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星子は浮き足立つ心を宥めつつ夕食の支度を手伝っていた。可南子の母であり、白井家当主、白井定春の妻、菊代はそんな星子の様子を横目で見ながら、鍋の汁物をよそっている。本来なら、家事など手伝わなくて良いと再三にわたって説得したにも関わらずこうやって台所に立つ彼女は実はかなり頑固者なのだ。自分は居候であり、世話になっているのだからやって当然だと、毅然とした態度で菊代と対峙した目の前の少女は慣れた手つきでまな板の根菜を刻んでいた。学生服を脱ぎ、菊代と同じ和服姿で作業を行う彼女の素顔は、今日はどこか楽しそうだ。いつもニコニコと笑みを絶やさない子だとは思っていたが、それは所詮作り物でしかないことは大人であれば簡単に見抜けるものだ。抑圧された、卑屈な笑みだ。
しかし、今日の星子は本当に楽しそうだ。遅れてきたことに関しては咎めるべき点ではあるが、それよりも先に“手伝います”などと言われては台所に立たれては、待ち惚けを喰らっていた自分がまるで家事をしてないように見られてしまう。とりあえず夕食を作るのだと菊代は問題を棚上げにして星子と共に人数分のお椀を用意した。
「おばさま、妹の様子はどうでしょうか」
「大事ありませんよ。今日もいつも通り……ええ、少し庭を散歩したあと本を読んでいたわ」
そうですか、と後ろ向きのまま端的に答えた星子。周りが異常と思えるほど、溺愛している唯一の肉親。だが、星子の妹は病弱で少し外に出るだけで咳き込んでしまう。体は常に微熱を帯び、夜は高熱と激しい心臓の苦しみにうなされて生き続ける少女。星子が狂おしいほどに愛するのも当然だ。妹もまた、その愛を不器用ながら受け止めている。表面上では決して現さないのだが……それがまた微笑ましいのだ。いつ消えるかもしれぬ、命の灯を燃やしながら今を懸命に生きる姉妹たち。少しでも世話をしてやりたいと思うのだが人間の心情というものだろう。もっとも、彼女はそれを望んではいない。姉以外の人間を信用しておらず、菊代が部屋に入って世話をしても、何の感謝を示さず黙っているだけだ。恩知らずもいいところだと吐き捨ててしまいたい。姉妹でここまで性格が似通っていないのも珍しい。可南子にも、星子の妹にも星子の爪の垢を飲ませてやりたいものだと常々菊代は思う。
夕食は相変わらず会話がない。食事中に喋ることは許されていないわけではないが、両親も祖父も饒舌な方ではない。厳格な両親を心底嫌っている可南子には心地の良い食卓だ。かちゃかちゃと僅かに鳴り響く食器の音だけが淡々と続く侘しさの中でも、星子の姿があれば可南子の心は華やぐのだ。
「星子、今度山に潜る時、お前も行くか……?」
「え! おじいさま、良いのですか!?」
「ああ……しかし、変わった娘っ子だなお前も……狩りに興味があるなんぞ」
両親の表情が険しくなるのを可奈子は見逃さなかった。祖父の言葉ではないが、星子は変わった子だと思う。あんな危険な仕事に興味があるなんて。
星子は山が好きなのだ。村に恵みをもたらし、古来より変わらない原始的な空気を纏いながら道なき道を駆け抜ける爽快感。虫たちの鳴り響く森の鬱蒼とした雰囲気。時折現れる野生の獣たち。
まるで、男のように星子は駆け巡る。珍しい植物を見れば祖父を呼ぶ。狩りをする祖父の姿を一心に見つめる。それはまるで、恋焦がれる少女のように。星子は、祖父……白井 正宗が大好きだった。尊敬し、敬愛している。可南子にとっては、恐ろしい男という印象だけだ。陸軍の、大佐にまで昇進した男……兵士を魚雷や戦闘機に乗せて特攻を指示した悪魔。もちろん本命ではなかっただろうが、言い訳にはならない。祖父は、生きるために部下を殺したも同然だった。父も母も、祖父を恐れている。星子だけが、祖父に話しかける。年老いてはいるが、肩幅は広くがっしりとした肉体は、熊のようだ。目は鷹のように鋭い。あの目で睨まれれば子供でなくても竦みあがってしまう。正宗の前では定春は形無しだ。家督を譲ったとはいえその影響は大きい。
定春は可南子を溺愛している。うっとおしいと思われるほどに。疎開したあとも、可南子に不自由がないように努めた。衣服も、食べ物も、住む家も、周りより少し豪華だ。学校に通う同年代の子は大抵貧乏で、身なりも汚い子が多い。皆苦労している。当たり前だ、戦争があったのだから。衣食住足りて礼節を知る。貧乏な子供ほど、礼儀を知らない。礼儀を習う暇があれば、働けということだろう。学校に行くこともできない子もいる。
白井家は、少しだけ裕福だったということだけ。お金があるということは天地を分けるらしい。本当の話だ。お金がある人は高いところに住む。ない人は一番下に住む。下の方は人がごみごみしている。俗に、貧民窟と呼ばれている場所だ。腕のない人、足のない人、目を奪われた人、一人ぼっちの老人、子供、働けない大人たち……あんなになってまで、生きたいと願うものだろうか。後に逃げてきた人たちは一時的にこの場所に住むが、大抵は翌日や数週間後に死ぬ。病気になったり、食い扶持がなくて餓死したり、色々だ。村の人はよそ者に冷たい。暖かくしても意味がないからだ。自分たちのことで手一杯なのだ、皆。それは白井家も同じで、可南子だってそうだ。
「星子さん、今日はいつもより帰りが遅かったようですが」
菊代が思い出したように星子に尋ねた。わざわざみんながいる前で話すことでもあるまいに……可南子は心の中で星子を気の毒に思った。もちろん、星子が何をしていたのか、ということの方が気になるので黙っている。
「それは……少し、お話をしていて……ついつい長引いてしまって」
星子らしくない、と可南子は感じた。何かを隠しているように思われるが、菊代は“そうですか”と一言つぶやいたまま、何も言わなかった。そこまで聞いたなら、詳細を聞いてくれてもいいだろうに。まるで仕事は果たしたとでも言いたげに、黙々と箸を運ぶ母を恨めしげに可南子は睨んだ。
「君らしくないな、星子さん。何か悩み事でもあるんじゃないのかな?」
白井家の当主はメガネを片手で上げつつ星子に問いかけた。痩躯ではあるが、祖母と同格の背丈で細い眼が印象的だ。意識していなくても探るよう目を向けられれば星子とて緊張してしまう。
加えて、定春は星子に対して冷たいところがある。星子を受け入れることを決めた数年前から変わることはない。最終的に祖父の決定で星子は白井家で育てられることになったが、最後まで定春だけは反対した。
「血縁ではないとはいえ、君は白井家の者として認識されているんだ。そのことを忘れているわけではないだろう?」
「はい、旦那様。申し訳ありませんでした。以後、同じ失態は犯しません」
「そうしてくれ。君一人の軽率な行動が、白井家の名を傷つけることだってあるんだから」
再び、夕食は静寂の中で開始された。可奈子は深い溜息を尽きそうになったが、我慢した。白井の名を傷つけないために、だ。定春は未だに過去の栄光に縛られている。そんな父を冷めた目で加奈子を見つめていた。この地位にいるのは、すべて祖父のおかげだというのに。退役した祖父が、人脈という太いパイプを繋ぎ合わせて、貿易会社を築いた。定春はただその会社を引き継いだだけに過ぎない。本当は、先代の残した莫大な財産のみで生きていくこともできた。しかし、戦争が全てを奪ってしまった。正宗は笑いながら語った。楽な生活をするつもりなど毛頭なかった正宗は学校を卒業してすぐ、軍人になった。そして大佐にまで昇進できた。可奈子は時折その風格に恐れてしまうことがあるが、尊敬していた。それは星子も同じだった。
「定春、お前はまだそんなことを言っているのか。由緒正しい白井家なんぞ、とっくの昔にお取り潰しになったぞ。前向いて歩け」
「父さんには分からんのです。僕がどれだけ苦労して会社を経営しているか……従業員の給料を払うのすらやっとなんです」
「だからって子供に当たるな。それに、会社を継がせてくれと頼んだのはお前だ。文句を言われる筋合いはない」
「…………どうせ父さんにはわかりませんよ。なぜ、僕ばかりこんな目に…………」
定春の愚痴はいつものことだった。息子の嫉妬に心底呆れてしまう正宗だが、孫二人がいる手前では怒鳴ることもできない。諦めて黙々と箸を運ぶことに専念した。育て方を誤ったつまりはなかったが、甘やかしていたことは否めない。金があるということはそれだけで心を豊かにする。定春は栄光時代を自由気ままに過ごしたため、軟弱になった。可南子や星子は逆境の中で生き抜く為、強くなろうとしている。皮肉にも、戦争は日本人に強固な精神を育んだらしい。それだけでも、あの戦争をやる意味はあった。そう思わなくてはやっていけないのだ。そう思わなければ…………。
「星ちゃん、今日は勝手に帰ってごめんね」
夕食の後、星子を呼び止めたのは可南子だった。毛先の痛んだショートヘアを弄りながら、目先だけは真っ直ぐに星子を見ている。兼ねてより決めていた謝罪の言葉を言い終えた可南子はまだ許しを得ていないにも関わらず、ほっと一息ついた。どんなことがあっても星子は許してくれるのだと安心しきっている。それは正解だったが、そのあとに出た言葉に可南子は再び沸き起こる感情を押さえつけられなかった。
「気にしてないよ。そういえば、洸太君と友達になったんだ。楽しかったなぁ」
星子は、可南子にさえ見せることのない笑顔で語った。洸太とは確か、青葉の息子であったか。紫龍家の雅義とよく争っているところを見かけたことがあるが、男らしい整った顔立ちをした子である。クラスには洸太に恋慕を抱いている友達もいる。まさか星子もそんな邪な感情を抱いているのではあるまいか。神聖な、淑女である、あの星子が……。
「星ちゃん、洸太君はね、とても偉い家の人なの。だから無闇に話しかけたりしちゃいけないんだよ? 会ったら黙ってお辞儀をしなくちゃいけないの」
それは、庶民の間で取り交わされるしきたりのようなものだった。『青葉、赤羽、黄島』は財閥の中でも兎角を現す存在だ。今でこそ、GHOに財産の放棄と産業の独占を命じられているが、一部ではやはりその力が及んでおりそれが日本を支えている根幹でもある。時が変わっても覇者であることは変わらない。恐るべき権力者の集まり。その息子に、星子は軽口を叩いてしまったらしい。白井家など、彼らに比べたら地面に落ちている野花の一類に過ぎないのだ。摘み取るも、愛でるも自由という意味で…………であるからして、彼らと関わる際にはなるべく音沙汰なく、穏便に、という暗黙のルールがある。むやみに取り入ろうとした輩はことごとく徹底的にしっぺ返しを喰らっている。こと、赤羽は赤信号とでも言わんばかりに立ち止まれの合図だ。以前、赤羽の娘には酷い目に遭わされている可南子にとっては恐怖そのものだった。もっとも、その時に助けてくれたのは星子だった。あの時からだ……星子を意識し始めた日……。
「ごめん……そうだよね。私なんかが、友達なんておこがましいよね」
「このことはお父様に黙っていてあげるから……もう気軽に話しかけてはだめよ?」
先ほどまで絢爛としていた星子の目は、途端に曇ったように薄暗く光る。自分がしでかしてしまった罪の大きさを悔いている罪人のようだ。可南子とてこんなことを言いたかったわけではない。ただ、謝っていつも通り仲良くしたかった。それだけなのに……。
「星ちゃん、私の部屋で遊ぼ? 花札でもしましょ?」
「ごめんね可南子。妹に、本を読んであげる約束なんだ」
星子するりと可南子の前をすり抜けて、遠ざかっていく。その細い手首を掴んで引き留めたい……当然可南子にそんな勇気はない。何人たりとも、あの姉妹の前に立ち入ることは許されないのだ。
その小さな体にいったいどれだけの想いを秘めているのか。凄惨な過去を送ってきたであろう少女の体は、強く、美しかった。
手に入れたい。その思いは日に日に強くなっていくような気がした。可南子はこの数年間を、望んではいけない欲望に纏われながら生きてきた。あの子の一番でいたいという気持ちはどこか恋にも似ていた。だが、可南子は自分の心がそんな下賤な想いであることを認めたくなかった。あの子は今晩も、生意気な妹と過ごすに違いない。なんの魅力も持たない、同じ血を引いているのかと不思議に思うくらい似ていないあの妹と。
可南子はスッキリさせようとしていた気持ちが、余計不愉快な方向へ曲がっていくことに気づき、思い切り舌打ちをするのだった。
およそ、落ち着ける場所はこの部屋以外にはない。星子にとって、妹といる時間以外は全てが作り物であると言い聞かせている。だからこそ、完璧に優雅に立ち振る舞える。例えば、誰かと話す時でさえも笑顔を崩すことはない。喜怒哀楽と呼ばれる感情の全てを偽り、機械仕掛けの人形のように他人に接する。幼くして超越した処世術を身につけた彼女は、時に狡猾でなくてはならなかった。そうしなければ生きてゆくことなどできなかっただろう。
それは……それはおそらくただ、無償の愛。
たった一つ自分に残された宝物を守るために、己が身を捧げた愛。
白井星子は、その日初めて心からの安心感を得た。
「姉さま」
「起きてはだめだよ、銀子。そら、図書室で絵本を借りてきたよ。一緒に読もう」
僅かに赤らんだ頬には微熱があるらしく、喉から出る声は小さくか細い。六年しか生きていない彼女には、常に死の影が彷徨って見えた。それは年老いた老人よりも濃厚に、まとわりついて離さない。不治の病…………その言葉は星子のもっとも嫌いな言葉であった。
姉の到来に喜びを示す妹を優しく諭し、ふたたびベッドへと誘う。図書室で借りてきた本を朗読することが、星子の日課だった。妹に与えてあげられるたった一つの喜びでもあった。
「姉さま、今日はいつもと様子が変よ」
「さっき怒られたばかりなの。帰りの時間が遅くなっちゃって」
「姉さまはどこか抜けているところがあって、わたくし、心配よ」
「こら、姉に向かって生意気よ? そんなことばかりいう子には幸せはやってきません」
「それは大変ね! 学校に行けないなんて、一生姉さまに面倒をみてもらわなくてはいけないもの。私はそれでもいいけど」
「口ばかりは達者なんだから! そら、もう終わりよ」
銀子は快活で陽気だ。それこそが何よりも病気の進行を遅らせているのである。星子に似て聡明でもある。彼女たちの頭脳レベルは二〇歳前後と比べても相違いない。もちろん子供らしい面を見せることもある。あくまでも、頭脳の話だ。
「姉さま、わたくし良くなるかな?」
「当たり前よ。どうしたの?」
「何かね、良くないことが起こる気がするの。姉さまが、姉さまがなくなっちゃう。それを防ぐのはわたくししかいないのよ」
「馬鹿ね。ずっと一緒よ。姉妹じゃない」
むずがる妹を優しく諭しながら、同じ布団で横になる。だが、内心はあまり穏やかではなかった。銀子には不思議な力があるのだ。それは、姉妹だけの秘密。秘めたる才能だ。
「姉さま、手を繋いで」
今日はいつにも増して甘え上手な妹に苦笑しながら答える星子。その小さな手は驚く程熱く、しっとりとしていた。こんなに成長したのかと驚く。あれは、そう…………一面焼け野原と化した漆黒の大地。生きとし生きる者全てに対する冒涜とも呼ぶべき災厄…………。
仕方のないことだ(本当に?)戦争なのだから(だが問題は別にある)今が幸せならそれでいい(妹は苦しんでいる)不満なんて何もない(あるとすれば、あの頭でっかちの養父か)
何を考えているのだろうか、星子は自問自答する。精神的に参っているのかもしれない。日常は平和で大変すばらしいことだ。戦闘機の音を聞かなくていいのは心を穏やかにしてくれる。蛙の声とコオロギの合唱には辟易してしまうが、これはこれで、まぁ悪くない。
それでも……こんな穏やかな夜になると、ふと考えてしまう。
私は一体、何者なのかと。