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惨劇

 


 朝起きて、食器を丁寧に洗った。


 ――鍋も回収しにいかないと。

 洗っては……ないだろうな。

 ドロシーは眉間に皺を寄せながらそう思う。


 体は少し熱っていたが、動けないほど高熱ではなかった。今まで二度も体感した真上から崩れ落ちるような感覚は一切なかった。


 シャイロックは本当に腕のいい薬師なのだ。本当は植物の医者だと言っていたのに。

 あの数分にも満たない手当で、ドロシーのことを救ってくれた。


 修道院の仕事を終わらせて、子供達に朝ごはんを作り、パン屋に急ぐ。パン屋が終われば、お針子の仕事があるが、その前にシャイロックのところに寄ろう。


 食事のお礼を言わなくては。ドロシーはきちんと食べられなかったけれど。

 ……傷を見せに来いと言ってくれたし。


 ドロシーはすっかり、シャイロックのことを好きになっていた。

 彼は、ドロシーのことを見下したような眼差しで見なかった。

 ほとんどの人間は、孤児だと知った瞬間、侮蔑を向けてくる。

 けれど、シャイロックはそんなこと、どうでもいいと言いたげなほど感情のこもらない理知的な瞳をしていた。


 名前も、きちんと聞いてくれた。

 人間は、ドロシーを使い潰すとき、名前すら聞かない。ドロシーは何度、孤児とか、おいとか、そこの薄汚い女と呼ばれただろう。


 シャイロックは少なくとも、きちんと人としてドロシーを見てくれた。

 だから、きちんと彼に恩を返したい。



 パン屋のおばさんは、ドロシーと目を合わせると、おはようと声をかけてくれた。ドロシーは遅れて、ああ……と泣きそうになった。そうだ、ドロシーは今日一日、熱を出して無断で休んでしまうはずだった。

 けれど、シャイロックがドロシーを治してくれた。


「おはようございます」


 パン屋のおばさんに怒られて解雇されることがない。

 ドロシーはやっと、何かを変えられた気になった。シャイロックのおかげだということは分かっている。

 彼がドロシーの怪我を診てくれたから、ここにいられるのだ。



 ーーでも、どうしてこれまでの二度と全く違うのだろう。


 魔獣が出てきて、王都への道が封鎖されたことだって、おかしなことだ。前はそんなことなかったのに。


 ドロシーはこんがらがりそうな思考を打ち切った。


 オズが王都に向かう日に、オズは殺されてしまう。二度殺されて、二度もドロシーは蘇った。

 ならば、三度目だって、きっと蘇ることが出来る。

 ドロシーは死にたくない。けれど、無力なドロシーに出来ることは少ないのだ。

 情報を集めるためならば、死んでもいい。


 オズが誰に殺されるのか。誰が殺そうとしているのか。

 魔獣が出て、王都への道は閉ざされている。オズと先生はどうするかと思案しているだろう。もうすっかり封鎖されているのならば、今年の試験は参加できなくなってしまう。



 ーー王都に行くから、オズは酷い目に遭うのかも謎だ。

 一度目は街の中で、異端審問官に殺された……?

 二度目は、王都への道すがら。何者かに殺された。

 手がかりを、見つけなくては。


 パン屋のおばさんにはしばらくここに来れないと伝えよう。オズが死ぬ運命を変えるんだ。




 ドロシーは忘れていた。ジルの言っていた大立ち回り。

 肉屋の亭主とパン屋の女将の浮気が発覚する惨劇があることを。


 朝の時間を過ぎると、朝ごはんにと買いに来ていた街の人々もまばらになっていく。

 ドロシーは青空の下で、ぼんやりと話を聞いていた。

 肉屋の亭主がやってきて、いつものおしゃべりをしてくるのだ。彼は若い女の子と喋るのが好きだ。ドロシーはいつも中身のない会話に愛想よく相槌をうつ。


 そうしなければ、すぐに不機嫌になってしまうから。


「そういえば、おい、聞いたか? 封鎖された道のこと。魔獣を倒しに王都からわざわざ聖騎士様が来ているらしいぞ」


「聖騎士様、ですか」


「今代の聖騎士様は堅物らしいぞお。しかも美男子なんだと。エルフの愛妾なんて噂があるぐらいだ」


「エルフって、王都にいるという英雄のお一人の」


「金髪のエルフだな。胸もデカくてエラい美人らしい。王都にはそういうエルフがうじゃうじゃいて金さえ積めば抱かせてくれるんだとよ」


 下卑た笑い声をあげて、肉屋の亭主はドロシーの指を触ってくる。気持ち悪さを押し殺して、微笑みを返す。


 一度、拒絶したら頬を叩かれたことがあった。

 以来、ドロシーは逆らわず、話を合わせている。


 彼は知っているのだ。ドロシーに暴力をふるっても、誰も叱るものなんていないと。


「あーあ、オレもエルフの女を抱いてみてぇなあ」


「……聖騎士様が王都から来られるぐらい、強い魔物が出たのですか?」


「さあねえ。旅人達の話じゃあ、黄金に光ってたって聞いたが、魔物が光るって何だよって話だろ」


「黄金に……」


 シャイロックの鞄のことを思い出す。あれと同じ煌めきをした魔物がいたのか?


「ま、魔王の復活と何か関係があるんじゃ……」


 ぼそりと呟いた言葉は、溌剌としたパン屋のおばさんの声でかき消された。


「こら! またアンタは仕事中にお喋りして! アントニオも、この子に構うんじゃないよ」


「すまねえ、ミケェラ。でもよお、お前が悪いんだぜ? このごろ、相手してくれねえじゃねえか。オレァ、寂しくてよぉ」


「アンタはもう、仕方がない人だねェ……。昼間っから、なんだい」


 でろっと甘い声を出すおばさんの視界に入らないように隅へ移動し、壁の掃除をする。パン屋のおじさんがいないと二人はいつもこうやって、馬鹿げた逢瀬を楽しんでいた。


 ドロシーには全く理解できない感性だった。二人とも神に誓った相手がいるにも関わらず、刺激を求めて火遊びをする。


 唯一神モナークは愛を尊ぶ神だ。慈愛の神であり、恋愛の神様。恋人達はモナーク神に希い、夫婦として認められる。

 文字もろくに読めないドロシーだけれども、それぐらいの常識は知っていた。


 モナーク神の前で愛を誓うことは、お金がかかる。パン何百個分もかかるのだ。神父様に、雨のように金貨を注がなくては、正式な夫婦とは認められない。

 愛には、お金がいる。


 この人達は誓いを忘れていっときの熱に浮かされている。

 贅沢で、呆れるような熱だ。

 ……オズは、ドロシーに結婚しようと言ってくれた。

 その言葉の重みを実感しているからこそ、彼らの行動に理解が出来なかった。



 いちゃつく二人を尻目に、ドロシーは暫定的にオズを殺した可能性が高いジルのをことを考える。


 ……オズを殺すのがジルならば、ドロシーがジルを留めればいいのではないか。

 ジルはドロシーを聖女として祭り上げたいようだった。

 ドロシーが聖女になると言えば、ジルはドロシーにだけ悪意を向けるのでは。

 いや、だが、そもそもジルがドロシーに向ける感情は本当に悪意に満ちたものなのだろうか。あの熱のこもった瞳……。

 まるで、恋をしているようだったのに。


「――マルコ」


「……アントニオ。テメェ、ふざけんじゃねえぞ」


「アンタ! やめて!」


 悲鳴と怒鳴り声が響く。ドロシーが慌てて顔をあげると、肉屋の亭主はすでに刺されたあとだった。

 どろりと真っ赤な液体が薄汚れたシャツを染める。生肉の臭いがしていた彼が、鉄錆の臭いをさせて倒れた。


 現実感がなさすぎて、ドロシーは悲鳴を上げることさえ出来なかった。


 さっきまでお喋りしていた人間が血溜まりの中にいる。

 口髭の端に唾液が溜まっている。


 焦点の合わない瞳が、ドロシーを見上げているように見えた。


 虫の死骸のように手を広げている姿に戦慄が走る。ドロシーはゆっくりと視線を上げた。――パン屋のおじさんと目が合う。


 どっと心臓が脈を打つ。

 死体だ。死体が、目の前にある。


 ドロシーはようやく、ジルが言っていた惨劇がここで繰り広げられたのだと、思い出した。


 次に死ぬのは、おばさんだ。


 悲鳴を上げたまま凍りついたように動かなくなったおばさんの肩を揺さぶる。逃げて下さいと口走っていた。

 血走ったおじさんの瞳がドロシーへ向けられる。

 身が竦むほど憎悪のこもった視線だった。


「知っていたのか」


「あ……」


 哄笑が青空の下に響く。何事かと目を丸くした通行人達が、おじさんの真っ赤に染まった腕を見て白目を剥いた。


「知っていたのか? 孤児のくせにオレの妻と謀って、オレを笑っていたのか?」


「ち、ちがッ……」


「違うものか!」


 ゴンと、肉切り包丁を振り回して、旦那さんは威圧した。


 その包丁はーー肉屋が愛用していたものだ。ドロシーは揶揄われて、持たされたことがある。

 重くて、持ち上がらなかった。あんなものを振り回されたら、ひとたまりもない。


「孤児を雇ったオレがバカだった。可哀想だと、同情してやればこれだ!」


 なんで。

 なんで、そんな風に言われなくちゃいけない?

 ドロシーが何をした? 

 何もしてない。笑ってもいない。

 不倫してることを告げ口しろっていうのか? やっと見つけた働き口だったのに。

 おばさんに嫌われて、追い出されたくなかった。

 それが、悪いことだっていうのか。


 安くこき使えるから、雇っただけの癖に。

 頭の中を占めるのは、私は悪くないという思いだった。

 不倫をしていたのはおばさんで、気がつかなかったのはおじさんだ。

 何故、責任転嫁が出来るんだろう。


 目標が、変わった。敵意が、ドロシーに注がれている。

 おばさんに逃げろなんて言わなければ良かった。

 ドロシーは細切りにされる自分の姿を想像した。


 また、殺されるーー。



「――俺の患者に手を出そうとは」


 自信に満ちた涼しげな声が落ち、ドロシーは恐怖に抗い視線を上げる。


「とんだ愚か者がいるようだ」


 どさりと肉切り包丁が地面に突き刺さる。

 目にも止まらぬ早業で、シャイロックが蹴り上げて包丁を叩き落としたのだ。


「お前ッ……!」


「俺に刃向かう愚か者がどうなるか、教えて欲しいのか?」


 腰を捻り、パン屋のおじさんの脇腹に長い脚を叩き込む。

 体をくの字に曲げて、おじさんは咳き込んだ。


「弱いな」


 無慈悲に振り下ろされた右脚が、頭蓋を揺らし、ころんとおじさんは倒れ込んだ。ぴくぴくと痙攣しーー起き上がる様子はない。



 呆然としているうちに警邏の人間がやってきて、おじさんを捕らえていった。

 彼らは黄金の鞄を持つシャイロックに目を剥いたが、事情を聞くと紳士的な対応をしてすぐに彼を解放した。


 おばさんはぼおっと、肉屋のおじさんを見つめていた。

 ぴくりと動きもしない体を指だけでなぞる。


「この、売女が!」


 横っ面を張り倒されて、ころりと巨体が転がる。太った体に跨って、肉屋のおばさんが鬼の形相でおばさんを罵った。


「アンタのせいで、ウチの人が! アントニオがァ!」


 おばさんの髪を掴んで何度も地面に擦り付ける。涙をだらだらと流しながら、悪魔、魔女と罵り泡を飛ばす。


「モナーク神よ! この淫売に神の裁きを! この女に天罰を!」


「アタシはァ……」


「殺してやる!」


 怒声に気押されたように天候が崩れ、雨がぽつりぽつりと降り始めた。

 ドロシーの腕を掴んでシャイロックが歩き出す。


「し、シャイロック様」


「…………」


 おばさんの助けを呼ぶか細い声が後ろから聞こえる。

 振り返るけれど、シャイロックの掴む力の方が強く、駆け寄れなかった。


 ……いや、駆け寄りたくもないのだと、ドロシーはこの時、初めて自分の胸に生まれたどろりとした感情に気がついた。

 熱が出て一日休んだドロシーを無慈悲に解雇したおばさんの姿を思い出す。罵倒され、クビにされた。


 そんな彼女が今、酷い仕打ちをされている。憐れむよりも、胸がすっとした。

 彼女は好き勝手に振る舞った報いを受けている。


 不倫をして、夫が嫉妬に狂い間男を殺した。生き残ったおばさんは肉屋のおばさんに罵られている。


 ――気分がいい……。


 口元が緩む。

 ドロシーは自分が野蛮で碌でもない人間なのだと、自覚した。

 だって、清らかな人間はこうは思わないはずだ。


 いい気味、ざまあみろ!






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