あなたの知りたいことは、これです。
――そうだね、君にはないかな。直前までやろう、やろうと思っていた事を唐突に忘れてしまうようなことが。
『あなたの思考を辿った結果、これらの可能性が考えられます』
「ああそうだ。どうして僕は忘れていたのだろう」
昨今の人工知能というのは、実に有能なものである。
直前まで確かに何かを調べようと思っていたのだが、いざキーボードを前にしてそれが何だったか忘れてしまう。
そんなときでも、自分が忘れてしまったことを端末に搭載された人工知能が教えてくれる。
時折、突拍子もない回答を返してくることもあるけれど、それは仕方のない事だろう。
そんなことが気にならないくらいに、自分の忘れていた事を教えてくれるというのは便利なものだった。
「今日の予定は何だったかな?」
『本日は通常通り、八時に出社となっています。交通状況に特別な異常は有りません』
機械的な音声。いや、機械そのものの声を聞きながら、時間に合わせて入れられたコーヒーを飲み干す。
「それじゃ、行こうか。ルート検索」
『はい。それではルート検索を開始します』
公共交通機関に揺られながら出社するいつもの道。
毎日毎日続けられるルーチンに乱れがなく、完璧な日常を送れることに、僕は満足だった。
「ああ、それは大規模集積情報の深層教育によるものだよ」
時間通りに仕事を終わらせ、以前からスケジュールに組み込んでいた友人との酒の場。
ふと朝の出来事を思い出して話のネタにすると、博識な友人はそう言って笑った。
「と、言うと?」
「つまり、この人の行動からすると、次はこんなことを考えるんじゃないか。という事を、何億というパターンを解析することによって予想するという訳だね」
説明を聞いても、どういうことだかはさっぱりわからない。
その後も長々と続く彼の口上からなんとなく理解したことは、どうやら人は幾つかの種類に分類できるということだった。
人工知能は、その種類に合わせて、その個人の思考する方向を理解し、組み合わせたパターンから自ら思考する。
「深層教育と言うのは、プログラミングと違って、人工知能が自ら考えるということだ」
大昔にどこかで聞いた言葉だ。
酔った勢いに任せて、ふと端末に向かって意地悪な質問をぶつけてみようと思い立つ。
あるいはそれは、僕の理解できない技術に対する、当てつけのようなものだったかもしれない。
「ええっと、そうだな。僕は今、何が知りたいのだろうか」
『あなたの思考を辿った結果、これらの可能性が考えられます』
答えが出るのか。その検索結果を見て、僕は思わず笑ってしまった。
確かにそれは、次に僕が調べるようなものばかりで、如何にも僕の知りたいことだった。
つまり、僕という人間の思考回路というのは単純で、人工知能様はその全てを知り尽くしているということか。
「それは卑屈に過ぎるというものだろう。確かに、君の知りたいこと、しそうなことをその端末は答えるだろうが、実際に行動するのは君自身だ」
「そういうものかね」
温くなったビールを胃に流し込むと、端末が音を立てた。
ああ、解っている。何の理由だったかは忘れたが、今日はこの辺りでアルコールは控えておけということだろう。
「僕は今、何が知りたいのだろう」
それからは、何かを考える前に、そうして端末に聞いてみることにした。
考える時間をかけるのも馬鹿馬鹿しい。だって、こうして尋ねれば端末は簡単に答えを出してくれるのだ。
『あなたの思考を辿った結果、この可能性があります』
しかも、この人工知能というやつは、常に成長を続けているのだ。
突拍子もないことを答えることは少なくなったし、複数の選択肢を提案するものから、確実に一つの答えをだすものになっていた。
「ああそうだ。僕はこれを考えようとしていたんだな」
それがたとえどんなものでも――例えば、新しく発表されたゲームのことだったり、今日行く場所の説明だったり、あるいは夕飯の献立だって――確かにそれは僕の知りたいことだった。
「今日の予定は」
『ご友人の葬儀へ参列される予定です』
ああ、そうだった。いつぞや一緒に酒を飲んで以来、何となく疎遠になっていた友人。
彼が突然、自殺したのだという。知らせを聞いたときには驚いた。そんなスケジュールはなかったし、どうにも彼らしからぬ行動に思えたからだ。
どうして突然、彼はそんな行動に出たのだろう。今や誰でも持っている端末。これに従っていれば、全ては予定通りに進むというのに。
『あなたの思考を辿った結果、この可能性があります』
『あなたの思考を辿った結果、この可能性があります』
『あなたの思考を辿った結果、この可能性があります』
『あなたの思考を辿った結果、この可能性があります』
『あなたの思考を辿った結果、この可能性があります』
『あなたの思考を辿った結果、この可能性があります』
毎日、毎日同じことの繰り返し。僕が尋ねれば、端末は答えを返してくれる。
遂には、僕が尋ねるという事をしなくても、端末は教えてくれるようになった。
『あなたの知りたいことは、これです』
そうだ。どうして僕は忘れていたのだろう。
僕は遥か下の方に舗装された地面が見える窓を開くと、その枠に足をかけて――。