最初の男
「あぁああああ!」
痛みに叫ぶ。喉をさする。痛い。痛い。痛い!
何度も何度も首が折れていないことを確認してやっと声が漏れ出るのが止まった。
無様な姿のドロシーを見て、ロズウェルがにやにやと笑っている。
手に持つ鞭を握り直して、振り下ろす。けれどもうドロシーには鞭の痛みが全く痛いものに思えなくなっていた。
喉を突かれて殺された。次は、首をへし折られた。
ありありと思い出せる痛みに頭がついていかない。
オズはどうなった? 異端審問官にやられた?
何一つ分からなかった。ただ、殺された。
どうしてあんなことになった?
ただ、考えなしで殺されるだけだった。守るなんて口だけでなすすべもなく殺された。
馬鹿だ。本当に馬鹿だ!
ドロシーが馬鹿で愚かだったから。何も分からなかった。無駄だった。
異端審問官かも、野盗だったのかすら分からない。
……けれど、あれは確かに素手の感触だった。
ドロシーは、イヴを片手で持ち上げたジルのことを思い出した。彼は易々と男を気絶させてみせた。
ジルはドロシーにまた夜会おうと言っていなかったか……。
約束をすっぽかしたから、ジルが怒ってドロシーを殺しにきたのだろうか?
いや、そもそも、一度目の時だって明らかにジルの様子はおかしく、オズに対して敵意のようなものを抱いていた。ジルがオズを殺した?
異端審問官に見せかけて?
彼は貴族だ。王都から一番のパン屋を街に呼びつけることが出来るほど。なにせ、六英雄の一人の末裔なのだから。
常人離れした力も持っていた。ドロシーを殺したのは彼なのではないか?
地面にはシルクハットが転がっている。ジルのものだ。ドロシーがぶつけて落としてしまった。
そのときから、彼はドロシーに復讐しようと計画していたのでは。
ドロシーはパニックになってまともな考えが出来なくなっていた。首をへし折られた。
何も分からないまま。
誰に殺されたのかも、分からない。
背中を鞭が虐げる。
口から、今日食べたものが込み上げて吐き出してしまう。
白っぽい粥に、雑草が混じっていた。
喉の奥が痛い。
その痛みに、生きていることを実感した。
「この薄汚い餓鬼が!」
愉悦に満ちたロズウェルの声が響く。
体が無意識にすくむ。
ドロシーがオズを守るなんて夢物語なのだと改めて気がついた。
だって、この男の鞭すら、退けることが出来ないのだ。
ドロシーはただの女で、抗う力さえない。
「……うるさい」
低い男の声がした。
「は? ぶひょッ……」
突然、目の前でロズウェルが小石のように地面を転がっていく。
持っていた鞭も何度か跳ねて地面に転がった。ぴょんぴょんと跳ねてーー止まる。
「おい、行くぞ」
腕を掴んで男がドロシーを引きずるように連れ出した。
彼の長い髪が風に揺れた。
手に持つ黄金の鞄が煌めく。
老いた男の呻き声が遠くで聞こえていた。
しばらく走り、男が角を曲がって立ち止まる。じろじろとドロシーを上から下まで確かめるように見つめている。
ドロシーも彼が一体何者なのか、気になった。
少なくとも二回行われたあの鞭打ちの最中に、こんな男に助けられたことはなかった。
男は亜麻色の長髪を緩く肩で結んでいた。
整った顔立ちだ。華やかな印象がある。つんとした、誰にも媚びない美しさがあった。
白衣を纏っており、襟元に金糸の刺繍があった。なかは黒シャツだが、全部のボタンがひとつずつズレてとまっているせいか、だらしなく見える。
高貴な方に見える。だが、その一方でズボラさから、庶民にも見えた。
切れ長な瞳がわずかに見開いている。縦に割れた瞳孔は怪しい青い光を灯していた。
「お礼もなしか?」
「あ、は、ご、ごめんなさい。助けて下さりありがとうございました……」
ドロシーははっとした。
もしかしてお金でも請求されるのではないか。
ロズウェルは明らかに高位の僧の格好をしていた。街の人間達が見て見ぬふりをしたのは、彼を怒らせると酷い目に合うと思ったからだ。
リスクを負ってまでドロシーを助ける人間など何か目的があるに決まっている。
「あの、わ、私お金を持っていなくて」
「金に困っているように見えるか?」
男の視線が金の鞄に注がれる。ドロシーは瞠目した。本当にこの鞄、金で出来ている!
院長の部屋にある金のゴブレットと同じ輝きだ。院長は毎日毎日大事そうに磨いている。
こんなものを持ち歩いている人を初めて見た。
「い、いえ」
「そもそもお前のような見窄らしい格好の女に金をせびるほど落ちぶれてはいない。あの男がうるさかったから蹴っただけだ」
……蹴ったんだ。
朧げな記憶だがジュダがロズウェルのことを賢人会の一人だと言っていなかったか。賢人会というのが何だかよく分からないが、権威のある会派に違いない。いくら金の鞄を持っていても、許されるものと許されないものがあるのでは。
「……その、良かったんですか?」
「何が」
「その、蹴ったのは、ロズウェル卿と呼ばれる偉い方だと」
「ハッ」
嘲るような声だった。
「この俺がたかだかおいぼれに屈するとでも?」
「おいぼれ……」
「老僧ごとき俺の敵ではない」
「……そ、そうなんですね」
この人、もしかしてお忍びの王子様か何かなのだろうか。
あまりにも不遜で、ドロシーはあんぐりと口を開けて彼を見つめてしまう。
「……ふむ。お前、名前は?」
「ドロシーです。ええっと、教会で小間使いをしています。あとパン屋の売り子と、お針子と……」
「教会で育った孤児か」
「は、はい」
「ドロシー、か」
男は目を伏せ、愉快そうに口をにやつかせた。
「あの、貴方は?」
「俺のことはシャイロック様と呼べ」
「し、シャイロック様……?」
うんと、満足そうに頷いている。
ドロシー自身もなぜかしっくりきていた。彼は様と呼ぶに相応しい気がしたのだ。
男は背中を向けて歩き出した。
え!? と驚いていると、彼は振り返りドロシーを射抜くように強い瞳で見つめた。
「来ないのか? 手当をしてやる」
シャイロックは街の薬師の店にズカズカと入り込んでいく。彼の姿を街で見たことがないから、余所者――旅行者なのだと思う。
金のカバンを持った人なんて、噂が立つはずだ。聞いたことがないところを考えるに今日来たばかりなのかもしれない。
街の薬師はシャイロックを見るなり、頭を下げておずおずと部屋の奥へと引っ込んでいった。
「お、お知り合いなんですか?」
「……? あ? ああ、薬師は全員、俺にひれ伏す」
「そう、なんですか……?」
「そうだ」
もしかして王子様ではなく、薬学院の偉い人なのだろうか。
薬師達も錬金術師と同じように王都で国家資格が与えられるときく。
名のある薬師なのかもしれない。ドロシーが知らないだけで。
店のなかは薬草の匂いに満ちていた。
入って正面には大きな棚が所狭しと並んでいる。シャイロックはそこからいくつも薬草を取り出すと、すり鉢の上に投げ入れる。
「ん」
突然腕を差し出され、なんだろう? と頭を捻った。
「服」
……袖を捲れということなのだろうか。
ドロシーはびくびくしながら、白衣と、その下の黒シャツをまくった。
シャイロックは満足そうな一瞥を向けると、すり潰し始めた。
「……シャイロック様は薬師なのですか」
「そうだ」
「お代が払えないです。お薬の値段さえ知らない」
「金のことばかりだ。巨万の富をお前に差し出せばその煩わしい口を閉じるのか?」
「お代を取らない薬師なんて聞いたことがありません」
「取らないとは言っていない。……ん」
シャイロックが紙を指差す。ドロシーは渡しながら、では働いて返せということだろうかと首を傾げた。
「お針子は得意です。お金勘定も、少しなら。掃除や洗濯も」
「フ、いい心がけだ。だがまずは背中の治療からだ。酷く叩きのめされたようだが、このままでは膿んで熱を出す。薬を塗る。背中を出せ」
「は、はい!」
言われるまま、服を捲り上げる。
本当は羞恥を覚えた。
だが、お医者様は裸を見ても何とも思わないのだと教えてもらったことがある。
貴族と同じだ。
ドロシー達を人間と見ていない……。
「お前は、慎みというものを知らないのか」
あれ。
狼狽えて、視線を逸らすシャイロックがそこにはいた。
何も言わずに黙々と手当をするものだと思っていたのに、彼は動揺しているように見える。
「も、申し訳ありません……」
「……女なのだから、少しは隠せ。いや、もういい。すぐに終わらせる。……しみるぞ」
シャイロックはそういうと、あっという間にドロシーの背の傷を消毒して、薬を塗った。包帯で巻くとすぐにそっと服を下ろした。
「お前、なぜこうも鶏ガラのように細いんだ。食事をとっていないのか」
「え!? い、いえ。教会で、きちんと」
「……ん」
次は何だろう。そう思ってシャイロックの方を見やると、彼は腕捲りしていた腕を差し出している。元に戻せということなのだろう。シャツと白衣を元に戻すと、次は背を向けて屈む。
「髪」
「は、はい!」
髪留めが緩んでいるのを括り直す。
珍しい髪留めだった。人の髪の毛で編まれている。女性のものに見えた。想い人の髪を装飾具にする話を聞いたことがある。
もしかしたら、シャイロックのこれも……。
「シャイロック様は、どこから来られたんですか」
「俺がこの街の薬師ではないと?」
「その鞄、この街では珍しいものなので」
「……ふん。だろうな。この鞄は一級品だ。そうあるまい。……北の街から来た。これから東の街に行こうかと思っていたところだった」
東……。ドロシーがいるのは西の街だから、反対だ。確か、王都への道を通る必要があったはず。
「旅をされているんですか? 薬師として」
「本業は麦の医者だ。植物学者だの、植物医者だのと呼ばれている」
「植物の、お医者さん?」
「そうだ」
ドロシーは驚いた。麦はこの世で最も育てやすい植物だと聞いたことがある。一度種を蒔けば、人間が手を加えずとも収穫できるらしい。虫にも強く、蝗にも負けない。
なのに、人のように医者が必要なのか。
「東に、疫病に侵された麦の根が出たと聞いた。だが、東側――王都に向かう道は今封鎖されていてな」
「封鎖、ですか?」
おかしい。少なくとも、ドロシーが知る限り、王都への道は閉ざされていなかった。
ドロシーは王都への道すがら殺されたのだから。
封鎖されたからこそ、シャイロックがここに現れたのか?
でも、なぜ封鎖されたのだろう。
ぞわぞわと背筋に悪寒が走る。
前の時もそうだった。気がつけば、パン屋の女将さんの不倫が暴かれていた。
死んで戻るたびに少しずつ世界がズレていくようだった。似ているけれど、全く別の場所に来たみたい。
「魔獣が出たのだと。聖騎士殿の一軍が王都から派遣されてくるらしい」
「魔獣、ですか」
「ああ。面倒なことだ。……だがまあ、久しぶりに余暇を過ごすのも悪くはない。ドロシー」
「は、はい」
「お前の傷、膿むかもしれん。明日も患部を見せに来い」
「お金……」
舌打ちをされてびくりと肩が揺れた。シャイロックは前髪を軽く握り、さめざめとした青い瞳をドロシーへ向けた。
「くどい。お前が言ったのだろうが、働いて返すと。まずは治ってからだ」
「は、はい」
「病人は英気を養うのも仕事のうちだ。待っていろ、いくつか食べ物も用意してやる」
「え!?」
そういうと、シャイロックは薬師の家の奥に行ってしまった。
しばらくして彼は腕の長さほどある深い寸胴に、布に包まれた皿、そして蓋のついた鍋を持ってきた。
とてもいい匂いがしていた。
「牛頬肉のシチューにふかし芋のバター焼き、その皿にはパンだ。流石に即席だから、味は期待するなよ」
「シャイロック様が作ったんですか?」
「他に誰が作ると? 安心しろ、毒はいれていない」
「ど、どうして?」
「気まぐれだ」
薬師から台車まで借りて、シャイロックはドロシーに食事を持たせてくれた。こんなに親切にされたことはドロシーは一度だってなかった。
いつだって、ドロシーは孤児の得体の知れない子供だったから。
薬も、料理も、もらい過ぎている気がしてならない。親を持つ子はいつもこんなに厚遇されるのだろうか。きまぐれと言われて、優しくされる?
背中の傷が痛む。けれど、その痛みは前までのものよりも弱く感じた。
台車をおして、まずはお針子をしている仕事場を尋ねた。そこの女将はドロシーを見るなり、仕事に来なかったのを責め立ててきたが、シャイロックから貰った料理を分けると目の色を変えた。
半ば奪うように寸胴ごと奪われた。
台車すらいらなくなったが、皿と鍋を乗せて孤児院に戻る。
星が散りばめたような夜空のなかを箒に乗った魔法使い達が流れ星のように飛んでいく。
そのとき、ドロシーは気がついた。
今までずっと街の空の上をまじまじと見ていたことがなかった。いつもせかせかと働き、前ばかり見ていた。仕事場につくために走って、ろくに景色を眺めることはなかったように思う。
魔法使いはすぐそばにいたのだ。そして、異端審問官はそれを狙っている。
早足で、孤児院の扉をくぐる。
途中でオズに会った。泣きそうになるのを堪えて、親切な人に料理を貰ったと告げた。
鞭で叩かれたことは、言わなかった。
オズは怪訝そうな顔をしたけれど、ドロシーに何も言わずに台車をひくのを変わってくれた。
みんなの元にドロシーが帰ると、子供達は目を輝かせて貰った食事を貪り始めた。誰もドロシーに食べてもいいかとは聞かなかった。
結局、ドロシーが食べたのは残り物パンだけ。
初めて子供達に対して怒りが湧いた。ドロシーが貰ったものだったのに。
シャイロックがドロシーにとくれたのに。
オズは何も言わず、ドロシーと同じようにパンだけを頬張っていた。元気そうな姿に、すこしだけ苛立ちが紛れる。
オズは生きている。まだ、死んでいない。
――今度こそ、オズを助けるんだ。




