ある屋敷での出来事
その部屋は闇に包まれていた。
カーテンは全て閉め切られ、その隙間から射す僅かな光だけが、ほのかに部屋を照らしている。
静寂に満ちた空間に、ただ誰かの息遣いだけが規則正しく響く。
その吐息の主は、部屋の中心で目を閉じ、ひっそりと座禅を組んでいた。
その顔を覗こうにも、特徴的な赤毛に隠れていてよく見えない。
移ろい行く時間はこの部屋においては虚ろで、永遠を感じさせる程長い時がただただ過ぎ去っていった。
しかし、時が止まったかのようなその部屋の静けさは、突如として破られた。
「出来たっ!出来たぞっ!」
騒々しい叫び声と共に、扉を荒々しく開けて男が飛び込んで来る。扉の隙間から一瞬眩い程の光が射し込み、扉が閉まると同時に再び部屋は闇を取り戻した。
赤毛の男はというと、騒がしい男など気にせずひたすら瞑目している。
反応が無いことに苛立ったのか、飛び込んできた男は荒い息のまま再び声をかけた。
「おい!なんとか言えよ!遂に銀龍を呼び出す目処が立ったんだぞ!」
「…そうか」
赤毛の男は一言呟くと、それきり押し黙る。
「ちっ、反応薄いな。まぁ良い、お前はいつもそんなものだな」
そう言うと、男は着ている白衣のポケットから何かを取り出した。
見れば、それは一枚の羽であった。その羽は美しい銀色で、部屋の暗闇と相まって怪しく輝いている。
「これが例の羽だ。こいつを触媒にして、俺が編み出した術式を起動すれば…」
「なるほど」
白衣の男が興奮したようにまくし立てるが、赤毛の男はそれを遮るように声を発した。
「それで、奴を呼び出してどうするつもりだ」
白衣の男は、自らの話を邪魔された事に再び舌打ちをし、
「はぁ?捕縛するに決まってんだろ。上に黙って色々準備して、それで成果無しっつう訳にもいかねぇからなぁ」
そう返答してケラケラ笑う。
一方赤毛の男は未だ目を閉じたまま、ゆっくりと口を開いた。
「果たしてお前ごときが、あの銀龍を捕らえられるのか?」
赤毛の問いに、白衣の男はヘラヘラ笑いながら答える。
「おいおい、あんまり舐めないでくれよ。確かにアンタには随分と世話になったが、それとこれとは話が別だぜ?」
白衣の男はそう言うとまたケラケラ笑った。しかし、その青い瞳はまるで笑っていない。
ふいに彼はその目を床に向けると、ボソッと呟いた。
「…じゃあ今からやるぜ。退きな」
それは今までとうって変わって、低く重厚な声だった。
赤毛は有無を言わさぬその響きに従い、スクッと立ち上がった。見開いたその赤い瞳には冷徹な光が宿っている。
赤毛の男は壁際まで動くと、そこにもたれ掛かった。白衣の男の行為を見守る算段らしい。
白衣の男は赤毛の男など目にもくれず、床に向かって手をかざしながら淡々と何かを呟いている。
彼の声の一小節一小節に反応するように、床から赤い線が浮き出てきた。それは縫うように広がり、幾何学模様を描いていく。
幾ばくかして線の端と端が重なると、白衣の男は銀の羽をその中心に投げ入れた。
羽はヒラヒラと舞い、やがて音もなく床に落ちた。
その瞬間男が叫ぶ。
「《汝永久の時を生きる龍よ その睡暇から覚め 悠久の力をその身に宿せ》」
男の声に反応して、床の模様が赤く輝き出す。
「《時は満ちた 今こそ出でて その翼を開く時なり》」
輝きを増す模様の中心で銀の羽が激しく光出す。そして光が羽を覆い隠すと、男はたたみかけるように声を上げた。
「《来たれ 来たれ 来たれ 来たれり 来たれり 来たれり 汝の身姿 今ぞ此処に来たれり》来いっ!『リ=デュラン』!!!!!」
男の詠唱が終わった瞬間、眩い程の光が羽を中心に放たれ、その光は部屋中を埋め尽くした。
それと同時に、大気を震わさんばかりの衝撃が生まれる。
その衝撃が少しずつ弱まり、だんだん部屋に暗さが戻ってくると、それが姿を見せた。
美しい金属光沢を放つ、巨大な翼。
見るものを圧倒するほどの体躯。
捕らえたものを二度と逃がさないであろう鋭利な鉤爪。
大地を力強く踏みしめ、とてつもない推進力を生み出すであろう強靭な脚。
そして、全てを見透かしているかのような鋭く青白い瞳。
それは、まごう事なき龍の姿。見る者全てに尊敬と畏怖の念を与える銀色の龍である。
そのあまりに荘厳なオーラに、白衣の男はしばし言葉を失っていた。
そして不意に我に返ると、
「ハハッ。ハハハハハッ!」
突然笑いだす。その瞳は狂気の色に染まっていた。
「見ろよ、ティグリス。銀龍だ。幻の龍が俺らの前に出てきやがったぜ」
一方ティグリスと呼ばれた赤毛の男は、冷めた目で白衣の男を見つめている。
「あぁ。で、お前はこれを捕らえるんだろ?」
「もちろん。ま、勝算はあるよ」
白衣の男はそう言うと、右手をかざし臨戦態勢に入った。
「そうか。なら好きにすれば良い。俺の仕事は、お前の死体を片付けることぐらいだ」
赤毛はそう言うと、背を向けて部屋から出ていった。
それを横目で見ながら、白衣の男は小さく笑みを浮かべる。
「フッ。これで名実共に一人舞台だぜ…。さて、このデカブツをどう調理しようかね…」
そう呟くやいなや、彼は叫んだ。
「《怒り 留め 静まれ》」
その瞬間、白い光線が一筋、銀龍の方へ飛んでいく。
しかしその光線は、銀龍に当たる直前に散消した。
「ちっ、固有結界か。こりゃぁ想像以上に厄介だぜ」
白衣の男はそう愚痴を言いながら、次々と魔術を唱えていく。
矢継ぎ早に放たれる光線は、しかし銀龍に届くことはない。ただいたずらに時間だけが過ぎていく。
一体何度魔法を起動しただろうか。既に白衣の男の息は荒く、肩も激しく上下している。
対して銀龍はその涼しげな眼でただただ男を眺めるだけだ。未だ攻撃するそぶりも見せない。
「ちっ、一方的に消耗させやがって。ドSかよ」
白衣の男はそう軽口を叩くが、先程までの威勢の良さは感じられない。
というのも、彼はただ無計画に攻撃をしていたわけではないのだ。
通常、魔法を遮断するような結界には弱点がある。そこを探し当てれば、銀龍に鎮静化の呪文を当てられると考えたのである。
しかし、どうにも銀龍の結界には弱点部分が見受けられない。少なくとも、男には見つけることが出来なかった。
「まったくもって、最高に面倒くさい野郎だな…。本当は捕獲の為に魔力を温存してぇんだが、龍相手に肉弾戦なんざ下策だしなぁ」
魔法が通らない。懐に入り込む隙も無ければ、仮に入れてもただ蹂躙される。状況は全くもって詰んでいた。
「ったく。ティグリスが居たらもう少し楽だったろうに、あの野郎スタコラサッサと逃げやがって」
思えば、あの赤毛の男は最初から白衣の男に対して懐疑的だった。もしかすると、この展開が読めていたのかもしれない。
なんにせよ、このままでは魔力切れでセルフ自滅してしまう。
しかし、白衣の男の頭には何の打開策は浮かんでこなかった。ただ摩耗していくだけである。
「《穿て雷帝》!《貫け雷迅》!《風撃にて割れよ》!」
次々と繰り出される魔法は、しかしただ弾かれ消えていく。
そんな事をしている内に、とうとう銀龍が動き出した。白衣の男に決め手がないことを理解したのだろう。
銀龍はその首を高く上げると、口を大きく開く。
その口からは青白い炎が生じ始め、それがある程度の大きさになった時、火球として放た。
白衣の男はそれを回転して避けると、大きく叫んだ。
「この時を待っていたぜ!《聖刻よ 白より出でて 銀を制せ》っ!」
彼の詠唱と共に現出した白い光線は、次なる炎を吐き出さんとしていた銀龍の口に吸い込まれていく。
そして。
不意に銀龍は動きを止め、その場で固まった。
その姿を見た男は、安堵の溜め息をつくと哄笑し始める。
「ケケケケケ、やっぱりだ。やはりその口内が弱点だったか」
男はホッとした様な笑みを浮かべると、銀龍の方に向かっていく。
「見たかティグリス!俺が生み出したこの制圧魔法の力を!あの銀龍すらも俺の手の中だぜ!」
そう高笑いする男。一方の銀龍の瞳は光を失い、暗く空虚になってしまった。これは制御されている何よりの証である。
それは余りにもあっさりとした幕切れだった。
先程まで鉄壁の守りを誇っていた銀龍が、ほんの一瞬で無力化された事に拍子抜けしてしまう。
しかし白衣の男は、自らの手で銀龍を捕らえた事に酔いしれているらしい。その違和感にまるで気付かない。
スキップでもするかのような軽い足取りで、男は銀龍へ近付いていく。
「さぁて銀龍くん。君はこれから俺の贄になるんだぜ」
軽口を叩きながら、男が右手を龍の腹へと伸ばした、正にその時。
ヒュッ!
風を切るような音がして、ポトリと何かが落ちる。
「あ?」
男は唖然とした表情で床を見下ろす。そこには腕が一本横たわっていた。
そして、本来男の右手があるはずの所には何もなく、ただ赤い液体が滴り落ちている。
「ああ…あっ、ああああああああああああ!!!」
静かな部屋の中に、ただ男の絶叫だけが響いた。
彼は失った腕の付け根を押さえ、血溜まりの中でその耐え難い痛みにのたうち回る。
痛い、怖い、痛い、怖い。
ただその感情だけがぐるぐるぐるぐると彼の脳内を支配していく。
彼は優秀な魔法使いだ。優秀故に、怪我の痛みや死の恐怖を知らない。
未知なる感情に脳が追い付かず、出血と合わさって男の思考能力を奪っていく。
「ァァッ…がいふっ…回復魔法をッ…カッハ!?」
口から吐き出された血が自らを染めていく。回復しなければと分かっていても、体が動かない…動かせない。
刻々と過ぎ行く時間が、着々と男を死に追いやっていく。
彼は、今まで多くの人間を葬ってきた。何の躊躇もせず、ただひたすら命を刈り取ってきた。
その報いを受ける時が来たのだろうか。
しかし、男がその事実を受け入れることは無いようだった。
「許じ…許じてっ!ゆるじてぐだざい!」
恥も外聞もなく泣き喚き、かすれた声を絞り出して命乞いをする。時おり血を吐きながら、必死に、必死に。
しかし、銀龍はその姿を冷たく睥睨するだけだった。
男の声はだんだん小さくなり、やがて消え失せた。
それを見定めた銀龍は、右手の爪を染めている鮮血をペロリとなめ、その目を見開いた。
すると、血の海の中でこと切れていた赤染めの白衣の男が、突如としていなくなった。そこには多量の血液が残されただけだ。
死体を消し去った後、銀龍は目を閉じる。すると、白い紋様が銀龍の周囲に浮き上がり、激しい明かりを生み出す光の円柱を作り出した。
その円柱に銀龍が完全に隠れると、光は次第に弱まっていき、最後には消え失せた。
その光と共に、銀龍も姿を消したのであった。