俺と契約をしてもらうことになる」
契約? それはつまり、魔法使いとの契約ということだろうか。
「俺はお前の願いを三つまで叶えよう。叶えたあと、俺は好きにする」
何を、とは問えなかった。ドロシーが声を出せていたとしても尋ねることは出来なかっただろう。
ドロシーの全てをということなのだろうか。だが、孤児であるドロシーに価値はない。
労働力としては少しは役に立つだろうが、シャイロックの魔法があればドロシーなどいらないだろう。
オズ。オズの喉を掻き切られて死んだ姿が蘇る。どれほど痛かっただろう。
オズに、会いたい。
シャイロックがオズを蘇らせてくれる。確信があった。彼ならば、嘘など、言わない。
「――俺と契約を交わすか」
こくり、頷いていた。シャイロックと契約を交わすのは当然の流れだと思えた。
「ああ。その願い、叶えてやる」
数日の間、シャイロックは熱心に看病をしてくれた。五分として側を離れず、汗を拭い、髪をとかしてくれた。まるでお姫様のような扱いにむず痒くなりながら、シャイロックが願いを叶えてくれる日を待った。
彼が準備ができたと言ったのは、ドロシーの声が戻ってきた頃だった。
低い鼻声で、もう一度懇願した。
オズをどうか、蘇らせて下さい。
シャイロックは頷いて、ドロシーの体を抱き上げた。
軋むような痛みに耐えながら、シャイロックに運ばれる。
しばらくして着いたのは、見知った広場だった。
お針子達が磔になっていたそこには、眩いほどうず高く積まれた金貨があった。雪崩を起こしていまにも崩れ落ちそうなそれは、ただ圧巻の一言に尽きた。
王都にある黄金の城とはこんな風景のことではないか……。
「これ、は」
「死者の復活にはこの世の金の九割。六億六千六百六十六枚の金貨が必要だ」
「――金貨が」
「価値と生命の神、セフィロトは世界を貫く世界樹に基文を示した。生とは価値あるもの。価値とは金であり、生命こそもっとも高額な商品である、と。死者の命を手に入れるにはそれ相応の捧げ物が必要だ。これなるは死者の骨。オズという男の燃えた残り滓。肋骨から女を作れるほど、この骨には神秘が宿る。さて、お前もとくと見ておくといい。この俺が死さえ凌辱してやろう。この賢神シャイロックが、死者を甦らせる」
……肋骨?
シャイロックの手には確かに小さな骨が握られていた。
もしかしてあの荒屋でオズは焼けて骨だけになったのか?
そのことに今思い至ったことにドロシーは愕然とした。
オズは最期、喉を掻き切られて死んでいた。だから、ドロシーにとってオズの最期とはその姿なのだ。
けれど、オズは燃えてしまった。ドロシーは燃えることはなかったのに。
オズの死が目の前に現れて、意識が遠くなる。
いくつも魔法陣が展開していく。二重、三重とドロシー達を包みこみ、金貨がどろりと熱されたように溶けていく。黄金の海が、ゆらり、ゆらりと波紋を広げる。見たこともない、大海原とはこんな風なのだろうか。
ドロシーは黄金に手を伸ばしそうになる自分を律しながら、シャイロックの姿を見つめた。
「――愛しい女、俺の主人、俺の聖女」
名前を何度も呼ばれる。艶やかな声。優しい声。硬い声……。
「お前に誓おう。死人を蘇らせると」
枯れ木のような骨を黄金の海に投げ入れる。
蠢動し、海は骨を受け入れた。魔法陣から声がする。歌のような、太鼓の音のようなそれは、どんどんとドロシーに近付いてくる。
真っ黒な何かが黄金の中から現れた。
黒い歯に似たそれは毛のように多くの腕を持っていた。髪の毛のようだと、思った。悍ましい姿だというのに、シャイロックは怯みもしない。
長い足で蹴り飛ばすと、それは扉を開くように口から男を吐き出す。
「あ……ああ……」
オズ!
オズの体だ。傷ひとつない!
シャイロックは神様だったのだ。だって、モナーク神ですら、このような奇跡を与えない。
「お、オズ!」
……奇跡はなった。はずだった。
けれど、ドロシーは気がついていなかった。
広間に人がいないことを。動物すら、通らない。ドロシーに鳥のような目があったら、扉という扉を締め切っている街の人々を知ることが出来ただろう。
彼らは皆、罪人が着る麻の服を着ていた。両手を合わせ、シャイロックがいる方向へ頭を下げている。目には、未亡人のような喪服のベール。
お助け下さい、ご慈悲を下さい。
懇願ばかりを口にしている。正気はなく、肌は土のようだった。
この街は完全にシャイロックの支配下にあった。
故に、この死者さえ、シャイロックの思うがままだった。
「あ、ああぁあぁああああ!」
突然、蘇ったはずのオズが首を掻きむしり始めた。
悲鳴がドロシーの胸を刺すように苦しめる。
「オズ、オズ、どうしたの」
爪で血が出るまで掻き続けて、痛みに体をくねらせるオズにドロシーは必死で声をかけた。
だが、聞こえていないようにオズは皮膚を掻きむしり、ついには白目を向いて体を仰け反らせる。
「シャイロック様、オズはどうしてしまったんですか? 蘇ったはずなのに……」
「死んだ状態で、な」
「え?」
どういう意味だ。
死んだ状態?
けれど、オズは生きているじゃないか。
肋骨から、元の体を取り戻して……。
「どうやらセフィロトは金で買えるのは命だけと言いたいらしい。死という結果は覆すことは出来ないと」
「何を言っているのか、分かりません! どうすればオズを楽に出来ますか? 何でもします」
「なんでも?」
艶のある低い声でシャイロックが聞き返す。
「そうする必要はない。お前は俺に願いを訴える権利がある」
「オズを楽にしてあげて下さい。どうか。苦しそうなのは見ていられません」
「ーーああ、叶えてやろう」
シャイロックはドロシーを抱え直して、オズに近付くと、そのまま頭を足で踏み潰した。
ぐしゃりと、血が飛び散り、脳漿が散らばる。オズの真っ黒な髪が真っ赤に染まっていく。
「お、ず?」
「これで痛みはなくなった」
「ち、違ッ……」
「願いは正確するべきだと思わないか? 解釈の余地があるものを乞うと恣意が混じる」
シャイロックはオズを蘇らせてくれた。
けれど、今、シャイロックはオズを殺した。
ドロシーが楽にして欲しいと懇願したから。
「わ、私はそんなつもりはなくて! オズに、オズ、死んじゃった。なんで」
「さあ、叶えられる願いはあとひとつ。もう一度、この男を蘇らせて欲しいか?」
「よみ、蘇らせて欲しいです。でも、またオズが痛い目に遭うんですか? 喉をずっと引っ掻く羽目になる? 生き返らせたら、その分オズは苦痛を負う?」
ドロシーはただ、オズに生きて幸せになって欲しかっただけなのに。
ドロシーを好きになってくれた。嬉しかった。オズの幸せを望んだのが悪かったのか?
蘇らせることは苦痛を延長させることにしかならない?
「シャイロック様、オズを苦痛なく蘇らせることは出来ないのですか?」
「俺ならば叶うだろうが、残りの願いはあと一つだ。まさか、俺に蘇らせた挙句、苦痛も治せと厚顔にも言っているのか。最初の願いは蘇らせるだけだったというのに?」
「そ、それは……。シャイロック様!」
「そもそもこの男が生きていればお前はこの男ばかりを見つめるな? それが俺には認め難い。あとたった一つ。それでお前は俺のものとなるのに、心を奪われるなど業腹だ」
「シャイロック様!」
怒りに任せてシャイロックの頬を両手で掴んだ。力をこめているのに、顔の形が変形することはない。触っていないかのように指の形さえつかない。
「ああ……。夢にも見た契約履行の時だ。お前の望みを叶えてやろう。蘇らせてやる。だが、治療などしてやるものか。俺がまた頭を砕いてやる。お前の慕う男を、お前の望みが砕けるまで痛ぶろう」
「やめ……」
「死者を蘇らせてやろう」
「シャイロック様!」
パチンと指を鳴らしたシャイロックに懇願する。だが、彼は瞳の奥を輝かせたままドロシーに視線を向けることはなかった。
指の音に招かれるように街の人々が家からぞろぞろと現れた。
老若男女の差別なく罪人用の麻の服を着ている。貴賤はない。貴族らしき肥え太った男も、艶やかな女性も皆が一様に暗く陰を落とし死んだように歩いている。
黒のレースがついた帽子をかぶり、葬式のような有様だった。
「……偉大なる竜、シャイロック様。どうか、どうか、お許し下さい。我らの罪を、穢れをお許し下さい」
「この街の私以外の全ての人間を貴方様に捧げます。どうか、私だけ、私だけ、助けて」
「傲慢な! 竜様、わたくしのことはどうでも良いのです。この仔だけでも。赤子です。なんの罪もない、子供なのです」
「金銀財宝。全て差し上げる。どうか、この世の帳を開き、朝を迎えることをお許し下さい」
「常世全てを統べる万能神よ。我らにその叡智の一部をご教唆下さい」
「気狂いめ! 血迷ったか。異端の者ども。悪しき汚泥め! このようなものを神と崇めるとは!」
「魔法使いめ! 化け物よ、お前など死んでしまえ!」
「お家に帰りたいよ、お母さん、お父さん!」
「馬鹿が、声を出すな! お前の汚い声で不況を買い、俺達まで死んだらどうするんだ? アァ!?」
堰を切ったようように人々は口々に言葉を吐く。
地面に膝をつけたこともないだろう高貴な人間達も、闊達な街の人々も、聖職者も子供も、声を張り上げて泣き喚くように。
「静まりなさい!」
一瞬であたりが静まり返る。
凛とした声を発した少女はキリリとした顔でシャイロックを睨み付けた。
毎日櫛を通していただろう艶やかな金髪から高貴さが伺えた。
細い首を晒しながら、指をさす。
「悍ましい魔王の手先。よくも竜だと嘯けるものね。お前のような嘘つきは、確かに醜い王の配下たるに相応しい」
「ーー馬鹿王女。醜いあの王族の傍流が、よくも俺を悪辣に罵れる」
嘲りながら、シャイロックが少女を見遣った。
敵意のこもった桃色の瞳がドロシーまでも見上げている。
「民達よ、今こそこの男に報いを味合わせるときです。心配することはありません。わたくし達には騎士がーー聖騎士様がついている!」
拳をあげて熱弁する彼女を、しかし周りは冷ややかな瞳で見ていた。
「西の街にお忍びで来ていたらしいぞ」
「魔獣で足止めされて……」
「領主様に逃がされたというのに捕まったとか」
「竜様に命乞いをして助かったと……」
囁き声に少女は赤面した。
振り上げた拳は行き場をなくし、狼狽えるように周りを見る。
「お前のような力ない女がいくら囀ったところで小鳥の呟きと同じだと何故分からない? 聖騎士の威光を振り翳すしか出来ぬ無能が。そもそも、魔王の手先とは心外だ。俺はしがない東の薬師だと何度説明したら分かる」
「ひ、東の薬師が西の街を牛耳れるものですか! 民達よ、奮起するのです。ここでこの竜に従えば魔に従ったものとして磔にされるのですよ!」
「……じゃあ、王女様がお手本を見せて下さいよ」
誰かの囁きにそうだ、そうだと声があがる。どん、どんと体を押された彼女がタタラを踏みながらシャイロックの眼前に躍り出る。
「な、何故ッ、わたくしが最初に!? この国の王女、高貴な身分のものなのですよ!? この身はお前達の命の何倍も価値があるのです!」
「うるさい! 綺麗事言ってようは俺達に死ねって言いたいんだろうが!」
「死ぬならあんたから死ね! 高貴な身分なんだろ!? 俺たちより楽して生きてんだろ?! その価値のある体とやらを使って俺達を救ってくれよ!」
そうだそうだ……。怒号が飛び交う。小石や砂が飛んだ。王女は咳き込みながら、シャイロックではなく民衆を睨みつけた。
「この愚か者ども! わたくしが甘い顔をしたら調子に乗って……! お前達など、クリストフが来たら……」
「聖剣を抜けない騎士もどきならば死んだが?」
「ーーう、嘘」
「なんだ、お前の隠し玉とはあの男だったのか。聖騎士殿かと思ったが。まあ、あの男は女の趣味だけは良かったか。お前を選ぶはずもないな」
「嘘よ! 聖騎士フリストフはあの聖騎士様の末裔。聖剣の帯刀を許されたーー」
どさりと、シャイロックが黄金の鞄の中から何かを取り出し、投げ捨てた。
「な、なッ……」
生首だ。半開きになった瞳と視線が合うなり、王女は首を投げやった。
「おいおい、愛しの聖騎士ではなかったのか? せっかく会わせてやったというのに」
「つ、作り物だわ! そうに決まっている!」
「勝手に信じていろ。助けは来ない。ーーさて、ドロシー。お前の望みを叶えると言ったのに、うるさい人間どもが出てきて驚いただろう? だが、仕方がないことだと理由を聞けば納得するだろう。この星で取れる金の殆どはさっきの蘇りで使ってしまったからな。残るはこの鞄と地下深くに眠る金脈が少しといったところで、金の量が足りない」
だからとシャイロックは腕を上げる。ドロシーは彼の体にしがみつきながらずっと鳥肌が立っていた。
「だから、こいつらを使う。セフィロトが求めるのは価値だ。死者の理を曲げるだけの価値を、贄として示さねばならない。金とはこの世の価値そのものだろう? だが、それがなくなった。となれば一番手っ取り早い方法を取るべきだ。お前のオズを蘇らせるために同族の命を捧げる」
「……え?」
「世界の九割の金に近い価値を命で捧げねばならないとすると、ざっと六十億程度か」
命をとシャイロックは言わなかったか?
六十億? ドロシーにはそれがどれぐらい膨大なものなのかすら分からなかった。
「心配するな。人間種が根絶やしにはしない程度には残る」
「シャイロック様、この人達を生贄にするつもりなのですか?」
「この人達? 生温い言い方だな」
皮肉げにシャイロックは笑ってみせた。
「この国の人間も、大陸の人間も、全て捧げるつもりだ。それでも、男の体が蘇るかどうか。そうなれば、世界中からウジャウジャと虫のようにわく人間をとってこなくてはな。ーーお前の願いのために」
ドロシーには耐えられない言葉だった。全く現実感はないのに、シャイロックがそれをしてしまえるという確信だけはあった。
「ドロシー、お前も今のうちに命乞いを愉快に思えるようになっておけ。百人を超えたあたりから随分と退屈になってくるからな」
気が遠くなる。シャイロックの声が近いはずなのに、遠い。
これは現実のことだろうか。
首を拾い上げながら、王女が絶叫する。顔を掻きむしり、涙をぼたぼたと落とす。
一人の男が彼女の頭を石で殴った。
生贄です。お納め下さい。
その声につられたように、女が男を木の棒で殴る。その女も子供に石で殴られ、子供が老人に杖で殴られた。
殺し合い、血が飛び散る無法図を、シャイロックは色のない瞳で見つめている。その顔には落胆が浮かんでいた。
「この国を救ってやった結果がこれとはな。誰も俺を殺そうとはならないものか。結局、誰もが死ぬのに、一分一秒の延命のためだけに同族同士で殺し合うとは呆れる」
シャイロックはオズを蘇らせて、また殺すつもりだ。
目の前の惨劇は彼にとってただの見せ物に過ぎない。
この人こそ、魔王だ。
シャイロックを殺せばこの馬鹿げた現はなくなるのか。
オズを蘇らせ、殺すための意味もない殺戮が終わる?
「……シャイロック様」
違う。するべきことは一つだ。
シャイロックの腕の中から降りる。足の力が足りずに座り込む。自分の足先は黒く炭化していた。ドロシーは、シャイロックの力で何とか体の形を保っているだけなのだ。
もう、とっくに死んでもおかしくない。
本当は知っている。ドロシーの顔は焼け爛れている。王女がドロシーを睨み上げたとき、彼女の瞳には恐怖が走った。
街の人々はドロシーに目を向けない。シャイロックばかりを熱心に見つめる。
ドロシーが見るに耐えない顔だから。
きっとシャイロックは間に合わなかったのだ。ドロシーの体は殆ど焼けていて、どうにかシャイロックの力で生きている。
どうして、シャイロックはこんな姿のドロシーを助けようとしてくれるのだろう?
何の力もない。ただの孤児に優しくしてくれるのだろう。
ドロシーにとって孤児とは自分の全てをあらわす言葉だった。彼女について回る影のようなもの。切っても切り離すことができないもの。
人々を恐怖させ、従わせることが出来るシャイロックにとって何の価値もないもののはずだ。
「私を殺して下さい」
最初から、こうするべきだった。
シャイロックが垂らした希望に縋らず、死ぬべきだったのだ。
火に飛び込んだ、あのときのように。
瞬きをした彼は小さく首を振る。子供のような仕草に呆気に取られる。
「もう願いは聞いた」
「シャイロック様」
「そもそも俺はこれからお前を手に入れるというのに、喪う選択肢があると思うか?」
「シャイロック様!」
「俺がお前の骨をどれだけ……」
「……骨?」
「あの黄金も、この人間達もお前のためにあった。何も、後悔する必要はない」
ふいと顔が逸らされる。どうして。何故?
言葉が喉の奥から消えていく。
その間にも人々は殺し合いを続けている。
ドロシーにこの狂乱を止める手立てはない。
誰か、どうか。
救いを。この地獄に、救いを。
ドロシーの祈りを聞き届けたように誰かの声が聞こえる。
透徹とした慈悲深い声。
天使の声だ。聞いたことがないのに、心が理解していた。
万雷の喝采はない。天上の歌もない。
けれど、何よりも尊い祝福だ。
ステンドグラスに描かれた聖女を導いた天使。
大天使ミカエル。守護天使ミカエル。
彼がドロシーの名前を呼ぶ。
力強い、清廉とした声がドロシーの脳内に響き渡る。
ーー巡礼を。
「巡礼を、再開しよう。ドロシー」




