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痛いの痛いの飛んでいけ  作者: 川崎 春
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事件

 私は点滴を終えて、椿木と山本君に車で送ってもらう事になった。点滴の請求は後日してくれると言う話になったので、今日は代金を払わなかった。

 私の部屋の場所は、椿木医院と三駅程度離れた場所だった。カーナビを見て分かった。

 部屋まで山本君が付き添うと言ってくれて、椿木が車で待つことになった。

 入り組んだ狭い場所なので、車を駐車する場所が無いのだ。

「加賀美さん、今日はゆっくり休んで疲れを取ってください」

 良いお医者さんの顔で言ってくれる椿木は、丸っこい字体で『椿木医院』と書かれた青い小型車の窓から手を挙げる。

 手の甲まで毛が生えているのが、街灯の光で良く見える。ワイルドなイケメンが、可愛い小型車に乗っている。……その考えを、慌てて封じる。助けてくれた人に失礼だ。

 さっき椿木に促されて、アドレス交換をした。山本君ともする事になった。今後の話は三人で、と言う事になり、早速、明日の仕事終わりに会う事が決まった。

 エレベーターを待ちながら、私は山本君に頭を下げた。

「巻き込んでごめんなさい」

「何度も言わなくていいですよ」

 山本君は、そう告げて視線を逸らした。……謝り過ぎるのも、鬱陶しいのだろう。

「分かった。面倒だと思うけど、ちょっと付き合って」

 多分、私はここにはもう居られない。

 椿木と山本君は、ここが地元だから離れられないと言っていた。

 だったら、私の様な流れ者は、また居場所を探して流れて行くだけだ。出来るだけ、椿木と山本君には迷惑をかけず、大月が手を伸ばせない場所へ。

 人混みは嫌いだけれど、人に紛れてしまうのが一番良いだろう。

 私の部屋は五階だ。防犯上、女は高い場所に住むのが鉄則だ。

 山本君は部屋の前まで送ってくれた。

「今日は助けてくれて、ありがとう」

「感謝も、終わってからでいいですよ。実際力になれるかどうか、分かりませんから」

 山本君にとって、今日私を拾った事は、当たり前の行動だったのだろう。

 人が良いし、善人だと思う。こういう人はあまり居ない。少なくとも、私の知る限り。

 無償の人助けと言うのは、なかなか出来るものでは無いのだ。

「山本君、くれぐれも人に騙されない様にね」

 心配して言うと、山本君は変な顔をした。

「加賀美さんは、僕を騙しているんですか?」

「私は……ただ、山本君が、面倒見が良過ぎるから、ちょっと心配になっただけ」

 もしかしたら、事態を収拾しきれずに、ここから黙って逃げ出す事もあるかも知れないから、騙していないとは言い切れず、そう言った。

 すると、山本君は更に変な顔になった。

「おやすみ。また明日」

 親切にしてくれている割に、謝罪も感謝も見返りもいらないと言う、不思議な山本君。

 とりあえず、椿木が待っているので、お帰りいただく事にした。

 話を切り上げると、目を真ん丸にして、

「……お休みなさい」

 と告げている姿が、閉めたドアの向こうに消えた。

 何か、変な事を言っただろうか?いや、何も言っていない。言ったとしても、もうどうでもいい。そう思う。

 市販薬に、睡眠改善薬と言うのがある。

 これは実際に病院で処方される睡眠薬と違って、抗ヒスタミン薬だ。ひと昔前の、物凄く眠くなる花粉症の薬を、睡眠改善薬と言う名前で売っているだけのものだ。

 効果の持続時間が短い上に、酷く眠くなるので使えないと思われた薬を、逆転の発想で、眠れない人用の睡眠薬にしたと言うものだ。

 その場しのぎでしか無い事は分かっているが、今日は必要だ。

 ここ最近、寝不足もあったので、迷った挙句にお守りとして購入していたのだが、まさか使う日が来るとは。

 私はのろのろと身支度をして、薬を飲むと布団に飛び込んだ。

 効果が切れれば目が覚めて、頭が働きだす。それまでの時間、何も考えずに済む事だけを求めて。

 翌日の朝は、頭が少し重かった。

 風呂に入って、軽く食事をした後も、まだ眠り足りないので、布団に戻りたくなった。

 確かに、夢も見ないでぐっすり眠れたけれど、起きた時の爽快感も無い。眠ればスッキリすると思い込んでいたけれど、そうでも無いらしい。少なくとも、今の私はすっきりしていない。

 出勤の支度をして外に出ると、雪がチラチラしていた。

 積もったら嫌だなぁ……。帰りに困るし。

 スマホの天気予報を確認すると、積雪予想が三センチだった。

 白い息を吐きながら、マフラーに顔を埋めて部屋に戻る。

 踵の低いゴム底のブーツに履き替えて、再び部屋を出ると、駅に向かう人々に紛れ込む。

 ここでは、よく雪が降る。十二月からぽつぽつ降り始める。積もらないけれど、凍るから、滑らない工夫が必要なのだ。

 大通りには、融雪のスプリンクラーもあるけれど、細い路地には無い。だから、私にとって、このブーツは必須アイテムだ。

 住んで分かったけれど、雪の上で滑らない様に歩くのにはコツがある。情けない事に、運動神経の無い私には、そのコツがまだ完全に身についていない。慌てると転ぶ。それは恥ずかしいから、このゴム底のブーツを履くのだ。

 私の地元では、雪は珍しいものだった。ちらついても積もる事は無くて……。

 大月もそうだろう。だとしたら、滑って転べばいいのだ。そして、そのまま地元に帰るか、元々居た病院に戻ってくれたらいいのに。

 ……あまりに幼稚な発想にため息が出る。

 人を呪わば穴二つ。

 いきなり諺が思い浮かんで背筋を伸ばす。

 大月に傘で叩かれて転居するまで、近所に住んでいた、父方のお爺ちゃんの口癖だ。

 孫の私を見ると、いつも言っていた。人には感謝しなさい。害意を持てば、自分に返って来るぞ。

 私はそれを素直に受け入れていた。今も違うと思いつつ……たまに思い出して、悪意が返って来るのは怖いから、悪く考えるのは止めようと思ってしまう。

 お爺ちゃんのそんな方針もあって、私達家族は、大月の両親の謝罪を受け入れた気もする。……結果、二十数年経過した今も私を苦しめている。

 お爺ちゃんは根っからの善人だったかも知れないが、諺の教訓を畏れて守る様なモラルは、大月やその両親には存在しなかったのだ。

 年下の女の子への暴力、金銭によるもみ消し、昨日の椿木の話が正しいなら、家庭事情は複雑な上に、一つ病院を潰している。

 偏見を持ってはいけない。そうは思うが、自分がその被害者なのに、冷静に判断するとかは、無理だ。

 考えたくない相手の事を考えるのはとても苦痛だ。けれど、避けて通れないのが辛い。

 電車から降りて、薬局に向かう。その途中で声をかけられた。

「おはようございます」

 山本君だ。どうやら、心配して一緒に出勤しようと待っていてくれたみたいだ。

「おはよう」

 ここでまた謝ったら、いらないと言われそうなので、ただ挨拶を返す。

「寒いね」

「そうですね」

 元々、そんなに雑談をした覚えが無い。すぐに対話が途切れた。

 黙ったまま並んで歩くのは、非常に居心地が悪いのだが……話す事も無いし、黙っていようと思う。大月のせいで、人に気を遣う余裕や思いやりは、すり減って何処かに行ってしまった。

 今日は、態度の悪い薬剤師になりそうだが……もう、それすらどうでもいい気がした。

 山本君も、灰色の空から雪が降る中、不穏な空気を感じ取っているのか、何も言わない。

 ふと、足が止まる。

 少し先に立っている人間の顔が認識出来たからだ。山本君も立ち止まる。……薬局は隣だから、待ち伏せしやすいに決まっている。

 大月の顔色が、紙の様に白い。薄着だからだ。雪の日に白衣だけで上着も無しとか、馬鹿じゃないの?とか、思う。

「おはよう」

 歯をガチガチさせながら、大月が挨拶をしてくる。私はかなり嫌そうな顔をしていたと思う。

「先生、何で上着を着ていないんですか?」

 私の責めるような口調にも、大月が白い顔色のまま、笑顔になった。

「心配してくれるんだね」

 一瞬、横に居る山本君の呼吸がおかしくなったのを肌で感じる。思わず何か言いそうになって止めた感じだ。

 うん。私もちょっと言いそうになった。

 頭、おかしいの?

 でも、それを言う勇気は私に無くて、とりあえず、言葉を選んでみた。

「雪が降る様な気温の中、上着を着ないのは非常識だと言っただけです」

 私の言葉に、先生の顔が雪の様に凍り付く。

 私より年上の割に、常識は身についていない様子だ。

「分かった。上着を着よう」

「じゃあ、失礼します」

 頭を下げて薬局に入ろうとすると、大月が食い下がって来る。

「待ってくれ!僕を哀れだと思うなら、一度で良いから、外で会って、謝罪を受け入れてくれないか?」

「もう大昔に受け入れたじゃないですか。これ以上はいらないです」

 私が速攻で言い返すと、大月が叫ぶ。

「じゃあ、何で君は幸せそうじゃないんだ。そんなに怒っているんだ」

 ……何て言おう。

 確かに怒っている。幸せと言う気持ちもあまり持っていない。確かに。

 でも、それを言えば許していないのだろう。だから謝罪を云々って言われるだろう。

 とりあえず、今の感情を正直に表す事にした。

「面倒くさいからです」

 自立してから、すっかり忘れていたのだ。人に腹を立てるとか、怖がるとか言う感情を。大月のせいで、それを思い出して持て余し、もう、うんざりしているのだ。

 ギャラリーが山本君以外にも出現している。早々に切り上げたいので、私は感情のままに、言葉で、大月の心を袈裟斬りにする。

「人目を気にしないで行動する人は、モラルが無くて大嫌いです。物凄く迷惑です」

 正直に感情が表に出たのは分かっている。何か、嫌な奴だよなぁ……私。

 しかし、大月の心に刃は全く通っていなかった。

「就業前だし、君の住所も電話番号も分からない。だからこうして待っていたんだよ。良ければ、アドレス交換をしてくれないか?」

 マイナスの気温の朝に、上着も着ないで外に立って、出勤してくる女を待ち伏せた挙句、アドレス交換を申し込むのが、大月の中では常識的な事の様だ。

 そう言えば前も、閉ったシャッターをガチャガチャしていた。うるさい、通報されるって思って渋々出たのだ。

 根本的に、自分とは相容れない感覚が更に強くなる。……何をしだすか分からない。これを私のテリトリーから追い出すのは無理だ。

 ここには居られない。私が逃げるしかない。

 アドレスくらい教えてやろう。スマホはそろそろ買い替えようと思っていた所だ。

 今年度で退職して仕事を探そう。

 私がそう思いながらスマホを出そうとすると、山本君が言った。

「ストーカーで警察に通報しますよ」

「僕は、ただ謝罪を……ストーカーって僕はそんなつもりは」

 大月は、ストーカーと言われた事がショックだったらしい。

「僕は、事情とかどうでもいいんです。話すなら、警察で話して下さい」

 大人しそうな山本君も、言おうと思えば言えるのだと感心する。

 山本君がコートのポケットからスマホを出してタップし始めると、大月は隣のビルに駆け込んでいった。

「違うからね!僕はストーカーじゃないからね!」

 とか言っているのが遠くなっていく。

 とりあえず、大月が遠ざかってほっとする。

「入りましょう」

 山本君に促されて薬局に入ると、中では興味深々な様子で、受付の小川が私達を見ていた。

 山本君は、事情は知らないが、大月先生が昨日から加賀美さんに付きまとっていると説明した。昨日、薬局に一時間おきに顔を出していたと聞いて、小川さんが目を丸くする。

「怖いわねぇ」

 大月も怖いが、四十代でおしゃべり好きなおばちゃんの小川に、おいしそうな情報を与えるのも怖い。

「大月先生と加賀美さんって知り合いなの?」

 ここは私が切り返さなくてはならない。

 さて、何を言えばいいのやら。

「同じ小学校に居ただけです。私は引っ越しましたから、最初、分かりませんでした」

 嘘も本当も織り交ぜて、それらしい事を言っておく。

「運命を感じちゃったのかしら。困るわね」

「本当に。……着替えてきますね」

 話しを切り上げて、そそくさとロッカーに向かう。

 着替えていると、スマホがブブっと震えた。見ると、山本君からメールが来ていた。

『大月先生に個人情報は、絶対に与えてはいけません。何を言われても、与えないでください』

 近所にある小さな池の『コイに餌を与えないで下さい』の看板を思い出す。

 山本君の中で、大月に対する好感度が著しく下がっている気がする。上着無しを指摘して、トンチンカンな答えが返ってきて驚いたのは、私だけではなかったのだ。一瞬揺らぎかけた私の常識が少しだけ息を吹き返す。

『了解』

 と短く返信して、意識を仕事に切り替える。でも、あいつの処方を薬にするのかぁ……。

 苦行は続く。

 医師の名前は見ないで、薬の処方だけに集中する時間が終わり、夜の七時になった。受付も終了して、一応シャッターは開いているけれど、在庫の確認をする時間になった。

 ぎりぎりまで患者が居て、今も実はトイレに親子が残っている。下痢と嘔吐をした小学生の息子さんと、そのお母さんだ。止まらなくて、トイレから出られないらしい。

 処方された座薬をすぐ入れたみたいだが、流れ出てしまった様だ。可哀そうに。苦しそうにえずく声が聞こえる。

 上からも下からも出ている場合、一旦治まるまで、薬の出番はない。……もっと大きな病院で点滴を受けて、脱水を防ぐのが一番だろう。あまり辛そうなら、言ってあげる必要がある。

 夕方には小学生の風邪患者が大量にやって来て、在庫の管理なんかは出来なかった。

 残業禁止の派遣である山本君は、タイムカードを押して、私の作業を座って待っている。

 電話で椿木を呼んでくれるそうで、薬局を閉めたら、一緒に出ようと言われた。あの親子と残務がある限り、私はここを動けない。申し訳ないが、待ってもらう事にした。

 私の先輩薬剤師の二人の内、来年の春に定年退職する橋本は、今年になって、在庫の管理から手を引いた。

 いつまでも自分がしている訳にはいかないと、私にその分の仕事を振ったのだ。

 林原はまだ妊娠していなくて、二人で手分けしようと言っていた仕事は、結局、全部私の負担になった。

 三村は、薬の在庫管理を自分が当番の日にはしっかりとやってくれる。パソコンの管理ソフトへの入力も完璧だ。しかも、困って質問すれば、丁寧に教えてくれる。

 私の発注や在庫の管理のおかしい部分もすぐに指摘してくれて、理由も教えてくれる。

 勉強になるし、良い人だが、残業をほぼしない。

 仕事が出来るから、時間内に自分の手持ちの仕事を全て終わらせてしまえるのだ。抱えている仕事は多いのに、私より早くて正確だ。在庫の管理も、患者に薬を渡しながらこなしてしまう。年間を通して、どの時期にどの程度、どの薬を使う。と言う、薬の量に対する経験値が高いので、このくらいあれば。が、ズバリ的中するのだ。

 マツノ薬局では、まめに在庫管理する事で不必要な在庫を抱え込まない様にしている。……それでも期限切れで廃棄しなくてはならない薬がある。

 薬は午前と午後に、発注すれば届くのだ。だから安易に発注する前にまず確認を。それが、上手く行かない。私は、まだまだ修行が足りないのだ。

「手伝いますか?」

「大丈夫。ありがとう」

 私が覚えなくてはいけない。私の仕事だ。

 そこで、ふと手が止まる。

 ……別の薬局に転職する事を考えれば、ここまで必死にならなくていいのか。

 今度の薬局は、何処の病院の側か分からないし。こことは方針が違うかも知れない。無意味かな。預金は結構あると思うけど、失業保険の申請とかしている内に、仕事見つかるかなぁ。

 ぼんやりして手が止まってしまう。

 ジャーっと、トイレの水が流れる音で我に返る。

 ふと見ると、山本君が私を見ていた。手元には、開きっぱなしの薬のカタログ。ぼんやりしていたのを見られてしまった……。

「ちょっと、様子見てくるね」

 慌ててその場から立ち去る。

 行ってみると、母親は、トイレを汚してしまったと恐縮していた。

 辛そうな涙目の男の子が可哀そうで、私は市の夜間救急に連絡して、行ってみるのを勧めた。

 番号を教えると、そのままタクシーで向かうと言うので、タクシーが来るまでここに居る様に告げる。

 外は雪がうっすら積もり、踏み荒らされて灰色に変色していた。そんな場所に病人を置いてはいけない。

 ペコペコ頭を下げているお母さんに、掃除の事は気にしない様に言っておく。お母さんまで感染したら、大変だ。……この子の事は、ヨチヨチ歩きの頃から知っている。小学生になって、あまり来なくなったが、久々に見た。

 タクシーが薬局の前に停まった事を、外を見ていた山本君が教えてくれた。

「お大事に」

 薬局を出る二人を見送って、山本君を見ると、外に目を向けて変な顔をしている。

 そのまま視線を動かさないので、何があるのかと私も山本君の横に行って視線の先を見て固まった。

 ぼんやりと光る看板の脇に、幽霊の様に白衣の男が立っていた。……足元を見ると、朝はサンダルも靴下も履いていたのに、裸足だった。

 何で?朝より薄着なんだけど!

 さっきの親子は、必死だったので気付かなかった様だ。ほっとしたのと同時に、ず~んと気分が下降した。

「何で脱ぐの?」

 思わず呟くと、山本君が小声で言う。

「アピールですよ。ここまでやっているから、話を聞いて欲しいって言う」

「話を聞くまで脱ぎ続けるの?」

「……通報しましょう」

 山本君には迷いが無い。

「ダメだよ。事件にしたら、仕事が無くなっちゃう」

「でも、あれは手に負えないですよ」

 それは、私も思う。

「大月はここに来て日が浅い。コアラ小児科は、新しい医者を頼むべきです」

 山本君がスマホを出して、最寄りの警察署の番号を検索している。

 正論だ。しかしそんなにすんなりと医者が来てくれる気がしない。どうしたらいいのか。

 ガーーーッ!

 自動ドアが開いた。山本君がぎょっとして一歩退く。

 私はその場で固まった。

 ペタペタと裸足で大月が、薬局に入って来たのだ。

 山本君が慌てて電話をかけようとすると、大月はガバっとその場に土下座した。

「お願いです!話を聞いてください」

 もう避けきれない。私は観念した。

「この場で、すぐ話すなら」

 がばっと嬉しそうに顔を上げた大月に、私は鋭く言った。

「動かないで!」

 思わず大声になる。

 山本君が、背後でまだスマホを操作している。それを大月も気づいたのか、不安そうに見ている。

「録音します」

 山本君が言った。

「あの、そちらの薬剤師は、事情を知っているんですか?」

「ある程度は……。あなたが追い回すので、怖くて相談しました」

 行き倒れている所を保護された事は、当然黙って置く。

「そうでしたか」

 大月が、少ししょんぼりして呟く。

「お付き合いされている人が居たんですね」

 飛躍し過ぎだろう!

 ぎょっとすると、山本君が背後から肩に手を置いた。

 振り向くと、こちらをちらりと見て言った。

「それで、用件は何ですか?」

 誤解させておけって事だと分かり、黙って視線を大月に戻した。

「僕の家庭は実は複雑でして……」

 とっておきの身の上話だろうが、もう知っている。パスしたい。

「お母さんが未婚のままあなたを産んだお話は知っています。それで?」

 大月の顔が苦渋に満ちてくる。

「今はもう、母は父と結婚しています。僕の苗字が大月なのは別の理由です」

 そこを聞いて欲しいのだろう……。私は黙って先を促す。

「僕の起こした事件の後、僕達家族は、あの土地で真面目に生きて来たつもりでした。ですが、僕が大学に行った頃から、うちの親父が院長を務めている病院は傾いて、経営破たんして無くなりました」

 それも聞いた。

「僕は医学部を辛うじて卒業した後、この県にある総合病院で勤務医になりました」

 ……肝心な部分がまだ出て来ない。イライラする。自分語りはいいから、要点を言って欲しい。

「経緯は分かりました。それで私に何を言いたいんですか?」

「久保の祖父が何年か前に亡くなりました。その祖父が、あなたばかり気にしていたのです」

 久保……大月の父親の苗字だったかな?まぁいい。祖父と言う事だろう。

「あなたのせいで、父は遺産を相続できませんでした。僕も久保の姓を名乗れず、大月のままです」

 金持ちから、破産者になった挙句、遺産が受け取れなかった。しかも、久保と言う苗字を名乗る事も許されなかったらしい。謝罪では無くて、恨みだったらしい。

 好きだとか、本気で思われていたら怖いので、少しほっとする。

「父親が不倫していたし、僕も加賀美さんに暴力を振るいました。祖父はロクデナシだと腹を立てて、父は実子なのに、遺産分与から外されました」

 お爺さんと言う人はまともな神経の持ち主だったらしい。世間が罰しないから、自ら息子を罰したのだ。

 相続の詳しい事は分からないけれど、不倫した挙句、病院を一つ潰している。私の事を抜きにしても、当然の報いだと思う。

 どうしてお爺さんが怒ったのか分かっているのに、結局そこで金に帰着する。大月には、お爺さんの気持ちも私の気持ちも、一生理解できないのかも知れない。

 昨日……もし、呼び出しに応じて行っていたら。考えるだけでぞっとする。

「あなたにも責任があります。責任を取って下さい。示談で払った五十万円を、返してもらえませんか?」

 え?思考が固まる。

「五十万?」

「いらないと言われたのを、無理矢理置いて来たと、うちの両親が言っていました。いらないのなら返して下さい。僕にはお金が必要なんです」

 じゃあ、沢山お金をもらった、凄いお金をもらったのだと言う錯覚は、子供ならではの思い込み?

 確かに、あの当時、万札が束になっているのなんて初めて見た。

 母がすぐに私を部屋から出したのは、ぼんやり覚えている。

 もし単なる思い込みで勘違いだったなら……私の私立高校一年から大学六年までの学費や、寮での生活費は、誰が払ったの?

 そんなの……決まっている。親だ。

 家族は壊れてしまったけれど、両親は支えてくれていたのだ。こんな事に、今気づくなんて……。

 動揺して心が揺らぐ。

「返します。五十万ですよね?すぐに返します。すぐにお渡しします。お金を受け取ったら、お帰り下さい」

 とにかく、大月に関わっている場合ではない。実家に連絡を取らなくては。

「ご予定があるのですか?」

 大月が縋る様に言う。

「あなたには関係ありません」

「結婚のご予定、ありますか?僕と結婚してください」

 一瞬、何を言っているのか分からなかった。それでも口からは勝手に、悲鳴の様な声が出た。

「お断りします!」

「祖父の遺産があれば、借金を返済できたんです。破産しなくて済んだんです」

 大月が泣き出す。

 どんな暮らしをしているのか知らないが、私には関係無い。

「本当に少しだけ、婚姻関係を結んでくれるだけでいいんです。すぐに離婚します」

 ……私の戸籍を書き換えて、何をするつもりなの?どうするつもり?

 涙の伝う顔で、じりじりと正座のまま近づいて来るので、ただ怖くて背後に下がると、背中が何かにぶつかった。……山本君だ。居たのを忘れていた。

「動くな!」

 男性の怒声と言うのは、心臓に悪い。山本君の声も怖かったので、思わずビクっとしてしまう。

 どんな顔をしているのか分からないけれど、山本君の殺気みたいなものは肌で感じた。

「これ以上言ったら、警察を呼ぶ」

 一呼吸置いて、山本君は怒鳴った。

「今すぐ出て行け!」

 鼓膜がビリビリして首を竦める。男の人が声を張り上げて怒鳴っている所なんて、近くで見た事なんかない。父も温厚な人だったのだ。

 せいぜい、工事現場の人が声を掛け合っているとか、部活の学生の声程度だ。

 恐る恐る目を開ける。

 これで大月が逃げていれば良かったのだが、大月は山本君の怒声など何とも思っていない様子だった。

「通報したって構わない。そうすれば加賀美さんだって、ここには居られない。そうなれば困るのは加賀美さんだ。君じゃない。派遣の山本君」

 若い山本君に怒鳴られた程度、何ともないのだ。このままじゃ、逃げられない。けれど、こんなのどうしたら良いの?

 暫く沈黙した後、

「じゃあ通報します。加賀美さん、ごめんなさい」

 山本君の返事には、迷いが無かった。

 ぎょっとして背後を振り向くと、いつもの山本君が居た。さっきの怒鳴り声は幻かと思う程、いつも通りだった。

 大月も焦った様子で止めようとする。

「おい、待て!」

「犯罪者になって、医師免許を取り上げられてしまえ。僕は派遣だし、加賀美さんも仕事が出来るから、何処かでまた再出発できます。大丈夫です」

 ちょっと待って!

 そう思っている内に、大月がばっと逃げ出した。ジャミジャミの雪を裸足で踏みながら。裸足なら滑らないのだろう。凄い勢いで走って行った。足音が遠ざかっていく。

 薬局は、しんと静かになった。

 大月は金に困っている。お父さんもお母さんも、本当は私を嫌いでは無かったかも知れない。山本君は大声を出せる。

 出来事を、つらつら思い出し、もう一度目の前に大月が居ないのを確認すると、私は大きく息を吐いて、その場にしゃがんだ。

 山本君は……何も言わない。私も落ち着くまで時間がかかった。

 どれくらいそうしていたのか、ようやく思いついた事を言う。

「ねえ、今日はもう帰っていい?」

 本当は椿木も待たせている。食事に行って大月について、相談する予定だったのだ。でも、もうそんな気分では無い。

「ダメです」

 山本君から即答が来た。

「警察に行きます」

 確定だった。お誘いでは無かった。

「それは……」

 仕事が無くなる。大恥をかく。……辛い。怖い。

「さっき録音していたのは本当です。それを提出して、被害届を出します」

「それで……どうなるの?」

「大月は、もうここに来なくなります。あなたは恐喝の被害者と言う事になるので、事情聴取とかあると思いますが、我慢してください」

 また被害者……。もう勘弁して欲しい。

 私が動かないで黙っていると、山本君が大きく息を吐いて、続けた。

「黙っていれば丸く収まるって考えで黙ったから、あの裸足馬鹿が図に乗るんです。さっき五十万円、あっさり払おうとしましたよね?だから、結婚しろなんて言われるんです」

 その通りだ。

「加賀美さんも馬鹿です。何であなたがお金を払うんですか!おかしいでしょう」

 裸足馬鹿。そして私も馬鹿……。山本君は酷いと思う。けれど正しい。

「僕の父は警察官です。今回の場合、証拠もありますし、すぐに決着すると思います」

「え?お父さんが警察の人なの?」

 山本君が渋い表情になった。私の顔が凄い!と言う表情になっていたからだろう。

「……免許更新窓口のおじさんです」

 話が逸れた。山本君もそれを感じたのか、一瞬黙ってから言った。

「とにかくこれは届けを出します。裸足馬鹿にこれ以上、患者を任せたらいけないですし、加賀美さんもこのままだと危ないです」

 確かに、逃亡したままにしておく訳にはいかない。私だけでなく、皆危険な気がした。

「準備してください」

 有無を言わせないきっぱりとした言葉に、頷くしか無かった。

 在庫管理の途中だったが、それもそのままに、私達は帰宅の準備をして薬局を閉めた。

 椿木が車で来てくれる予定だったが、連絡を取ると、肺炎を起こした高齢患者の元に行く事になったから、来られないとの返答があったと、スマホを切った山本君が言った。……寒いし、そう言う患者さんが出るのは仕方ない。と思う。

 気温が下がり、雪が凍結し始めた事もあって、タクシーもなかなか捕まらないので、駅から電車に乗って、警察に向かう事になった。

 警察署にいざ着いてみると、緊張する。

 山本君は硬い表情のまま、こちらを見る。

「行きますよ。僕だってこんな事は初めてなんで、本当は緊張しています。……大人なんですから、ちゃんと話をしてくださいね」

「分かった」

 警察署の中での簡単な説明は、山本君がやってくれた。

 山本君とは別々に、事情を個室で聞かれ、結局二十年以上前の傷害事件の話から、全てを話さなくてはならなくなった。

 夜勤で居たであろう同じ年位の警察官は、眉間に皺を寄せて唸っていた。

「明日、傘で叩かれたって跡、見せてもらっていいですか?女性警官が確認するだけです。守秘義務は、勿論守りますから」

「はい」

 ここまで来て、もう嫌だと言う気にはなれなかった。山本君の言葉で目が覚めたのだ。このまま、大月に医者として仕事をさせるのは確かに間違えている。

「九歳ですか……」

 警察官が呟く。

「うちの娘、六歳なんです。そんな目に遭ったらと……身につまされました」

 眉間に力を入れていないと泣きそうだったみたいで、ティッシュを鼻に押し当てていた。

 明日、婦警さんに同席してもらって、もう一度話を聞くと言われ、午前中に来る様に言われた。

 薬局を休まなくてはならないが仕方ない。

 警察署から出ると、マツノ薬局の松野社長と橋本さんが立っていた。

 先に話を聞き終えたであろう山本君が呼んだのだろう。山本君も近くに居た。

 もう夜も遅く、寒い中待っていたのだと思うと申し訳なくて頭を下げた。

「ご迷惑をおかけしました」

「いや、君は悪くない。大変だったね」

 松野社長と橋本が、慌てて駆け寄って来た。

「ここでは何だ。場所を移して、話を聞かせてもらってもいいかな」

 山本君は警察に任せるべきだと言ったけれど、それだけでは済まない。……私は何度もあの嫌な思い出を話さなくてはならなくなる。

「はい……」

 山本君は、もう帰った方が良い気がした。

 それを告げようとしたけれど、松野社長は山本君を見た。

「一緒に来てもらってもいいかな?おじさん二人に尋問されたら、加賀美さんも可哀そうだからさ」

「分かりました」

 山本君は、その場で頷いた。

 山本君にまで聞かれるのは、本当は嫌だった。……事情を知っているとでも山本君は言ったのだろう。確かに、今日の事は全部知っている。けれど、私が九歳の時に何をされたのかまでは知らない。

 言わずに済ませる訳にはいかないよなぁ。社長がわざわざ深夜に話を聞きに来たのだから。第一、細かく話さなくては、大月の異常な部分を説明できない。

 その後、社長の車に乗って三人で松野社長の自宅に行く事になった。

 ……話が話なだけに、この時間で個室を確保するのは難しいと言う話になったのだ。

 社長の自宅は普通の一軒家だった。奥さんが出て来て応接間に通されると、すぐにお茶を出された。

「大した物は出来ないけど、ちょっと待っててね」

 私と山本君が何も食べていない事を知って、台所で料理を作り、振る舞ってくれた。

 卵チャーハンとスープと言うメニューが出てくると、

「冷める前に食べなさい」

 松野社長が促すので、食欲は無かったけれど口に入れた。

「おいしいです」

 山本君が先にそう言って、凄い勢いで食べ始めた。私も一緒に食べた。食べられないと思っていたのに、皿はすぐに空になった。スープも飲んで、

「おいしかったです。ごちそうさまでした」

 と、頭を下げると奥さんはにっこり笑って皿を片づけ、それっきりこちらには来なかった。

 お茶用のポットが用意されていて、松野社長がお茶のおかわりを淹れ始める。

「私がやります」

「大丈夫。うちでは、女に何でもさせるって方針は廃止されているんだよ。娘がね、お母さんに何でも任していると離婚されるよって、いつも言うから」

 そんな話は長く続かない。

 社長の娘さんの話が途切れて、私が話をしなくてはならなくなった。

 仕方ないので、私は順を追って、三人に話をする事にした。

 乱暴者だった大月少年から逃げようとして、転んだところを傘で叩かれ、示談金をもらって転居した事。その先で、傘で殴られた跡が残っている事から、虐待を疑われ、再度転居した事。二度の転居で両親と不仲になり、高校から全寮制の進学校に通い、大学に進学してからこちらに住み始め、薬剤師になって就職した事。そこに大月がやって来て、今回の事件が起こった事。

「小学生の犯罪ですから……将来のある子供を犯罪者にするのは躊躇われたんでしょう。うちの両親は、だから許したんだと思います。私もそれでいいのだと思いました。私の背中に残った傷も、そんなに濃い訳じゃないんです。だから、転居してやり直せばいいんだって、前向きに考えていたんですが……上手く行きませんでした」

 背中の傷は濃くはないけれど、数が多いし、不自然だったのだ。

 自分では見えない部分の傷だったし、親が大丈夫だと言ってくれたから、それを信じた。

 体育の着替えと違って、完全に裸になる水泳の授業で、私の背中の傷は見られてしまう事になった。

 薄く、幾つもある傷に対して、

「これ、どうしたの?」

 と聞く子が居た。心配してくれたのだと思ったので、素直に、

「傘で叩かれた傷が、残っちゃったの」

 と、答えた。

 主語を付ける事が出来なかったのは、大月の事は話さないと約束したから。……今思えば凄く馬鹿な答えだ。事故で付いたとか言えば良かったのだ。

 その子は、母に傘で叩かれて傷が残ったのだと思い込んで、自分の母親に報告した。

 彼女の母親は噂をまき散らした。自分の住む町に入って来た不審者を、うちの娘が発見したのだと、誇らしげに周囲に吹聴した。自分が言ったと隠しもしなかった。児童相談所にも何度も通報された。

 悪質な嫌がらせや電話が来る様になって、親も私も苦しくて、もうそこには住んでは居られなかった。

 逃げる様に転居した先で、家族は壊れて、私は親の気持ちも自分の気持ちも分からなくなって、一人になってしまった。

「大月にされた事が原因だったかも知れません。けれど、本当に辛かったのは、その後だったんです」

「今回も、同じ事が起こるって心配していたの?」

 松野社長の言葉に、恐る恐る頷く。

「もう、ここには居られないって、思い詰めていたところに大月が本当に来て、ダメなんだって思いました」

 松野社長の言葉に素直に答えている内に、少し涙が出た。

「医師の恐喝とか……薬局も困りますよね?私、ここには居られないです。コアラ小児科も潰れちゃうかも知れない」

 重くて背負いきれない。マツノ薬局も皮膚科だけでは収益が減ってしまう。

 全部……自分のせいだと思うと、泣いてはいけないと思うけれど、もう我慢できなかった。

「すいません。私のせいで、すいません」

 薬剤師みたいな接客仕事は辞めて、薬の研究員になっておけば良かった。

 分からなかったのだ。こんな所で会うなんて思っていなかったのだ。親とは連絡を取るが、実家には帰れない。その後どうすれば良いのかも、もう分からない。全て、時間が経ち過ぎている。

 横からぬっと手が出て来て、ハンカチを渡された。……山本君だ。

 みっともない顔を晒すのも何なので、素直に借りて顔を覆う。

「ありがとう。ごめんね」

 山本君は返事をしなかった。彼はやはり、感謝も謝罪も嫌いなのだろう。でも、他の言い方を私は知らない。

 みっともなく泣いているのに、皆、許してくれるだけでありがたかった。

 そうやって泣いて、落ち着いた頃に、

「何とかなると思うよ」

 社長が言った。

「逃げるのは、何時でも出来る。少し様子を見てからでもいいと思う」

「社長……」

「コアラ小児科の代わりのお医者さんについては、安藤先生も交えて、色々話してみるよ。実は安藤先生、癌なんだ。もう復帰は望めない。ご自分でも分かっていらっしゃるから、いつ閉めるか誰かに任せる予定なのか、今回の事が無くても相談しなくてはならなかったんだよ」

 安藤先生が癌……。

 橋本が言った。

「安藤先生は、長く自分一人でやり過ぎたんだ。仲の良い仲間は、皆、後進に譲って隠居なさっている。丈夫だったから自分の引退は、まだ先だと思っていらしたのだろう。……ご自分が癌だと分かって、慌てて代わりを探している所に、大月先生が紹介されて来たんだ。患者さんの事を第一に考えていらしたから、迷う暇も無かったと思う。だから安藤先生を悪く思わないで欲しい」

 患者の為に、医者を途切れさせてはいけない。ただそれだけだったのだろう。自分だって大変なのに、安藤先生の気持ちを考えると、責める気にはなれなかった。

「安藤先生には、私の過去の事は言わないでください。自分のなさった事を、必要以上に責めてはお体に毒です」

 私の言葉に、橋本も社長もほっとした様子を見せる。年齢が近いから、親交が長いのだろう。

「辞めるのはいつでも出来るから……少し待ってくれ」

 社長と橋本に頭を下げられて、私は了承するしかなかった。

 お嫁に行った娘さんの部屋が空いているから、そこで暫くは寝泊まりする様にと言われて、私は山本君に付き添われて、タクシーで自宅に向かった。

 警察にも、社長の家に居ると話してあるそうで、着替えなどの荷物をまとめる様に言われたのだ。

 山本君のお父さんが警察官である事も大きいのか、社長は山本君も信用している様子だった。

 きっと、これから起こる事は辛いで済まないだろう。松野社長も橋本も折れて、うちの親の様になるかも知れない。

 それを見たくなかったが……見て判断してから、ここを離れなくてはならない様だ。

 今横に座っている山本君だって、もう折れていてもおかしくないのだ。

 一か月前まで全然知らなかった若い男の子に、ここまでやらせてしまっている。どうでも良い様な事情に深入りさせてしまった。

 でも謝っても感謝しても、彼はそれを受け取らない。

 安易に「気にしないで下さい」なんて言えない事態だから、そんな軽口を叩かれても困るのだが。……沈黙も実はちょっと傷つく。

 母が、ネグレクトに近い状態だったからかも知れない。何か言っても返事が無いのが、少し怖いのだ。

「長い時間、付き合ってもらってごめんね」

 相手が受け取らなくても、言わなくてはならない言葉は言っておく必要がある。……単なる自己満足だろうが、気持ちを安定させるのに必要なのだ。

 やっぱり、山本君は何も言わなかった。

 マンションの一室で、荷物をまとめている間、山本君は台所付近で立ったまま終始無言だった。

 待たせていたタクシーに乗って、再び社長の家に行くと、山本君は頭を下げてタクシーで帰って行った。

 山本君の実家は椿木医院の近くにあって、そこから通っているそうだ。

 日付はとっくに変わっている。親への連絡をまだしていない。明日起きてから電話する事にした。

 明日また警察。……社長宅、辛い。

 保護されているのだからありがたいと思いつつ、少し息が詰まるのは、一人暮らしが長いせいだろう。年始明けまで居るとすれば、相当のストレスになるのは分かっていたけれど、ホテルに泊まるのも今晩に限っては無理だ。……大月がどうなったのか分からないから、私は一人になってはいけないのだ。

 なかなか寝付けなくて、無意味に本をペラペラとめくっていると、スマホが震えてメールが来た。

『お疲れ様です。今は休んでください』

 山本君のメールは短いものだった。

『了解』

 椿木に言うのだろうか?一瞬考えたけれど、それでも構わないと思って、私はそれだけを返信した。……もう隠しきれない。諦めが先に立ったのだ。

 本当に……どう仕様も無い。

 あの薬に今晩も頼る事にした。とにかく、何も考えずに眠れる。それで十分だった。


 僕は、加賀美さんに謝罪すべきかも知れない。

 事情聴取の後、社長の家で詳しく事情を聞くにつれて、自分が最善と思った方法が間違いかも知れないと思い始めた。

 聞いてはいけない事を聞いてしまった。その感覚はとても苦くて重い。こんなに重い物を抱えている人に、安易に話せと言ってしまったのだ。

 加賀美さんは、至って普通の人だと思っていた。婚期も気にせず、仕事に打ち込む女性の薬剤師。

 きっと恋愛に興味が無くて、誰かに見合いでも勧められたらあっさり結婚して、それでも仕事を続ける様な意思の強い、仕事好きな人なのだろうと思っていた。

 それに違和感を覚えたのは、昨日だ。

 話して見ると……話さない。無口だった。女と言うのは、話題を勝手に振って来るものだと思っていたがそんな事もしない。そして仕事中と違って、素直で腰が低いと言う態度も気になった。

 何度も謝り、感謝する。何か言われれば、困った顔をするだけで嫌だと言う事をほぼ言わない。……さすがに大月には言ったが、あっさり金を渡そうとした時点で、この人は人が良過ぎるのだと、悟った。

 昨日は弱っているからだろうと思っていたが、今日の事件とその後の話で、その理由が分かった。……分かってしまった。

 人が怖いのだ。それなのに、優しいから憎めない。そういう、おっとりした質の人だったのだ。両親もそういう人だった事が伺える。

 そこで、大月が事件を起こしたのだ。

 大月の傷害事件が無ければ、全く違う人生を歩んでいた筈だ。……男が放って置かなかっただろう。あれだけ素直で、しかも温厚なのだから。

 見た目も悪くない。陽介があれだけ乗り気になったのは、見目が良いからだ。そんな事は僕だって分かる。

 背中に残った痣のせいで、恋愛も結婚も早々に諦めたのだろう。そして、自立出来る安定した仕事を求めて薬剤師になったのだ。

 加賀美さんは加賀美さんなりの方法で、出来る限り抵抗していたのだ。自分の過去を暴かれる事にも、居場所を奪われる事にも。

 僕や陽介に対して、加賀美さんは大月に何をされたのか、その内容を詳しく言わなかった。……言いたくなかったのだ。それなのに、のこのこ付いて行って……傘で殴られて痣が残ったなんて話は、僕が聞いてはいけなかったのだ。

 加賀美さんは、警察でもこの話をしただろう。そして明日も、またその話をするのだ。

 暴かれたくない嫌な過去を、加賀美さんは、繰り返し話さなくてはならないのだ。

 そうさせてしまったのは、僕だ。

 確かに手に負えない程、大月は異常だった。

 けれど異常者に見合っただけの罰を受けさせる為には、被害者の受けた苦しみも話さなくてはならなくなるのだ。

 そこまで僕は考えていなかった。……知らなかったのだ。

 人の意思に逆らって、嫌だと言えるだけが強さでは無い。目の前には、もっと見え辛いけれど、確かな強さがあった。悪意を悪意で返さない、優しい強さだ。

 そんな人が言うのだ。僕なんかに、「ごめんね」とか「ありがとう」とか。

 どういたしまして。なんて、言える訳が無い!

 何で、もっと怒らないんだよ。大月なんて訴えてやるって強気にならないんだよ。自分は悪くないって主張しないんだよ。

 ……出来ない。あの人はそう言うの、無理。たった二日で分かった。松野社長も橋本も分かったのだろう。苦しそうにしていた。人に迷惑をかけてまで、自分を守ろうとしていないのだ。

 里美の件も上手く切り抜けたから、加賀美さんの事もどうにか出来ると言う、根拠の無い自信で踏み込んだ僕は、大馬鹿だった。

 里美が泣いても同情を引きたいだけだって、演技だって思っていたから、何とも思っていなかったけれど、今日の加賀美さんの泣き声は堪えた。

 押えた嗚咽は、心の上げる悲鳴の様だった。

 大月が悪いのは当然だったけれど、こんな風に泣いているのは、明らかに僕の判断のせいだった。判断が間違えていたとは思わない。けれど……僕に非があるのは明らかだった。

 僕は通報したら終わりだと思っていた。加賀美さんは、通報したその先に怯えていた。その認識の差を僕は全く感じていなかった。加賀美さんは、分かった上で僕の行いを許してくれたのだ。更に酷い目に遭う事を知っていたのに。

 加賀美さんは社長の家で保護されて、社長の世話で今後を決めていくのだろう。

 社長がどうするにしても、派遣社員の僕が出来る事は、ただ仕事をする事だけになった。

 今回の事もあるし、社長も帰り際に言っていたから、僕は派遣期間が切れた暁にはマツノ薬局の正社員になる。

 計算通りに僕の人生は進んでいるのに、ちっとも気分が晴れない。加賀美さんの人生がどうなるのか分からなくなってしまったからだ。

 スマホがチロンと音を立てた。

 陽介から、『どうなったの聞きたい。電話していいか?』とメールが来たけれど、『また今度』と断った。

 あの人、口止めもしなかったな……。ふと思う。

 もう、どうでもいいのか信用してくれたのか……どっちにしても、加賀美さんはノーガードで殴られているみたいな状態だ。

 言えない。僕は言えない。あんな事情をいくら陽介でも加賀美さんの了承無しに、話す気にはなれない。でも誤魔化しきれない。休みになったら、絶対に聞き出そうとするに決まっている。

 部屋のドアがノックされて、父が入って来た。

「職場で事件に巻き込まれたんだって?」

 交通課のおじさんだが、ベテランの警察官だ。寝間着姿でも、今はきりっとしている。

「僕じゃなくて、上司の女性だよ。恐喝されたんだ。僕は居合わせたからやり取りを録音して、それを証拠として提出しただけ」

 少しほっとした表情になって、父は言った。

「そうか……その人は、大丈夫なのか?」

 一瞬言葉に詰まる。僕は父の様な配慮を全くしなかった。警察官の子供だけれど、被害者の気持ちなんて考えた事が無い。

「薬局の社長が、今日から暫く自宅で保護している。……後の事は……社長がやってくれるから、大丈夫だと……思う」

 歯切れの悪い言葉から、父は何かを感じたのだろう。

「それでも、お前が力になりたいなら、なってあげるといいよ。そうしたいのならね」

 それだけ言うと、父は部屋から出て行った。

 家がシロアリに食われて、建て替えた時以来の大事件だ。

 父には直接電話で連絡が行ったらしい。母はもう寝ていたから、明日の朝びっくりするのだろう。でも、それで終わりだ。僕の日常は戻って来るだろう。

 加賀美さんは……どうなるのか分からない。

 僕が加賀美さんに関わりたいのであれば、関われ。父はそう言ったのだ。

 確かに、ここで加賀美さんと元通り、何も知らなかった頃の部下に戻るのは可能だ。

 きっと、退くなら今だろう。

 今日までは巻き込まれていたと言い訳できるが、ここからは僕の意思になる。

 ……加賀美さんが、嫌がるかも知れない。

 ちょっと考えて、加賀美さんにメールを打ってみた。

 朝と全く同じ、短い返事が返って来た。

 あれだけの事があったのに、ちゃんと返事をするのだ。そんなメール放置しろよ。どこまでお人良しなのか。僕が犯罪者予備軍だったらどうするつもりだ?陽介なんか下心丸出しで……僕がここで手を引けば、事情も聞き出された挙句、絶対に食われてしまう。それで結婚となれば、里美と親戚になる。

「あ……」

 忘れていた。里美の根性の悪さは筋金入りで、同姓の友達が殆ど居ない。表向きは友達だと言っていても、実際にはプライベートで誘われないと泣いていたのを思い出す。理由なんてはっきりしている。……自己主張が激しい上に、精神年齢が低いからだ。

 里美は加賀美さんの人柄を見抜いて、事情を聞けば絶対にいびる。加賀美さんはそんな状況から逃げて来たのに、何処にも逃げられないままに……。

 それは、だめだ!

 関わると言う一択しか無い現実に辿り着いて、大きく息を吐いた。これ以上加賀美さんの事情を拡散させてはいけない。彼女にはもう人の悪意はいらない。

 僕は明日からの事を考える。しかし、何も浮かんでこない。ただ、加賀美さんを放って置けないと言う一点しか見えない。

 とにかく慎重に動かなくては。集中力の落ちた頭では良い案が浮かばない。今日は色々あり過ぎた。目を閉じると、意識はすぐに闇の彼方に落ちて行った。


 事件は全然違う方向に逸れて、私は社長の家から自宅に戻る事になった。

 大月は無事に逮捕された。

 逮捕されたのは、私と山本君が社長の家でチャーハンを食べていた頃だ。別に恐喝未遂犯として追われていた訳じゃない。

 裸足に白衣で歩いている大月をパトロール中のパトカーが発見して職務質問した後、署に連行したのだ。

 そこで大月が逮捕された。罪状は……

 麻薬取締法違反。

 大月は、覚せい剤の常習犯だったのだ。確かに異常だった。あれは覚せい剤のせいだったのだ。

 恐喝未遂程度では警察はすぐに動かないのだそうだ。凶悪犯では無いから。……私にとっては、十分に凶悪だったのだが。

 ただ、警察官の家族である山本君が巻き込まれている事、相手が医者であると言う事から、逮捕状を請求しようか迷う位の案件だったらしい。

 証拠として背中の傷も確認してから私の意思も尊重して、示談にするか刑事事件にするか、決める予定にしていたそうだ。

 しかしそんな間も無く大月は逮捕されて、私への恐喝はすっかり霞んでしまった。

 私と山本君は警察署に呼ばれて、今回の恐喝の部分は公表しないと言う方向で同意した。

 私や山本君とは無関係に、裸足で歩いていた大月が怪しいので捕まった……と言う風に落ち着いたのだ。

 医者が麻薬をやっていたのは社会的な大問題だし、コアラ小児科クリニックの事を考えれば……それは大変だと思う。

 けれど、私の負担は大きく減ったのだ。

 家に帰れる、社長に迷惑をかけずに済む、周囲からも大月にだけ目が行く。私は巻き込まれていない。何処かに居る神様ありがとう!通報して良かった。

 警察署を出て、外の景色を見ると凄く嬉しくなった。

「山本君、ありがとう」

 横の山本君が返事をしないのも、今はどうでもいい。もう、彼に世話をかける事も無い筈だから。

 しかし、今日の山本君は返事をした。

「ありがとう、じゃ、ありません」

 何だか声が怒っている。

「じゃあ、今までありがとう。これからも仕事でよろしくね」

 山本君は、歯をギリギリさせていた。何だか苛立っている。

「たまたまですよ!今回の事」

「うん。そうだね」

 そんな事は分かっている。だから嬉しいのだ。人に迷惑をかけ、醜聞を晒しながら逃げる事が怖かったのに、その状態を逃れた奇跡の様な状況だ。

 何が気に食わないのだろう?喜ばしいのだから、ちゃんと受け入れたらいいのに。

「昨日あんなに泣いていたのに、何でそんな風に笑えるんですか!」

「恥ずかしい事を思い出させないで!あんな目に遭った挙句、嫌な話を何度もしたら泣くわよ!おばちゃんだって、悲しい事は悲しいの!」

「おばちゃん?」

「私、三十三だって言ったでしょ?山本君みたいに若くないの」

 山本君の足が止まる。

「何?寒いから早く行こうよ」

 私に何か言いかけていた山本君は、口をもごもごさせた後言った。

「陽介!陽介にはどう説明するんですか?あいつは、全部じゃないけど事情を知っています。絶対に詳しく聞きたがります」

 そうだ。行き倒れているのを点滴で救われたし、警察署に行くから車で連れて行けと頼んだ。世話になったのに放置は出来ない。

「じゃあ菓子折り持ってお礼に行くよ。そのとき適当に話はする」

 点滴のお金もまだ払っていない。無事に片付いたからって、支払いのついでに、お礼をしよう。それで良い筈だ。

「僕が連絡入れて、一緒に行きます」

「ありがとう。その方が助かる」

 椿木の家には多分お父さんである、現院長が居る筈だ。山本君が居れば、その辺も上手くとりなしてくれそうだ。

 椿木の都合も知っていそうだし、助かる。

「加賀美さん、妙に明るいですよね」

 言われてみると、そんな気がする。

 というかウン十年振りに、視界が晴れたような感覚がある。世界がクリアと言うか、視界が輝いていると言うか……。

「そっか……大月が罰せられる事になって、私、凄くすっきりしているんだ」

 山本君はきょとんとしてから、忌々しそうに私を見て言った。

「服役してもすぐに出てきますよ。初犯みたいですし。そのときどうするんですか?」

 正論だけれど、山本君を心底嫌な奴だと思った。

「折角、気分が良いのに台無し」

 今くらい楽しい気分にさせてくれてもいいじゃないか。大学入試に合格したときや就職の内定をもらった時よりも嬉しかったのに、思い切り水を差された。

 私はムカムカしながら、駅に向かった。背後から山本君が付いて来る。

「加賀美さん」

「私は家に帰る。椿木先生の都合は、私から聞くから山本君は来なくていい」

 山本君は無言だった。こういう時、顔を見るのが怖いので私はいつも顔を見ない。

「そう言う事だから、今日はお疲れ様!」

 さっさと駅に行って、電車に乗る。

 山本君は反対方向の筈だから、同じ電車には乗って来ない。

 ……そんな事、分かってるよ。

 電車の外の景色を見ながら思う。

 罰せられようが罰せられまいが、過去は付いて来る。そんな事は身に染みて分かっている。

 それでも、一度で良いから『あいつは悪い奴だ!』と皆に認めてもらって、私は悪くないのだと胸を張りたかったのだ。

 それが叶って喜んでいるだけなのに、何がいけないのか?そもそも、山本君の人生とは関係の無い話だ。

 お節介焼きも程々にして欲しい。踏み込まれ過ぎるとこっちが辛いのだ。

 駅に着いてふと見ると、スマホに着信があった。……林原だ。

 かけるとすぐに出て、挨拶も無しにいきなり話し始めた。

『新しい小児科の先生、警察に捕まったから薬局が臨時休業になったって連絡が来たんだけど、本当なの?』

「うん。本当」

 家に歩きながら、答える。

 薬局は、臨時休業になったのだ。年明け六日までの休みは確定で、その後は社長から連絡が来る事になっている。

『何で捕まったの?』

「今外なの。そういう話は出来ないから、また後で掛け直すね」

『あ……うん。待ってる』

 林原は素直に電話を切ってくれた。妊婦で不安な所に、産休中の職場関連の事件だ。それは心配で情報を集めたくもなるだろう。

 電話したくない。自分の為にも林原の為にも。

 嘘をねつ造しても長い付き合いの林原には、ばれる。……恐喝未遂の部分を端折って、納得させる自信が無い。

 林原は私が何を隠しているのか、静かに観察し、じわじわと聞き出した過去がある。

 同じ職場の同僚と仲が悪いと、彼氏(現旦那)に薬局を辞めさせられるから、と言う理由で私を分析して、同僚から友人へと陥落させたと言われ、私が自分の過去を話すまでの過程を、

「なつかない猫の餌付けみたいで楽しかった」

 と述べたのは、一生忘れられない思い出だ。

 女の幸せは、結婚、出産、子育てである、を完全否定する姿勢で薬剤師になったから、うっかり彼氏にはまった事を後悔している様子だった。

 そして、そのままうっかり結婚して、うっかり妊娠してしまったと、『うっかり』を繰り返した。

 旦那が、林原を『うっかり』させるのだろう。何度か会った事があるが……変な人だった。林原が何故好きになったのか、さっぱり分からない。

 昆虫の標本を作る人だと聞いている。変な職業の上に、話がマニアックでついていけなかった。

 海外にもしょっちゅう行くそうで、居ない時期も長いみたいだ。……だったら、嫁も暇だから、仕事させてやればいいのに、何故か嫌がっているらしい。

 林原は、飽きたら捨ててやるのに、といつも言っていたが、今も捨てていない。

 人も羨む女の幸せを、地で行く人生を歩んでいる癖に、私のお一人様人生を、心底羨ましがる変わり者。それが林原だ。

 山本君は、ばっさり斬れたが、林原は八年の付き合いの重みがある。容易には斬れない。けれど、こんな話はしたくない。

 今は妊娠中だ。犯罪の話なんて胎教に悪そうだ。けれど私が家に帰って来たら電話をくれると信じて、心待ちにしているだろう。

 罪悪感、心配で、心がちくちくする。

 暫く考えながら歩いていると、クラクションの音がした。そちらを見るとワイルドなイケメンが、小さな青い車に乗っていた。

「加賀美さん、こっち!」

 手招きする手の甲まで毛が生えている。指にも。顔はしょうゆ顔のイケメンなのに、何故こんなに毛深いのか……。

「加賀美さん?」

 ぼーっとしていた私に、椿木は再度声を掛ける。

「あ、すいません。ぼーっとしていました」

 車がすーっと近づいて来て、助手席のドアが開けられた。

「乗ってください」

 問答無用だった。拒否できる雰囲気では無かった。……結局、車に乗った。乗るしか無かった。

 この人、ちょっと強引過ぎない?まさか……。

 連絡を入れたら私が逃げると踏んで、待ち伏せしていたのだと、悟る。……山本君の忌々しそうに私を見る表情の意味が、ようやく分かる。

 ヘラヘラしている場合ですか?まだ終わっていないんですよ?

 そんな声が、聞こえた気がした。……いや、これは私の脳内山本君の声だ。本物はばっさり斬った。

 山本君は正論ばかり吐く嫌な奴だけれど、先までしっかり考えている。これは私の予想外の出来事だ。

「昨日、大丈夫でしたか?」

 探る様な目で私を見ている椿木に、私は暫く考えてから言った。

「警察が話してはいけないって言っているので、滅多な事は言えないんです。お世話になったのに、すいません」

「いえいえ。お気になさらず。……ご予定が無ければ、気晴らしにドライブなんてどうですか?」

 だめだ。時間を置いて定期的に質問するつもりだ。そして、ポロポロと出た答えを張り合わせて情報として形にしてしまうつもりだ。

 怖いのは、聞き出せない部分を、憶測で補って繋げてしまう事だ。

 それは怖い。それは嫌だ。傘で殴られたが、母が私を傘で殴った。になった時の恐怖は、今も心を締め付ける。

 どうしたらいい?どうしたら……。

 だから言ったんですよ!加賀美さん。

 脳内山本君の声が聞こえる。

 うるさい!分かってるよ。今考えるから待ってよ!

 そうだ。林原は、私が何を畏れているのかも、ちゃんと知っている。そして事情を知りたがっている。

 あの変な旦那が家に居たら……まぁ、その時はその時だ。

「私、友達の家に行く予定なんです」

 昨日、家から持ち出した鞄を指さす。

「ちょっと不安なので、泊めてもらう予定なんですよ。送ってもらってもいいですか?」

「そうでしたか……分かりました」

 椿木は、がっかりした様子だったけれど、すぐに頷いた。

 どうせ話すなら電話じゃなくて、直接がいい。

「友達って、どちらにお住まいなんですか?」

 住所は知っているが、最寄り駅で良いと告げて、そこまで送ってもらう事にする。

「どういうご関係ですか?」

 食い下がる椿木に、ちょっと嫌だなと思うけれど、単に逃げたと思われるのも嫌なので告げる。

「産休に入った同僚です。彼女の代わりに山本君は派遣されて来たんです」

「そうだったんですね。今回の事も心配でしょうね」

「そうなんですよ。とりあえず、元気な姿を見せておこうと思いまして……」

 椿木には、新入社員の頃からの付き合いで、長い交友がある事を誇張しておく。林原の家の場所は教えられない。同行させられない。そんな風にきっちり線を引く。

 椿木は、『俺も連れてってよ~』なんて頭の軽い男みたいな事はしないだろうけれど、連絡無しで待ち伏せされた時点で強い警戒心が湧いた。強引だと思っていたけれど、相当のものだ。

 山本君は、今後の段取りを話したかったのだろう。恐喝は無かった事になっている。うかつに話せない。でも椿木は中途半端に知っているから聞きたがると思ったのだろう。私が呑気だからたしなめてくれたのに……怒って台無しにした以上、自分で何とかすべきだ。

「じゃあ、お土産持って行った方がいいですよね?何処かで買いますか?」

 椿木が言い出す。

 ……手ごわい!何て手ごわいんだ。イケメン猿!

 すごく失礼だけれど、しっくり来るあだ名が頭の中に浮かび、妙案が閃いた。

「に、妊婦さんなんで、体重管理もあるから、食べ物は持って来るなって言われているんですよ」

 素敵な言い訳、できました~!

「それじゃあ、仕方ないですね」

 舌打ちしそうな顔を一瞬見た気がする。この人、そんなに昨日の情報が知りたいの?

 昨日は良いお医者さんだと思ったけれど、妙な威圧感がある。

 仕方ないのでそのまま最寄り駅に行ってもらい、さっさと降ろしてもらう事にする。

 駅前は混雑しているので、ロータリーも渋滞していた。私は、そこでそそくさと降りる。

「椿木先生、すいませんでした。また、改めてお礼に伺いますので」

 言い捨てて、即座に扉を閉める。そして、駅ビルに駆け込んだ。イケメン猿の方は振り向かない。車を路駐する訳にもいかないから、追っては来られないだろう。

 トイレに入って大きく息を吐く。

 怖かった。大月も怖かったけど、椿木も怖かった。まだ追ってきたらどうしようと言う恐怖があった。

 少し落ち着いてから、林原に電話をする。

「もしもし?」

『加賀美さん?待ってたよ!話を……ってまだ外に居るの?』

「あのね、色々事情が込み合っていて……電話で話せる気がしなくて来ちゃった」

『駅前?おいでよ!おいで!』

 林原は弾む声でそう告げる。

「いきなりで、ごめんね」

『大丈夫!と言うか、是非来て!もう退屈で、死にそうだったの。テレビもつまらないし、物凄くお腹すくし、病気にもなれないから、駅ビルもうろつけないし』

 妊婦生活は至って順調そうだ。嫌な話をするのは心が痛む。

「あんまりいい話じゃない。旦那さんが嫌がるかも」

『ああ、居ないから平気』

「え?過保護な旦那さん居ないの?」

 林原の失笑が聞こえた。

『臨月までまだあるし、普通、嫁の出産で何週間も休まないでしょう』

「まぁ、そうか」

『今回は仕事断るとかごねてたけど、蹴り出したら海外行ったよ』

 ごねたんだ。蹴りだしたんだ。

「じゃあ、行く」

『ポルソアのシュークリーム買って来て!』

 ああ、食べたかったんだ。

「一個だけね」

『ありがとう!』

 私は、自分の分と二個、シュークリームを買って、林原の家に向かった。

 林原もその旦那も私から見れば、思考的にはぶっ飛んでいて普通からは外れている。でも、ごく普通に暮らしている。

 私は凄く普通に憧れていて、普通を体現しているつもりなのに、全然普通になれない。この差は何なんだろう。

 考えて歩いている内に、林原の家に着いた。

 古い家だ。蔦が壁を這っていて、ひび割れが何かで埋めて直されている。

 古びた門扉には、鉄のプレートに『小川』と油性ペンで書かれている。

 林原の旦那である小川巧が、東京から移住して来て借りた時のままの状態だ。

 林原が手を加えようとしているそうだが、この廃墟の様な家を気に入って買ったとかで、嫌がるらしい。

 業者には、建て替えを勧められているらしい。……当然だと思う。

 開いているスペース(元は庭だったと思われる)には二個並べて、物置が置かれている。この中には、昆虫の標本や、空の標本箱が入っていて、凄い価格で取引されているとか。

 湿度と光に注意して保管しなくてはならないからと、ホームセンターで売られている物とは違う、特殊な物置が置かれている。

 凄く古い家に、立派な物置。結婚前から同棲していて、六年以上、林原はここに住んでいる。

 今時珍しい、ブーっと鳴るブザー式の呼び鈴で、林原が顔を出す。

「いらっしゃい!……加賀美さん、何かやつれたね」

 林原が産休に入ってからの短い間に、本当に色々とあったのだ。

「おじゃまします」

 ここで説明する話ではないので、あがらせてもらう。

 玄関でブーツを脱いで、改めて林原を見て思う。

「何か、一気にお腹大きくなったね」

「うん。産休に入ったら、暇で食べ過ぎた。体重増えて、医者に注意された」

 シュークリーム……渡していいのかな?

 しかし台所兼リビングに辿り着くと、私に向かって林原は手を差し出した。

「お茶、いれて来る」

 食べ物の恨みは恐ろしい。素直に渡してコタツテーブルの椅子に勝手に座る。

 二人用の小さな物だ。小川の定位置に、悪いが座らせてもらう。

 長期休暇に何度か来た事がある。私は実家に帰らない。林原も実家に帰らない。林原は親が離婚しているので、帰る実家が無いのだ。

 だから、誘われてここに来た事が何度もある。小川はこの時期、居たり居なかったりしている。

 居る時は呼ばれない。居ない時は呼ばれる。そんな感じだ。

「カフェイン欲しいんだけど、我慢中なの。加賀美さんだけコーヒー飲んでると、羨ましくなるから一緒にこれ飲んで」

 なんて言いながら、ホットのルイボスティーを出された。奇跡のお茶とか言われていて、健康に良いらしい。

 嫌いでは無いので、頷いてゆっくりと飲む。

 足もお腹の中も温かくなって、落ち着く。

 大きく息を吐いて前を見ると、既に林原のシュークリームが消えていた。……私の分をじっと見ている。

 何でそんなに飢えてるの?妊娠した事が無いので私には分からないが、お腹が空いているらしい。

「二個連続はダメだと思う。おやつに食べて」

 私がそう言って、林原にシュークリームを差し出すと、

「そうする」

 と言って、冷蔵庫にしまいに行った。

 今は午後だ。

 林原は、お昼を済ませている様子だ。私は食べていない。

 本当は、山本君に警察署での話が終わってから一緒に食べようと誘われていた。

 社長と橋本は警察署で一緒だったけれど、食事どころでは無かったのか、すぐにタクシーで去ってしまった。

「加賀美さんは何も心配しないで、いつも通りに年明けに出ておいで」

 そう言って社長は笑ってくれた。けれど、目の下には隈があった。……私個人の問題で恐喝事件になった筈が、規模の大きな、とんでもない事件になってしまったのだ。社長の精神的負担は全く違うものになったのだ。

 今、改めて思うに私が悪かったのだ。

 ……馬鹿な私は浮かれた挙句、山本君の正論に怒って山本君を置き去りにして、椿木に襲撃され、林原に匿われている。

 お腹なんて空いていない。腹には、色々な感情が詰まっていて、食べたいとは思わない。

「では、落ち着いた所でお腹が空いて、ずっと食べたくなる私に食欲の失せる話をしてくれる?」

 林原はそう言いながら、お茶のおかわりをカップに注いでくれた。

「本当に嫌な話だけどいい?子供に悪そうだけど」

「私は、胎内記憶を信じていないの。だから、気にしない」

 林原は、理系思考で現実主義者で無神論者だ。

「林原さんが、ストレスで体調崩したら困るって事。何かあったら、私が小川さんに責められる」

 小川は林原に関する事には、恐ろしく敏感で執念深い。昆虫と林原以外は、滅びていいと思っている。本当に。

「大丈夫。聞くなら、憶測や嘘の混じらない正確な話を一度だけが、一番良い」

 誤魔化すな。と、林原は釘を刺して来た。

「長くなるよ」

「時間はあるから。晩御飯、何でも良いからおごって」

「いいよ。何が食べたい?」

「温かい野菜のある、何か」

「じゃあ……鍋セットを駅前のスーパーで調達してくるから、それを食べようよ。カセットコンロ、ここに出してさ。あれなら火加減いらないし、野菜も取れる」

「それは素敵。シメはうどんがいいな」

「それも買って来る」

 私達は丁寧な料理をほぼしない。正しくは、出来ない。そもそも好きじゃないのだ。

 煮物野菜の皮むきとか、面取りとか、豆腐を崩さない様にとか、そう言うのも嫌いだ。

 そんな訳で夕ご飯とシュークリーム二個では、お礼にならない様な嫌な長い話を聞かせる事になった。

 林原は殆ど口を挟まないで、私が自分のペースで話す事を聞いていた。お茶を飲んだり、お腹を撫でたりしながら。

 トイレが近いからと言って、席を立ったりはしたけれど、冷蔵庫にシュークリームは取りに行かなかった。

「私が抜けた後、そんなに大変だったんだ……そうかぁ」

 一通り話し終えると、林原はしみじみ言った。

「林原さんは、ある意味大月が来る前に産休に入ってくれていて、本当に良かった」

 林原が私絡みで犯罪に巻き込まれたら、小川は黙っていなかっただろう。滅ぼされる。

 滅ぼされなくても、林原は問答無用で薬局を辞めさせられていただろうし、私と連絡を取り合うのも禁止されただろう。

「うん。その派遣の山本君とやらは、頼りになる良い子みたいだね」

 凄く年上なのに一方的に怒ってしまった。今どうしているのだろう?謝っても返事をしてくれないかも知れない。

「正社員になる予定だから、会えると思うよ。……産休明けに復帰できるのなら」

「大月は逮捕されたんでしょ?巧も済んだ事件ならネチネチ言わないと思う。言ったら離婚する」

「そうは言うけれど……今日山本君に怒っちゃった話だけど、服役してもすぐ出て来るって、本当だと思う。だからどうしようか考えてる」

「大月が、出所したらここに戻って来るって事?」

「うん」

 林原は、遠くを見て考える様に言った。

「傘で殴られても許した上に、お金下さいって迫って来るのが怖くて五十万キャッシュで即払いしようとしたんだから、それは……また来るだろうね」

 馬鹿だ。人に指摘されると恥かしくて仕方ない。けれど、あの時は最善だと思ったのだ。

「ここから逃げても、捜して来るんじゃないかなぁ。加賀美さんの苗字って少ないし」

「怖い事、言わないで!」

 私は思わず目を見開いて、叫んでしまった。

「一つ、方法が無いでも無い」

「何?」

「戸籍を変えちゃうの。苗字が変わっちゃえばそう簡単には調べられないと思う。さすがに、あの薬局にそのまま居るのは良くないから、大月のお勤めが終わる前に何とかした方がいいと思う」

「それって、誰かと結婚すれば良いって事?」

「そう。さすがに養子にしてもらうのは、無理がある」

 三十三歳の女が養子……。ちょっと厳しい。考え込んでいると、林原がスマホでネット検索を始めた。

「加賀美さんは恐喝未遂の被害者もどきで、法律の保護とかは一切受けられないみたいだね」

「……知ってる。軽犯罪って判断されたら何もしてもらえない」

 私みたいな特殊な事例に、法律は対応していない。

 軽犯罪でも、辛いのは辛いのだ。けれどそんな事、いちいち聞いてもらえない。大月に殴られた事を蒸し返しても何にもならないと言う事は、何度も調べたから知っている。

「日本の法律って、小悪党に甘いんだね」

 林原はそう言いながら、更に何か調べて眉根を寄せる。

「弁護士……相談しても無駄っぽいね。暴力も、子供同士の頃で、示談済み。つきまといも一日だけ。恐喝は無かった事になっている。これじゃ、わめき散らして終わりだわ」

 どうなるか分からないから言ってみればいいって言う人も居るだろうけれど、結局言っただけ損をする。

 林原が、私を見てしみじみと言う。

「こういう言い回し好きじゃないんだけど、加賀美さんって、不運だわ」

「言われなくても分かってる。どうしてこんな目にって、何度思ったか分からないもの」

 どれだけ抗っても逃げても、突然やって来るのだ。こちらがどうしていようが、関係無しにやって来るのだ。人災だが、天災と変らない。ただ不運だったで、済ますしかない。

 これが……私の人生だ。今までも、これからも。だから結婚なんて考えられない。

「相手を巻き込むから、結婚は除外」

 私がそう言うと、まぁまぁと手を振りながら、林原は言った。

「今回の事件を検挙した警察署の所轄内で、関係者と縁者になるのがいいと思う。掴まった署の近くに、ほいほいやって来る犯罪者も居ないと思うし。万一の場合すぐ動いてくれそうだし」

「……もしかして、山本君を推してるの?」

 私が高校生の頃に、ランドセルを背負っていた少年と結婚とか、犯罪だと思う。

「今日待ち伏せしていた、椿木先生って毛深いお医者さんは絶対にダメ。連絡先を知っていながら、あえて黙って帰宅を待ち伏せしていたんでしょ?私も好きになれない。それは、ほぼ誘拐だ」

 ……誘拐。また危うく人に都合よく動く所だったのだ。

「幸い、私の所を頼ってくれたお陰でこうして助けられた。私は家に居るだけで人助けができて、今機嫌が良い」

 林原は、にんまりと笑った。

「感謝しています。林原さん。いや、小川唯さん」

「いいって。よくよく聞いてみればマツノ薬局は潰れないし、コアラが無くなるならどっかの医者が新しく開業するでしょう。あそこ立地いいし。私の困る話は全く無かったわ」

 林原は立ち上がり、冷蔵庫に向かった。

 中からシュークリームを取り出してきて、ガツガツと食べ始める。

「おいしー。やっぱりおいしー。今の話は、体重制限にならない。残念」

 林原が、私に気遣ってやっている事でないのは長い付き合いで分かっている。素でこういう性格をしているのだ。

「本当に他人事だね」

 恨みがましく見ていると、ぺろりと口をなめて林原は言った。

「友達だけど、他人だよ。だから他人事」

 ……何なんだろう。この乾いた対応は。

「不幸を簡単に背負うのは、そう言う考え方の出来ない、加賀美さんの性格のせいだと思うよ」

「性格?」

「私、自分が悪いなんて、簡単に思わないもん」

「私だって……」

 そこで、林原がじっと私を見た。

「私が妊娠したら、それで産休に入るのを気に病まない様に気を遣ってたでしょ」

「うっ……」

 林原は、人の悪そうな顔をして言った。

「新人の菅原君、どうして辞めたか知っている?」

「合わなかったんだよね?」

「私が、勤務態度が悪いのを責めたからだよ。いじめられたって思っていたみたい」

「勤務態度……悪かった?」

 私が首を傾げると、林原は頷く。

「私の後釜になるのに、あいつ、トイレ休憩、何十分取るのよ!あんなの使えないわ」

 確かに頻繁にトイレに行って、帰って来なくなっていた。神経質そうだったので、過敏性腸症候群とかで、慢性下痢か何かなのだと思っていた。

 私がそう言うと、林原は首を左右に振る。

「そんな訳ないでしょ!今菅原君、何処に居ると思う?ドラッグストアだよ」

「ドラッグストア?」

「隣の駅のドラッグストアへ、期間限定のポテトチップス捜しに行って、夜九時に鉢合わせしたわよ。今は薬剤師じゃなくて登録販売者もどきとして、仕事をしているみたいね。調剤薬局なんて併設されてないわよ!あの店」

「もどきって……」

 登録販売者とは、市販薬の中でも、強い成分の薬を店で販売するのに必要な職業で、薬剤師は全ての薬を扱えるので、薬剤師の資格の一部を仕事にしたような職業だ。

「わざわざ六年大学に行って薬剤師の資格取って置いて……あり得ないわ!」

「登録販売者だって立派な仕事だから、そんな事を言ってはダメだよ」

「仕事に貴賤は無いとは思うけれど、納得いかない」

 気持ちは分からなくもない。大学六年、長かったし勉強漬けだった。もう一度入学しろって言われたら全力で断る。

「将来的に、調剤薬局を置きたいから、菅原君は期待されてお店に居るのかも知れない」

「そうなったら、逃げ出すわね。仕事中にトイレでスマホのゲームアプリやってたんだよ。あの馬鹿!」

「何で知ってるの?」

「三村さんに何度も注意されてたの見たし、お昼休憩中はずっと男子更衣室で、ヘッドホン繋いでスマホでゲームしながら、お母さんの作ったお弁当食べていたらしいわよ。全然話しかけられないし、話せない感じだったんだって。三村さんが躾けてくれって言うから、私はそうしただけよ」

 林原が言う事が本当なら、菅原君は辞めた事になっているが、手に負えなくて自主退職の形を取ったクビだった事になる。

「コンビニのレジアルバイトと変らない事して、元気そうだったわよ。私を見ても、顔色一つ変えないで無視しやがったし」

 店でどの薬が良いか相談されたら、薬剤師が答えなくてはならない筈だが……ポテトチップスをレジでお会計していた菅原君の様子から、何処までやる気なのか林原は疑問に思ったみたいだ。

「加賀美さん、菅原君にいい様に使われてたの、知ってる?」

「へ?」

「荷物運ばせていたけど、いつも一緒に運んでたよね?」

「見てないと、運ばないんだもん」

「私と三村さんと橋本さんは、全部菅原君に運んでって言って、運ばせてたよ」

「そうなの?」

 運んでくれないと仕事が終わらないので、一緒に運ぶ事にしたのだが……。

 見張られてウザがられていると言う認識だったのに、荷物を持ってくれる助手扱いだったとは。

「話が逸れたから、元に戻すけど」

 林原はそう言って、改めて私を見た。

「ある程度は自己責任かも知れないけれど、人の責任まで気付くと被っているその厄介な性格、直せないなら誰かに一緒に居てもらった方がいい」

 改めて言われると、凄く損な性格だと思う。

「直す」

 そうだ。直せばいいんだ。

「どうやって?私みたいに、誰にでも間違ってる事を間違えているって言って、怒ったり、出来る?」

「山本君には……出来た」

「私が話を聞いた限りでは、大月にも椿木先生とやらにも、全然出来ていない。菅原君にもなめられていたし」

 反論出来ない。恐喝未遂、誘拐未遂が続いた事実は、自ら語って聞かせてしまった。

「三十三にもなって、直すとか無理でしょ」

「年齢は関係ないよ。今からでもやり直せる」

 私の言葉に、林原はにやっと笑った。

「前々から思っていたけど、お一人様、向いてないよ?色々とこれからもトラブルに巻き込まれて、老後は貯金を振り込め詐欺で搾り上げられて、生活保護も受けられずに死ぬタイプ」

 何て酷い想像だろう。怒るべきなのだろうが、当たっている気がして反論できなかった。

「ほら、私ならそんな事言われたら絶対に怒るんだけど……怒らないよね」

「怒ってるよ。ただ、自分でもそんな気がするから、文句言う気が失せるだけ」

 林原がため息を吐く。

「大月が暴力振るった悪童本人だって分かった時点で、自分に酷い事した奴なんです。最悪!て、周囲に言いふらして、同情買って追い出せば良かったのよ。別に詳しく話さなくても、それだけで良かったの」

 そうか!そうすれば良かったのか。

「しかも、あ、そうか!って、素直にびっくりするし……」

 慌てて、顔を引き締める。

 出来るだけ、顔に出さない様にしているつもりだが、油断していると顔に出てしまう。……結構、嫌われるのだ。同性に『あざとい』とか『カマトトぶってる』とか言われて。

 林原も最初そう思ったそうだから、わざとらしい顔をしているのだと思う。

「頑張っても、頑張る方向もおかしいから直らない。諦めなよ」

 林原は私が嫌いなのか?ちょっと酷くない?一瞬思うが、答えはノーだ。

 人の事なんてどうでも良いと思っている林原があえてこんな事を言うのは、心配してくれているからだ。

 親しくなった人には優しいけれど、優しさを上手く出せない人なのだ。

「どう頑張ればいいの?」

「黙って耐えるんじゃなくて、私と言い争って勝つ位の気迫を身に着けるの。次は酔っ払いの親父に絡まれても、軽くかわせる女を目指す。その程度は出来ないとお一人様はやってられないと思う」

 想像して机に突っ伏した。

「最初からハードル高いわ」

 林原はケラケラと笑う。

「だから、その山本君と家族になるのはかなり、加賀美さんにはメリットが大きい」

 ……まだ言うか。だから年齢差とか、山本君の気持ちとか、ちっとも考えていない。勿論、私の気持ちだって考えていない。

 話の途中で一方的に怒って置き去りにして来た人に、自分に都合が良いから結婚してくれませんか?なんて言える訳が無いのだ。

 大月に結婚の話をされて拒絶した記憶も生々しい。同じ事をやらせないで欲しい。

「暗くならない内に、鍋セット買いに行って来る」

 私は鞄とコートに手をかけた。

 林原と言い争って勝つのは無理だから、私は一時退却する。鍋を買ってくれば、もうこの話は忘れているだろうから。

「まぁ、大月が警察の手を離れるまで時間はあるから、考えて置いても損はないよ」

 手を振って、林原はコタツテーブルに座ったまま私を見送る。

 昨日雪が降ったから滑りやすいし、人込みに連れて行くのも嫌なので、当然私一人だ。本人も一緒に行く気は無い。

 外に出て、時間確認のついでに、スマホを確認すると不在着信があった。……山本君だ。ついさっき。……マナーモードだったし、全然気づかなかった。

 私は平日休日を問わず、ずっとマナーモードだ。元々友達もそんなに居ないし、仕事中はスマホを見ないから。

 そしてメールを見ると、二件入っていた。

 一件は、山本君の短い謝罪メールだった。

 もう一件は……椿木からの、食事に誘いたいから、暇な日時を教えて欲しいと言うメールだった。

 椿木は、医者じゃなくて新聞記者とかが適職だったのでは?と思う。

 とりあえず無難に、

『ご心配ありがとうございます。しばらくは友人とゆっくり過ごす予定です。良いお年を』

 と返信しておく。年内は絶対に連絡してくるな。と言う、願いを込めたメールだが、剛毛に阻まれて、私の気持ちが届かなかったら怖いなぁ。と思う。

 で、山本君だ。

『言い過ぎました。すいませんでした』

 メールは、椿木に林原の家の最寄り駅まで護送されていた頃に入っていた。

 電話を林原にかけた時に、メール着信のお知らせは出ていた筈なのだが全然見ていなかった。……そして、さっき電話が来ている。

 椿木絡みで連絡が来ているのなら、放置する訳にもいかない。

 私は、駅に向かって歩きながら電話をした。

『もしもし』

 すぐに山本君が出た。

「昼はごめんなさい。私も喜び過ぎたね。今後は気を付けるよ」

 とりあえず、そう言うと、

『……』

 あ、また返事が無い。

 どんだけ、謝罪や感謝が嫌いなんだ!こいつは。自分の謝罪は受け入れろって言うのに、私の謝罪は無視か?あ?

 なんて……チンピラ風に文句を想像しても、言えない自分にがっかりする。六歳も下の子にすら言い返せない。

「で、さっき電話くれたみたいだけど、何?」

 嫌な空気になりたくないので、話題を切り替える。

『陽介がそっちに行ったって聞いたんですが、大丈夫でしたか?』

 椿木本人から、話を聞いたらしい。

 私は丁度小さな公園があったので、ベンチに座って林原の家に逃げ込んだ経緯と、メール返信の話をした。

 山本君が、ほっとした声で告げる。

『あんまり女性にする話じゃないんですが、陽介は加賀美さんを落とす気で居ます』

「これだけ拒絶してるのに?」

『他に相手が居ない限り、追いかけて来る位のガッツはあります。あいつ、嫁が欲しいんですよ。できるだけ早く結婚して子供が欲しいんです』

「うわぁ……怖い」

 そう言うアプローチはされた経験がないので、それしか声が出ない。

『呑気にしていると、食われますよ』

 食われる。これまた、私には縁の無かった言葉だ。知っている意味で間違いなければ、強引に同衾すると言う話だ。

「私、体に傷があるから、脱がせてびっくりだと思う。出来ないんじゃないかなぁ。そう言う事」

 山本君は慌てて言った。

『いや、医者だから痣とか見慣れています。全然気にしないかと。そもそも、あいつも毛深いし』

 傷と体毛を同一視されたら、確かに障害には成り得ない。

「うわぁ……怖い」

 また同じ返しをしてしまう。他に思い浮かばないのだ。

 椿木の手ごわさに、頭が痛くなる。

「今日逃げ込んだ産休の林原さんがね、椿木先生の行動は、誘拐未遂だって言うんだよ」

 山本君は少し沈黙してから言った。

『その通りです。……僕も、今言われて気付きました。拉致されなくて本当に良かったです』

「うん……」

 無事を喜んでくれるだけじゃなくて、剛毛イケメンを何とかして欲しい、と本気で思う。

 とは言え、自分で何とかするしかないな、と思う。

「今日は林原さんの家に泊るから大丈夫。明日以降は、また考えるよ」

 私がそう言ってから暫くして、声がした。

『年内に、僕の方で処理します』

 山本君にとって、椿木は年上の幼馴染だ。大きく出られなくても仕方ない。……ん?

「そんな事言っちゃって、大丈夫なの?」

 大きく出た山本君に驚いていると、

『実は陽介は知らないだけで、僕に凄く大きな借りがあるんです。丁度いいので、返してもらう事にします』

 不穏な言葉に、ちょっと眉根が寄る。

「よく分からないけれど、ご近所で幼馴染なのに、私のせいで関係壊したりしないでね」

 あんなに仲が良さそうだったのに……。何だか居たたまれない。

『大丈夫ですから加賀美さんは、自分の心配をしていて下さい』

「いつも、自分の事だけで精一杯だよ」

 正直にそう言うと、ははっと山本君の笑い声が聞こえた。……声出して笑うんだ。山本君って。

『とにかく心配しないで年末年始をゆっくり過ごして、薬局に戻って来て下さい。陽介の件は片付けておきますから』

「あ……うん」

『では、良いお年を』

「良いお年を」

 通話が終わる。

 凄いな山本君。色々頼りっ放しだけど、いいのかな?ちゃっかり、世話になりっ放しなんだけど。

 けれど、良いお年を。と言っていたから、多分お互いに年内は連絡しないだろう。そして出社するまで、この話はしない気がする。少なくとも、私からはする気が無い。

 山本君の言う通り、まずは自分の事をしっかりと考えたいとも思うし、気持ちを落ち着けたい。ここずっと緊張の連続だったから、そこも緩めておきたい。

 鍋セットとうどんをスーパーで買って帰った。鶏肉入りの水炊きだ。

 今日は冷える。寒さだけでなく、身震いして足早に林原の居る小川家に戻った。

 林原はコンロと鍋をこたつテーブルに用意して、大きなお腹でストレッチをしながら待っていた。食事前の準備運動だそうだ。

 そこからは、職場絡みの話に移行した。

「小児科がまた開業しても、別の先生だと内装も受付も名前も、全部変えちゃうかもね」

「南さんと立花さん、クビなの?」

「さあ。でも、別の先生から丸ごと引き継ぐのは、無理なんじゃないかなぁ」

「そっか……」

 そうやって考えると、かなり大きな出来事だと思う。

「それでも新しくなれば知らぬ存ぜぬで通せるし、これから先を考えるならその方がいいかもね」

 鍋を片づけてから、毎年恒例のお笑い芸人の一番を決めるグランプリ番組を見た。それから、風呂を借り、私は奥の寝室にあった予備の布団を居間に敷いた。

「朝にはシーツ洗濯して、片付けてから帰るよ」

 押し入れからの布団の出し入れは面倒くさいだろうからそう言うと、

「さすがにちょっとは動かないと、出産のときに大変みたいだから、家の中の事は私がやるよ」

「そう?」

「うん。どうせシーツ干すのは寒いし大変だから、乾燥機任せにするつもりだし」

「漏電で火事とか、気を付けてね」

 この家のボロさを考えると、不安になる。

「災難マスターは心配する所が違うね」

 酷い。本気で心配したのに!何?その不名誉なあだ名。

「でも……巧に家の建て替えを納得させるにはいい口実かも。ありがとう」

 私は翌朝、簡単な食事を作って林原と一緒に食べた後、林原の家を後にした。

 やはり、よそ様の家に長居は居心地が悪い。

 そんな訳でお昼に私は自分の巣に帰った。

 事件は、ネットで検索しても出て来なかった。まだ公表しないのだ。

 私にとって事件は終わりだったけれど、警察にとっては事件の始まりの様だった。

 大月が覚せい剤を何処から入手したのか分かっていない未解決事件だと、警察で昨日話をしてくれた刑事は言っていた。そして、薬を使っている様子は無かったかや、大月の経歴など、色々と聞かれたのだ。当然、子供の時しか知らないから素直にそう告げた。

 この周辺に、麻薬の売人が居るかも知れない。それが、刑事の関心事だった。

 捜査にはいつまでかかるか分からないそうで、そっちが捕まった時が、警察にとっての事件終結だそうだ。些細な事でも思い当たる事があったら、情報を提供して欲しいと頼まれた。

 大月は私にとって異常な犯罪者だったけれど、警察から見れば林原の言う通り、小悪党だったみたいだ。そんな小悪党にいい様にされていた私は、何なのか。

「強く、なりたいなぁ」

 護身術でも習おうか?それとも、滝に打たれて修業でもしてみようか?

 林原の『頑張る方向を間違えている』と言う言葉を思い出す。滝に打たれに行ったとか言ったら、腹を抱えて笑われそうだ。……やめよう。

 自分を鍛えるよりも、今後の対処を具体的に考える事にした。

 とにかく知らぬ存ぜぬで、黙っておく事。社長や橋本とは話がまとまっている。当然、山本君も賛成した。

 私もびっくりしました。とか、わざとらしくない様に言わなくてはならない。

 とりあえず会話に関する事をネット検索していて、その内どうでもいい事を調べ始めてから、一つの内容に、はっとした。

「これだ!」

 翌日の午後、私は少し離れた有名な神社で、正座をして奥で燃える、五千円相当の木切れを見ていた。厄払いに行ったのだ。

 三十三歳は女の厄年。これで、全部嫌な事が無くなりますように。本気で思った。

 年が明けてから、混雑の中、もう一度厄除けで五千円使った。

 一週間で二度の厄払い。年度をまたいだので、もう一度ちゃんとやっておかないといけない気分になったのだ。いざ済ませてみると馬鹿みたいだなぁとも思った。……林原の激しい笑いの声が聞こえた気がした。

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