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無題  作者: 時計塔
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 非、日常的な出来事は人生の中でほんの僅かしか発生しない。しかも、その発生確率と実際に起きた現象を比較してみると、大抵の謎は証明出来ない。その現象は突然としてやってくるわけで、それに対応できるほど、人間という生き物は優秀ではない。こと、命に関わる事件に出くわすことに至って、生命は反射的に防衛活動を開始する。生命にとって、自分のコピーを作るという目的以外は存在しない。生まれてくるということは、分身を作ること。弱い生命は踏み潰され、強い生命は生き残る。この国は、まさに生命の危機にある。だからこそ、人は強い生命を求めた。鉄の体? 図書館並みの知識? 支配者としてのカリスマ性? 

 人類はいまだに、その答えを出せていない。『強さとは?』




 永遠の謎だね、と洸太は答えた。その体には生まれながらにして天才的な格闘技術を会得した者の遺伝子が組み込まれている。生き生きとした素顔、生命力溢れる体躯。青葉の未来は青空しか見えなかった。



「洸太君はどんな人にも負けない強さがあるじゃない」


「確かに、俺は大人でさえ真当に戦えば勝つ自信がある。それがボクシングの世界チャンピオンなら拳で叩きのめす。柔道なら受身を取らせないで気絶させる。空手なら……瓦を持ってきて何枚か割れば認めてもらえるかな?」



 自信のある言葉だ、と星子は思った。事実、洸太は道場の師範である父親を、去年破ったという話だ。当然、道場の師範は洸太になるはずであったが、自分はまだ子供であるということから断ったらしい。


「道場なんて、流行らない。こんな山奥にいつまでも籠っているつもりも、ない」


 あまり両親との仲がいいわけではないらしい。洸太の父親は洸太をよく殴る。それが教育である場面と、おそらくもっと複雑な――――事情が絡まりあった場面とに分かれることを洸太は察していたのだろう。



「俺は、父さんのようになるのはごめんだ。力に溺れ、女に溺れ…………醜い人間そのままじゃないか」



 女に溺れる、という言葉の意味が、なんとなく淫靡に聞こえた。洸太の家にはいろんな女の人が入っていくらしい。母親がたくさん。少し羨ましいと、星子は思った。



「星子ちゃんは不思議な子だと思う。なんていうか……うん、大人びているね」


「そんなことないよ。ただ大人しいだけだよ」



 大人びているのは、そうしなければ生きていけなかったから。それだけのことだった。



「国民学校を卒業したら、どうするの?」


「多分、都会に出て働く。白井家にいつまでもいられないよ。銀子……妹もいるからね」


「偉いんだな、星子ちゃんは」




 偉い。自分は偉いのだろうか、と星子は疑問に思った。この世界には自分よりも大変な人はたくさんいる。ただ、平凡に生きて、平凡に就職して、貧しいながらにも幸せな家庭を築こうとすることは、多分誰もが求める理想ではないか。そのためには、働くことが先決だと判断したのだ。


「俺の家に来ればいい。君の白い手が泥で汚れるなんて耐えられない」


「…………ありがとう。でも、自分の人生は自分で決めなくちゃ。もう、自由なんだから」



 洸太の眼差しに熱い感情がこもっていることに、星子は気が付かなかった。それが、洸太にとって、初めて経験する失恋でもあったのだ。

 洸太はみるみるうちに自分の中にある熱が萎んでゆくことにショックを受けた。初めて星子を見た時から、恋情を抱いていた洸太にとって、何気ない星子の断り文句は深い傷を生んでしまった。



「星子ちゃん、どうしても行くの?」


「うん。私にとって、妹がすべてだから」



 妹が幸せに暮らせるのなら、他のことはどうでもよい。今の生活は少し不憫だ。姉妹二人だけで小さな家に住む。何に気遣うこともなく、ゆっくりとした時間を過ごせたら、もう何も言うことはないのだと洸太に語る。その眼は、あまりにも欲のない色だった。虚ろとも似ている。


 洸太はそんな星子に崇拝すらした。同時に抗えない何かを感じ、その感情を押さえつけるのだった…………。






「星ちゃん、洸太君と何を話していたの?」



 夕方になると可南子はすかさず星子の元へ駆けつけた。お昼休みに洸太と話しているところをずっと見ていたのだ。いきなり現れた可南子に星子は驚いていたが、彼女に対する答えをゆっくりと考えて回答した。



「何もなかったよ」


 そう、何もなかった。そう答えるのが一番であると確信した。理由はわからないが、これでいいと思った。



「星ちゃん、私たち家族だよね?」


 そんなとぼけたような答えを、可南子が許すはずがない。とぼけたように笑う星子に可南子は棘のある言葉をぶつける。大きな期待を含めて……。

 だが、その期待は落胆に変わった。


「家族というのは、いちいち喋る言葉を探すのか?」



 可南子は一瞬だけ、その一瞬だけ、何か別の誰かに問いかけられたような気がした。これまでに言い返すということをしなかった星子が、可南子に疑問を投げつけた。その事実を、可南子は受け入れられなかった。

 まじまじと星子のことを見る。長い、黒髪、整った眉毛、優しそうな瞳。白い肌。何もかもが星子を象徴していた。神ですらこの美しさに嫉妬するだろう。



「どうかしたの、可南子?」


「どうかしたですって? 星ちゃんこそどうしたの? 最近、変だよ……都会に行くってお父様から聞いたよ!」


「……もう、決めたことなの。私たちは自分の力で生きていく。白井家に恩を返すためにも奉公に出なくちゃね」


「私たちは優秀な人間よ? 働くなんて、労働階級の人たちがやればいいじゃない? 一緒の学校に行こう? おしゃれをしようよ? 二人で買い物にも行きたいわ!」


「私……私たちは、労働階級の人間だよ。可南子や、洸太君とは違うの。貧しくても、妹がいれば、私には何もいらないわ……」



 その時、可南子は星子が洸太にも同じことを言ったのだと悟った。安心と同時に言い知れぬ不安を覚えた。

 星ちゃんが、自分から離れていくという非現実的な事実に。


 あなたにいらなくても、私には必要なの! どれだけそう叫びたかっただろう。年齢と共にそういったわがままを我慢しなくていけないという教えを真っ向から否定してやりたかった。こんなにも欲しいと願うのは星子だけなのだ。あなたが妹を愛していると同時に私もあなたを愛している……。なぜわかってくれないのか、と罵ってやりたかった。


 だが、星子の透き通るような真っ直ぐな想いに、勝てるわけもなかった。







 白井家に帰ってくると、再び星子は来た道を引き返すことになった。村の集会所に村長が呼んでいるらしい。菊代から聞いた話では、国民学校の生徒全員を集めて、重大な発表があるのだとか。

 なんにせよ、妹といる時間を削られた星子は少ししょげた気持ちになっていた。雅義とも遭うとなると多少憂鬱にもなった。




 集会所は新しく建てられたコンクリート塗りの頑丈な家だ。木造を愛する日本国に新しい風が吹き込んでいることに喜びを感じる。その喜びは後にすっかり消えてしまうわけだが。

 星子が中の講堂に入ると、疎らに生徒たちが座っている。その隅っこへ静かに腰をかけた。

 周りを見渡していると、見知った顔がちらほら見えた。

 洸太君……少し暗い表情の彼はぼんやりと真正面を見つめていた。

 可南子……おどおどした様子で中に入り、星子を見つけてそちらへ行こうとしたが、ためらい、すぐ傍の椅子に座って顔を下げた。

 雅義君……洸太君は嫌っているが、決して悪い人ではない。たまに掃除を手伝ってくれることもあった。ゴミ箱を持ってくれたりもした。その彼は、真ん中で取り巻きと話している。


 隣のクラスの……赤羽(あかはね)紅羽(くれは)さん。鋭い目つきの綺麗な顔。みんなから恐れられている。正面にどっかりと一人で座っている。

 緑川(みどりかわ)智代(ともよ)さん……厚ぼったいメガネをしきりに動かしている。背筋をまっすぐにて瞳を閉じている。メガネは似合っているとは、お世辞にも言えなかった。星子の真正面に座っていた。




「みんな、集まっているかね? よろしい。今日は大事な話がある。これは、この村始まって以来の大事件であるということをまず知ってほしい。頭のいい君たちならわかるね? うん、そこの……黄桜の、私が話した瞬間から寝たふりをするな。何か言いたことでもあるのかね?」



「では村長さん、今日の主役はあなたではない。その後ろにいるGHQのお役人を前に引きずり出してくれ」


 黄桜(きざくら)(まこと)はふてぶてしいような、人懐こいような笑顔で堂々と言った。星子は話したことがないのでわからなかったが、かなりの問題児らしいということは聞いていた。その評判に似合わず、言葉使いには気品を感じた。態度は……まぁいいとして。


 重い腰を上げて、役人は前に出た。米国人に会うのは始めてだったが、大きな体をしていた。白い肌、と聞いていたが日に焼けて小麦色に仕上がった肌は日本人と変わらなかった。子供たちを見るような穏やかな表情と、瞬時に変わる荘厳な表情の使い方にプロの流儀を感じた。


「簡潔に言おう。黒は誰だ?」



 それは質問だったのだろうか。誰もが彼を見たまま頭にクエスチョンマークを浮かべている。彼は神経質そうに指を講壇へ数回鳴らした後、再び質問する。


「黒は、誰だ?」



 何を言っているのかさっぱりわからないうえに、彼はとても威圧的な声色で子供たちを竦ませている。答えを持たない星子たちは、ただ黙るしかない。

 彼は数回頷いた後、じれて黙っていられなくなった子供を静かに見下ろした。

 それは天使のように美しい微笑みであった。


 そして次の瞬間、全ての世界は変わった。

 非、現実的な世界へようこそ。

 静かな講壇から耳をつんざくような激しいトーンが鳴り響く。子供たちの息を飲むような声がやむと、何もなかったように役人はゆっくりと手を下した。そしてまた繰り返す。


「出てこなければ、永遠に続けるが……いいのかね? 黒の後継者」


 場違いにも流暢な日本語だと星子は思った。ずるりと何かが星子の正面ななめ前から落ちていく。騒がしかった男の子だ。またふざけているのだろうか? 

 いや、一瞬のうちに恐怖が心を支配した。男の子はぴくりとも動かなかった。数秒経った後、講堂は叫び声に支配された。逃げようとする子供の足を、役人は狙った。動けない子供たちを踏みにじり、踏みにじり、踏みにじった。


「劣悪種の子供たちよ。悪魔の子よ。その存在すら許されないはずなのに……生きているだけでありがたいと思え。そこで君たちに相談がある……そこの君、一歩でも動けばチーズの穴になってしまうぞ?」



 洸太は瞬時に周りを把握した。講堂の周りは既に支配されていた。あれは……警察ではない。サブマシンガンを持った兵隊がいつのまにか周りを取り囲んでいた。



「ほう……この場面でよく冷静に観察できるものだ。ジャパニーズの技術は恐ろしいな。おい、納豆を食った息で呼吸するなよ小僧!」


 雅義は獣のように唸りながら役人を睨み付けた。取り巻きは既に息絶えている。彼は一瞬にして全てを奪われた。


 星子は立ち尽くしていた。血まみれの講堂、笑う悪魔。人が死んでいる。

 いつか……いつの日か見た光景だ。頭が痛い。

 早く、妹に会いたい。妹を抱きしめたい。守らなくては。



「ちなみに、君の可愛らしい天使は私が翼を折ってしまったがね――――さぁショータイムだ……!」



 ぼんやりと前を見ていた。


 夢であることを願った。


 星子は銀子と二人で暮らす未来だけを見ていた。


 それを失う日がくるなんて考えもしなかった。



「お姉さま……」


 その声に答えなくては、と声を上げようとするが何も出てこない。まるで自分が何者かに支配されているような。押さえつけられているような気がした。

 可南子が服を引っ剥り逃げようと訴える。こんなに彼女を煩わしいと思ったことはなかった。いや、あった。毎日そうだった。星子は可南子の事が大嫌いだったのだ。



「君の名前はなんていうんだい? 可愛らしい天使よ」


「あなたは死ぬわ……私には不思議な力があるのよ」


 銀子には未来が見える。その未来が、役人の死を宣告した。こんな空気の悪い場所では、銀子の体調は悪化するばかりだ。

 役人は盛大に笑い、笑い転げ、床に投げ出された銀子に唾を吐きつけた。満面の笑みで、銀子を踏みつけた。


「天使君、まったくもって面白い。僕は子供が大好きなんだ。だけど、どうして僕が死ぬなんてわかるんだい?」


「あなたは彼を怒らせるからよ。こんなことをして何になるの? 何を恐れているの?」


「怖いさ、君たちは……我が国を脅かす最悪の遺伝子だ。知らなかったでは済まされないぞ」


「あなたが何を言っているのかわからない。けど、あなたが彼を傷つけるというのなら、私は守らなくてはいけないわ」



 銀子は、星子の方をチラリと見た。その顔には、幼さは感じられなかった。初めて見る、妹の勇敢な姿。王を守る騎士のようだった。

 銀子は真っ直ぐに役人の前に立った。そして大きく、小さな体を広げ、何も怖いものなどありはしないという風に黒々とした大きな瞳で役人を睨んだ。



「なるほど、案外……黒蔵の遺伝子は脆いようだ」


「そう思う? あなたは今、取り返しのつかない岐路に立っていることに気が付かないの?」


 役人の銃口が銀子の額に真っ直ぐに向けられた。イエスの処刑のようだった。

 星子は反射的に体を動かそうとした。が、全く体が言うことを聞かない。生命の危機に瀕すると、人間は防衛活動を開始する。あまりにも、星子は優秀な遺伝子を持っているらしい。

 では、銀子の遺伝子はなぜ命を投げ出そうとするのか?



「では……黒蔵 銀子、汝の罪を裁こう……アーメン」


 役人は敬虔な信者のように十字架を切った。

 何かを銀子は呟いた。お姉さまごめんなさい いつも迷惑をかけてしまってごめんなさい 愛している 生まれ変わってもあなたの妹でありたい どうか、あなたの道がくもりませんように……。

 銀子の体が宙をひらひらと舞う。ようやく、苦しい病から解放された。よかったではないか。ろくに外にも出られない。きっと今度は大きな庭で走り回っているに違いない。

 

よかったではないか。



「愛している……誰よりも」



 やっと、星子は言葉を紡ぐことができたのだった。


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