モヤモヤ
あまりに突然で、時が止まったと思った。
「翔ちゃん…」
―――翔ちゃんこと垣内翔真。
目の前に現れたこの人は、8年ぶりでもすぐに分かった。
高校の同級生で1番仲が良くて、いつも一緒に居たから。
「もしかして梓…?梓か?」
私は高校を出てすぐ、ストレスで激やせした。
標準よりちょっとお肉多めだったから、
高校の頃を知っている人は別人と言う。
「うん、翔ちゃんは全く変わってないね。
すぐわかったよ」
「梓は美人になったな。
つーかその呼び方、お前だけだもんな。」
「え?そうだっけ」
「みんな翔真っつってんのに、嵐の櫻井くんに似てるからとか言ってさ。」
「だって似てるもん」
「それお前だけだぜ?」
その一言が私を元気にしてくれた。
いつだって翔真の言葉は私に元気をくれる。
だから、あの日翔真が言った事が私を引き裂いて、心を殺した。
なのになのに。
まだ私の心は翔真を覚えていて、翔真の言葉に躍る。
「…ねぇ翔ちゃん」
「なぁ、梓」
同時に話しかけてしまった。
「ごめん、何?」
「梓から言えよ」
「私のは大した事じゃないの」
「…じゃあ俺から言うわ。
何でこんな所でうずくまってたんだ?
ここは人通りも少ねぇし…」
そういえばさっきから誰も通ってない。
「……」
私は黙りを決め込んだ。
さっき起こった出来事がリアルに脳裏に蘇る。
…思い出すだけで吐き気がする。
「言いたくないなら言わなくていいけど…
この道はあんまり通らねぇ方がいいぞ」
「…そういう所もちっとも変わってないね」
翔真は以前から、人の心を読み取るのが天才的に上手い。
欲しいときに欲しい言葉をくれる。
そして今みたいに、察してくれる。
「大丈夫か?顔色悪いけど」
「大丈夫…ありがとう」
「なんか危なっかしいんだよな、梓って。」
そう言って何をするかと思ったら、翔真は私を軽々と抱き上げた。
「ちょっ…恥ずかしいんだけど」
この年でお姫様抱っことか。
顔から火が出るくらい恥ずかしい。
でも同じくらい、大きな優しさに包まれて、温かかった。
「俺んちすぐそこだから休んでけよ」
人通りの少ない道を通りがかったのは、自宅が近くだから、だったんだ。
私はこの強引な優しさに負けてしまった。
「…お邪魔します」
「散らかってるけどどうぞ。エロ本は隠してあるから(笑)」
「いや、聞いてないしっ」
「コーヒーとお茶、どっちがいい?」
「じゃあコーヒー」
「ミルクなし、砂糖1個でいいよな?」
「覚えてたんだ」
私の好み、覚えててくれた。
もうとっくに忘れてると思ってたよ。
「だって俺らずっと一緒だっただろ?」
「そうだね…でも意外だった。
翔ちゃん、東京の大学行ったし、私地元で就職したし…。
ここ、地元からちょっと離れてるでしょ。
こんな場所で翔ちゃんに会うとは思わなかったよ。」
「そういう梓だって。」
私は離婚した後、地元には帰らず、アパートを借りた。
地元からは車で2時間ほどなので、あまり離れてはいない。
「一回出たらもう戻りたくないと思って。
アパート借りて暮らしてる。
お母さんも引っ越して、近所には住んでるけどね。」
「へぇ~俺も似たようなもんだよ。
1人暮らしを4年もやってたら、
人と暮らすのってめんどくさいって思っちゃうんだよな。
だから、俺も。
まあ、ここの方が、今の職場通いやすいし。」
「職場から近いってのは一番だよね…」
今の店は家から車で10分だからいいと思ってたのに。
「そういえばさっき何か言おうとしてたろ?
何だったんだ?」
「あ…うん、もう大丈夫。
聞きたい事は聞けた。」
「そうなのか?へんなの…。
俺さ、もう1つ聞きたいことがあんだけど…」
翔真がそう言いかけた時だった。
急に玄関のドアが開いて女の子が飛び込んできた。
「翔真~っ!遊びに来た…よ」
彼女は私と翔真の姿を見て、かなり驚いたようで、目を見開いて静止した。
「鈴子…」
「その女、誰?」
鈴子、と呼ばれた彼女は私を指差して言った。
すぐに分かった。
翔真の彼女、なんだって。
「こいつは俺の高校時代の友人!
道端で気分悪くしてたから、家で休んでけって連れて来ただけ。」
翔真は必死で彼女に説明している。
「私…帰るね」
私は鞄を引っつかんで翔真のアパートを後にした。
「おいっ!梓!!待てって」
後ろから翔真の声がしたけど、足を止めることなく、私はひたすら走った。
あれから8年も経ってるんだから、当然だよね。
恋人がいても不思議じゃないし、結婚しててもおかしくない年齢だもん。
…なのに、どうして私はこんなに悲しいんだろう。
松永店長にされた事よりもずっとずっと胸が痛い。
期待してたわけじゃない。
期待なんかしないって決めたんだから。
もう恋なんかしないって。
なのに、なのに!!
バカみたいに期待してしまったから。
…こんなに苦しい思いをするくらいなら、翔真に会いたくなんか無かった。
もう2度と会うことも無い。
忘れよう、すべて。
私は私に何度も言い聞かせながら、溢れそうになる涙を堪えて、
スイミングスクールへと向かった。
―――色んな事が一度に起こりすぎて、その日は一睡も出来なかった。
目を瞑ると、次々と忘れたい事が浮かんでくる。
そしてまた目を開ける。
その繰り返しで、いつの間にか夜が明けてきた。
非情にも、いつもどおりの朝がやってきて、また1日が始まる。
ご飯を用意して、唯花を起こし、洗濯して、私自身の用意も始める。
そして唯花を学校へ送り出し、私も出勤する。
…行きたくないけど、私情で穴を開けるのは大人としてあるまじき行為だから。
それに松永店長は今日から1週間、出張でいない。
気が動転しててすっかり忘れてたけど、さっき勤務表を見て思い出した。
おかげで少しだけ気が軽くなった。
それでも、1度辞めたいと思ったら、その気持ちはもう変わらない。
だからやっぱり気が重い。
体は正直で、さっきからずっと胃が痛い。
そんな複雑な感情を抱えて、車から降りた時だった。
(ちなみに、普段は車通勤で、スイミングスクールのある日だけ、私も運動不足解消に歩くようにしている。
店からスイミングスクールまで、徒歩で15分ほど。
スイミングスクールから家までは母の車なので、たいした運動にはならないけど。)
「おい、梓!!」
後ろからいきなり呼ばれて、振り返るとそこに翔真が立っていた。
「なんで…」
もう2度と会わないと思っていたのに。
こんなにも簡単に会うなんて。
神様、ちょっと意地悪しすぎですよって言いたい。
「ほら、これ。昨日部屋に落としてったろ?」
翔真が差し出す手には、私の名札が。
「え、嘘っ」
私は慌てて鞄の中を探す。
けど、入ってるはずの名札はどこにも見当たらない。
…翔真が持ってるんだから当然か。
「…ごめん、わざわざ届けてもらって」
謝りつつ、翔真の手から名札を受け取った。
「お礼するね。缶コーヒーしかないけど」
「そんなのいらないから、アド教えて」
「へ?別にいいけど…」
頭に疑問符を浮かべながら、私は翔真に教えた。
「ありがと、じゃあまた連絡するから!!」
そう叫びながら、翔真は走り去った。
…え、それだけの為に私を待ってたの?
時間大丈夫なのかな?
アドレス教えてなんて…。
一体何なの!?
すっごくもやもやするんですけど!!
思い切り叫びたい衝動に駆られながら、なんとか我慢して、
気持ちを仕事モードにして、店の更衣室に向かった。
昨日の現場もさっきの出来事も誰にも見られてなかったようで、
誰も何も聞いては来なかった。
普通に挨拶して、普通に仕事を始める。
そして何事も無く1日が終わっていった。
―――と、なるはずだったんだけど…。
神様はかなりいたずら好きなようで。
落ち着きを取り戻しかけていた心に、大きな嵐を巻き起こしてくれた。