助け合わない話
朝から小雨が降り続いている。低い山の中なので雨はあまり当たらず、寒いほどでもないので移動に支障はない。ただ、人影はなかった。たった一人を除いて。
栗毛の馬に乗ったひとりの少女が、静かなこの場所を悠々と闊歩していた。
ジャケットとジーパンという姿で、やや反りのある大振りの刀を腰に差した背の高い少女だ。彼女の大きな瞳は可愛らしさを振り撒き、整った顔立ちの中でも特に目立っている。年齢は十代後半から二十代前半に見える。肩甲骨の下まで伸びている黒髪はまとめておらず、顔の近くだけ、視界の邪魔にならないようピンで留められていた。
彼女の後ろには、飼葉、水を入れたボトル、多めに用意している食事などを積んでいる。自身の腰には三つのポーチを下げている。
旅人の名はセーラ。彼女を乗せている栗毛の馬は、カノという名をセーラから頂戴している。だく足で歩く優秀な牝馬だ。だく足とは、左右の前脚と後ろ脚を同時に動かすことで、揺れが少なく馬も長い距離を移動することができる足の動かし方だ。騎手も馬も訓練が必要なのだが、セーラはその手の知識は殆ど無い。
山道は整備されておらず、カノがだく足で歩くことができるお陰で、一人と一頭の疲れが少なく済んでいる。
セーラは手をかざして雨を遮りながら上を見た。太陽は厚い雲に遮られ、時間が分からない。さんざん雨に濡れたせいで重くなった髪を手で絞り、手を服に押し当てて軽く拭った。
「もう少しで集落に出るみたいだよ、カノ。頑張ろう」
セーラはカノの首を撫でて、静かに言った。運よく山賊とも出くわさず、平和に旅をすることができた。下の集落までたどり着いたら、そこで滞在許可を貰って、宿を取って、必要なものを買い足そうと考えていた。
セーラは集落のすぐ上に出て、崖の下を覗いた。そこは山の中を円形にくり抜いたような場所で、山の中と外に向かう細い道がそれぞれ一本ずつ伸びている。
途中の旅人からそう聞いていた。
しかし、そこに集落は無かった。代わりに凄まじい数の人々が身を寄せあっていた。髪の色を見ると、複数の国の人が混じっているらしい。セーラはカノを駆けて、崖をぐるりと回り込むようにして集落のあった場所に向かう。
「腹減った……」
「畜生、ここまでか」
「子供だけでも」
セーラがかつて集落だった場所に近づくにつれ、声はより大きく聞こえてきた。複数の人の声が重なり合い、殆どの声は聞き取れない。一人一人の声はあまり大きくないが、それが数十人数百人となると耳を塞ぎたくなる。その上、声のほとんどは悲痛な感情が乗っていた。
千人はいるだろうか、狭い谷にこれほどの人数が集まると、恐ろしい人口密度になってしまう。実際に、遠目に見てもカノから降りるスペースはないように見えた。
「旅人だ」
「旅人だ」
「女の子一人だぞ」
人の塊の中からそんな声が聞こえてきた。セーラはなるべくゆっくり、彼らに近づく。下馬はせず、近づいてきた男性に声をかけた。男性は雨のせいか、寒そうに震えている。
「ここは? たしか山の向こうではここに集落があると聞きましたが」
「ああ……集落はあったが、つい最近滅びた。今はこの有様だ」
「ここにいる人たちは?」
「南の国境から逃げてきた人が多いな……集落の生き残りもいる」
男は小さな声で言った。そして、顔を上げて「それより」と言い、
「なんか食い物くれ……ちょっとでいい、腹が減って死にそうなんだ……」
「私にも……」
「子供に食べ物を……」
気が付くと、難民たちに囲まれて一歩も踏み出せなくなっていた。カノが怯えるのを宥めながら、空いている手を腰のポーチに当てた。この膨らんだポーチの中には大量のドライフルーツが入っている。セーラの大好物だ。遠くを見ると、綺麗な水の流れる沢が見えた。
セーラは思い切ってドライフルーツのポーチを開けた。
難民たちが群がってくるのを見て、内心で怯えつつも恐怖を押し殺して刀を抜く。今にもポーチに直接手を突っ込もうとした男の手首を掴んで押し戻した。
「な、なぜだ、くれるんじゃないのか」
男は狼狽していた。ぎらぎらと光る眼を直視したら怯んでしまう。セーラは意図的に男から視線を外して、集団の誰とも目を合わさず言った。
「私自身、自分の分しか持っていません。略奪しようとする人は斬ります。子供たちが優先です」
セーラが宣言すると、少しの言い合いをしつつも難民たちは並び始めた。セーラはドライフルーツのポーチと、保存食の入っている袋を開けた。そして、カノから降りる。
最初に保存食を受け取った女性は、涙を流して頭を下げた。すぐに沢に向かって歩き出した。
次に受け取った少女は、セーラの手を取ってキスをした。南方の国で感謝を意味する行動らしい。唇はカサカサに乾いていた。
その次に受け取った中学生くらいの男の子は、丁寧にお辞儀をした。
次の女の子は、たどたどしく頭を下げた。
袋を見る。まだ自分の分を差し引いてもまだ残っているが、全員の分はどう考えてもない。子供の数を数えた。それから、袋を見直す。今のまま配れば、保存食をすべてと相当量のフルーツを失う代わりに子供たち全員には食料を配ることができる。
セーラは表情を変えずに、次の子に食料を手渡した。その子は黙ったまま、小さくお辞儀をした。
並んでいる子供たちが残り二、三人になった時、どこかから「どけぇ!」という少し枯れた声が聞こえた。それとほぼ同時に女の子の悲鳴が聞こえて、複数の人の怒号が聞こえてきた。
セーラが振り返ると、頭を剃り上げたずんぐりした体形の中年の男性が目の前に迫ってきていた。錆の付いたナイフを右手に逆手持ちして、大きく振りかぶっている。狂気の表情で、その目はセーラを見ていなかった。彼が見ていたのは、食料だった。邪魔になるものは排除する、と目で訴えかけていた。
「だ、だめです!」
セーラは咄嗟の反応でその場から飛び下がった。同時に声を出して男を止めようとしたが、彼が止まる様子はない。セーラは、その男と飢え切ったオオカミが重なって見えた。
ずんぐりとした男は唸り声か悲鳴かもわからないような声をあげて、直前までセーラがいた場所にナイフを振り下ろす。そのままの姿勢で、
「よこせ……死にそうだ」
男は絞り出すように言った。ナイフを持ち上げて、ギラギラと光る目で食料を見つめている。
「あ、あれは渡せない」
やや弱気な声だったが、セーラは言い返した。カノを庇うような位置に立った。刀の鯉口を切る。
「もしどうしても奪うと仰るなら……斬ります」
男は糧食から目を離し、セーラが持つ大振りの刀を見た。ナイフを振り上げようとする手が止まり、男の口からうめき声が漏れ出した。セーラはいつでも抜刀できるが、両手が震えている。以前と変わらず、彼女は人を斬ることに対して恐れに近い感情を持っているのだ。
「ナイフを捨ててください」
「食料をよこせ……」
「申し訳ございません、子供たちの分しかありません」
「もう少し出せるだろう」
「私の分です」
「出せるだろう」
「私が飢え死にしてしまいます」
「まだ出せるだろう。助け合う意思はないのか!」
男が怒鳴った。すると、それに同調するようにして大人たちが抗議の声を上げ始めた。それまで、我慢し続けていた大人たちだ。
「そうだ、まだあるだろう」
「そうだそうだ」
「その馬に積んでいるのは食糧だろう」
「その荷物を降ろして開けさせろ」
数人の男女がセーラに詰め寄ってきた。あっという間に刀の間合いに入り、手で掴むことができる距離に詰められてしまう。
「こ、この中にはもうあまり……」
セーラは弱弱しい声で言った。カノの背に乗せている食料は残りが心もとない。自分一人分が辛うじて残っている程度だ。彼女を押し潰すようにしてさらに何人かの大人が押し寄せてくる。セーラは、彼らを抑えることができなくなっていた。
「その袋を開けてみなさい!」
年配の女性が、カノの傍に置いてある袋を指さして金切り声をあげた。その袋の中には水が入っている。セーラがそう言うと、女性は「じゃあこれは!」と腰の大きなポーチを指さした。先ほどまで開けていたドライフルーツのポーチだ。
その次に、ナイフを持った男が保存食の入った袋を指さす。残りの量とまだ食料を受け取っていない子供の数はほぼ同じだ。それを伝えると、血相を変えて詰め寄ってきた。ナイフを振り上げることはなかったが、大人を見殺しにするつもりかと怒鳴った。
セーラは静かに、助けられるだけ助けますと言い、我が身を破滅させるつもりもありませんと付け足した。
「ふざけるな!」
何人かの声が重なって一つの声となった。谷に反響したが、それを聞いている人はいない。ナイフを持った男を先頭に十人ほどがセーラめがけて群がった。もちろん、彼女は襲い掛かってきている人でも難民を斬ることができる性格ではない。あっという間に袋を奪われた。取り返そうとして、年配の女性に突き飛ばされて岩に背中を打ち付ける。カノが嘶いたが、誰も聞いていない。
今度は難民たち、それも大人だけで奪い合いが始まった。殴り合い、力の弱い者がその騒動から弾き出される。
保存食は数人分しかない。それを入れている袋に、既に三十人近い大人が群がっていた。
痛む背中を気にする余裕もなく、セーラは這うようにしてカノの手綱を掴んだ。それに気づいた数人の大人が手を伸ばして腰のポーチを強奪しようとする。
悲鳴じみた声を上げながら、セーラは馬上の人となった。ポーチを手で庇いながら、駆け出した。走りながら、怒号を上げて追いかけてくる大人たちの声を聞かないようにして、人を突き飛ばすことがないようにしながら、山の外へ出る道に向かって駆け抜けた。
暫くの間、整備されていない道を一心不乱に駆けた。前も見ないでカノにしがみついた。
気が付くと雨は止んでいて、セーラは背の低い草むらの中に仰向けで倒れていた。空は雲一つない澄み切った青空で、巨大な虹が鮮明に見える。
上半身を起こすと、背中が傷んだ。顔をしかめつつ、周りを見る。
「カノ、おいで」
愛馬は少し離れたところで草を食べていた。セーラが呼ぶと、すぐに歩いてきた。荷物は背負ったままだ。
カノの背中から荷物を降ろして、好きにさせた。セーラは座り込んで、荷物を背もたれにして地図を広げる。
セーラは地図が得意な方ではないが、彼女の持っている少し大味な書き方をされた地図は、逆に見やすかった。しかし、暫く気を失っていたせいで現在地が全く分からない。諦めて地図を荷物に入れた。
周りはひたすら背の低い草が多い茂っているだけだ。森や建造物はおろか、街道すらも見えない。逆にこれだけ見晴らしがよければ襲われる心配はないだろうと、そう考えて柔らかい草の上に寝転んだ。涼しい風が草むらを揺らし、頬と髪を撫でる。
カノがセーラに近づいて、座った。セーラはその口元に手を添えて呟く。
「ごめんね、カノ。怖い目に遭わせた」
愛馬は小さく首を傾げた。分かっているのか分かっていないのか分からない様子だ。しかし、気にしてはいない様子だ。
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