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無題  作者: 時計塔
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 諸君らは大日本を担う新たなる光として米英、露西亜、英国にも勝る優秀な遺伝子を持っている。我が大日本は諸君らの卓越した頭脳と潜在能力の発展に努め、お国の為に活躍してくれる日を切に願う。


 ありがたくも皇から訓示を賜った小学生たちは黙祷し、先生の言葉を深く噛み締めた。我々大日本帝国が戦争に負けたと聞かされたのはおよそ半年前であった。列強の者たちがまず行った政策は”財閥の解体”である。この国を実質支配していた金の亡者たちへの制裁は、悪しき権力からの開放を意味していた。財閥が解体されたことで、独占されていた分野での更なる発展が期待されることとなった。商業とは、競い合うことでより質のよい商品を生み出すことができる。考えてみれば当たり前のことだ。だが、本当の理由は、より大きな力を持つ者たちの権力をそぎ落とすことが目的だった。例によって、多くの財閥が容赦なく処断され、栄華を誇った時代は幻のように水泡と消えた…………とは表の話だ。

 実際には、多くの財閥が列強に魂を売り渡すことで難を逃れている。いや、多くの財閥にとって実に都合の良い政策であったのだ。あの一族を滅ぼすためには…………。

 この学校は、ある財団による出資を受け、設立した“優性学”に基づいた選ばれし子供たちの集う学び舎だ。

 優性学とは、優秀な遺伝子は優秀な者たちにより生み出されるという偏った考え方から生まれたナチスを初めとする一時期大衆を騒がせた悪しき風習だ。もちろん、それだけの理由で優秀という勲章を与えているわけではない。遺伝子は、環境により変化する。同じく、子供たちも学習のやり方により良くも悪くもなる。子供の頃、神童と呼ばれた者が、大人になって平凡な能力しか発揮できなくなることは往々にしてある。生命とは、その環境に適した進化を遂げる。よりよい環境で学習する子供たちは、総じて高い能力を示す傾向があるのだ。

 四方を山に囲まれた村。外部からの悪影響はない。教師たちは子供の教育に命を燃やす。全ては、大日本の未来のためである。臥薪嘗胆が、子供たちの合言葉だ。

 “星ちゃんは凄いね”と周りが囃し立てる声がクラス中に響き渡る。休憩時間を狙ってクラスの女子たちが先日やらされたテストのプリント用紙を持って集まってくる。星子は慌てて自分の用紙を机の中へくしゃくしゃに丸めて突っ込んだ。目立つことや人前に出ることは好きではない。先生から手渡された用紙をすぐに隠しながら持ってきたはずなのになぜばれているのだろうか? 百点なんだって? やっぱり天才だよ! 羨ましい! 

 別に褒められることが嫌いなわけではないが、複数の人に囲まれて話しかけられては混乱してしまう。可南子はそんな星子を見ているのが大好きだった。戸惑いながら、おどおどと辺りを見渡して、最後は可南子へと縋るような目で見る。可南子はそれがわかっていて敢えて知らないふりをしているのだ。アイドルや女優のような扱いを受ける星子が自分を頼ってくれるという優越感は可南子にとってはこの上ないご馳走なのだ。

 “みんな、星ちゃんが困っているから……”可南子の言葉により渋々といった表情で散会していくクラスメイトたちを星子は困ったような笑顔を浮かべながら見送った。

 “可南子、ごめんね”“いいんだよ、星ちゃん”可南子は申し訳なさそうに謝る星子を慰めた。決して悪くなどない。可南子にとって星子を助けることは勲章のようなものだった。いつも自分の一歩先を行き、本当に困っている子には手を差し伸べる。見返りを求めず、誰かが傷つくのを恐れる。そんな聖人のような星子の傍にいることが、何よりも誇りだった。

 “可南子がいてくれて助かるよ”スカートの裾をギュッと握りながら美麗な顔を崩して笑う星子は、本当に素敵だった。花も恥じらうという言葉があるが、きっと枯れてしまうかもしれない。正直、男共が星子を面白半分でいじめる意味がなんとなくわかる気がした。誰もが星子のことを慕っているのだ。そう思うと同時に、可南子の中で暗い感情がむくむくと沸き起こり慌てて首を振った。

 私の星ちゃん。私だけの星ちゃん。

 けれど、星ちゃんは皆の星ちゃん。皆が星ちゃんのことが大好き。

 でも、と可南子は奥歯を強く噛みしめる。星子が誰かと話している。楽しそうにしている。それは、可南子に限ったことではない。星子は誰に対しても、特別な感情を向けることはない。可南子がどんなに想いを寄せていても、気づくことはない。“あの子”さえいなければ。

 星子にとって、あの子が全てであり、あの子しか星子の心を動かすことはできない。

 きっと今この時も、星子は“あの子”のことを考えているに違いない。おそらく、唯一気の許すことができる存在であり、唯一の肉親である、あの子だけが。“そう、星子ちゃんは妹さんがいらっしゃるのね”ああまたか、と可南子はため息をついた。星子はその時ばかりは、目を光らせて熱心に語る。“わがままで、手のかかる子だけど”その通りだ。星子の手を焼かせ、時間を独占して、とても卑怯で狡猾な女。“病気で学校にもいけないから”ああそうだ何もできない。文句ばかり言って星子を困らせて、病気で迷惑をかけて、何様のつまりなのだろうか。

 “大切なんだ”生き生きとした声で星子は語った。嘘偽りのない本物の……愛しさの籠った瞳で締めくくった。肉親をそこまで言い切るなんて恥ずかしいとは思わないのだろうか。可南子には兄妹がいないため、わからないが、おそらく好きにはなれないだろう。自分と同じ遺伝子を持ったこんな醜く歪んだ人間など……しかし、可南子は星子の妹を美しいとは思わなかった。どこにでもいる……確かに見た目は幼いながらも将来美人に育つであろう顔立ちをしているが、星子と比べたら見劣りしてしまう。平々凡々といったところだろう。そんな平々凡々なあの子が星子を独占している事実が可南子には許せなかった。肉親であるというだけで、ただ、それだけの関係で……私の方がもっと星子のことを知っている。可南子は星子を本当の姉妹のように想っている。いや、恋人? それともあの悪辣な母親の代わりとして? 分からない。とにかく今わかっているのは、深い嫉妬心に支配されているということだけ。

 “私の全てだから”清々しいほど、真っ直ぐな言葉。可南子は卑屈な笑みを浮かべてごまかした。ランドセルを握ると一人、颯爽と帰る仕度を済ませ教室から出ていく。星子はその姿に慌てるが知ったことかと可南子は早足で出口のドアを開けた。こんな姿を星ちゃんに見られたくない。今、星ちゃんの傍にいたらきっと傷つけてしまう。剥き出しの感情を叩きつけてしまう。きっと星ちゃんは困った笑顔で謝るだろう。それだけは、してほしくない。星子があの笑みを浮かべる時は決まって辛い時だ。初めて、星子がこの家に来た時、初めて喧嘩した時、初めて一緒の部屋で寝た時、初めてスカートを着て外に出た日……星子が来てから三年経った……未だに星子の輝きは失うことはないむしろ増すばかり。

 私を置いていかないで、星ちゃん。その言葉とは裏腹に、可南子が星子を遠ざけてしまう。追いかけて欲しいという矛盾した心情は、星子に届くことはなく後に残ったのは虚しさと夕暮れに染まった長い帰路だけ。激しく後悔したがいつものことだ。星子が帰ってきたら謝ればいい。そんな最低な考えが浮かぶ自分が可奈子は大嫌いだった。









 星子はふっと溜息をついた。己の愚かしさには常々参ってしまう。もちろん可南子を怒らせてしまったことについてだ。同居人である可南子は、妹のことをあまり好ましく思っていないことは知っていた。今日は可南子がいるにも関わらず、クラスメイトの前で妹の自慢話を披露してしまった。きっとそれが原因なのだろう。可南子と微妙な関係になる時は、だいたいが妹のことなのだ。星子にとっては目に入れても痛くないほど可愛い妹なのだが、可南子とは何故か波長が合わないらしい。出会った初日に、妹は星子の体を盾にして可南子の握手を拒んだことがきっかけかもしれない。それにしたって可南子も年下相手にあそこまでムキになる必要もないはずだが……可南子は自分が妹の寝室にいることが気に入らないらしい。たまに添寝を強請ることもあるが、最初の一晩だけであとは丁寧にお断りした。それが可南子の為でもあったからだ。いろんな意味での話だが。

 憂鬱な物思いに耽っていると教室はあっという間に帰宅の鐘を鳴らした。門限などないが、早く家へ帰って家主の手伝いをしなくてはならない。決してやらなくてはいけないというわけではないが、拾ってもらった御恩を返すためには白井家に忠誠を誓わなくてはならない。今、星子ができる精一杯のお返しだ。いつか立派になって優しい養父母に豊かな暮らしをさせてあげることが星子の夢。男尊女卑の時代に、女が職に就くことは難しいかもしれないが、自分が大人になることには多少は増しになっていると信じたい。少なくとも、財閥解体というのはその為の道しるべであったと思う。

 数人の足音が聞こえた……かと思った瞬間に背負っていたランドセルが強い力によって背中から離れ、その衝撃によって星子は転倒してしまった。大した衝撃ではなかったため、状況把握に努める。恐る恐る片目を開くと、そこには坊主頭のガキ大将である()(りゅう)家の跡取り息子雅義(まさよし)が仁王立ちで待ち構えていた。雅義は数人の取り巻きたちを連れて不敵な笑みを浮かべている。明らかに好意的な態度ではないことはわかった。震える体を必死で押さえつけて星子は雅義に立ち向かう。

「か、返して…………私のランドセル!」

「正義の味方なら、自分で取り返してみろや。この前の仕返しじゃ!」


 雅義は意地の悪そうな顔で星子を睨み付けた。ひっと声が出そうになったが何とか喉で止めた。こういう手合いは調子に乗らせると思うツボなのだ。先の経験を分析してわかったことだ。実は何度か雅義と衝突している星子なのだが、具体的な迎撃案はいまだに提案できずにいた。取り返そうにも、相手は小学生とは思えないほどの体躯を持つ雅義だ。いったい、どれだけ食べればそこまでデカくなれるのか……実はちょっと羨ましかったりする星子だった。接近戦ではまず不利、しかも相手は数人となると不可能に近い。雅義一人とて勝てるかわからない。そもそも、取っ組み合いなどできるはずがない。自分が下手に問題を起こせば、養父母に迷惑が掛かるのだ。それはつまり先生を呼ぶという最終手段も最初から存在しないということ。どれだけ自分に非がないとはいえ、手を煩わせてしまうという行為は、星子にとって好ましくない。戦争孤児である星子にとって居場所を失うかもしれない要素は、何よりも恐ろしいのだ。自分だけの問題ならまだマシだ。守るべき妹だっている。もちろん養父母がその程度で我々姉妹を見捨てることなどありはしないが、所詮は一方的に依存する関係なのだ。出て行けと言われればそれまで。そこから先は、考えたくもない。

 ならば、黙っているしかない。雅義は怖い相手だが決して暴力を振るったことはない。女子供には暴力を振るわないのがぽりしー? なんだとか。西洋に浸食されつつある典型的な日本人だ。戦時下ならば流言卑語、非国民と軍人に殴れられているところだ。そんな国賊の雅義だが根は優しいため、からかうだけに収まる。要は耐えていればいいだけの話だ。そう決めて星子は冷静に雅義と対峙して時間を稼ぐことにした。

「どうした星子? かかってこいよ、ほら」

「そんなことしない……どうしていつも私に意地悪するの雅義君?」

「うるせぇ! お前のせいで先生から大量の宿題もらっちまったんだ! 見ろ!」


 雅義は自分のランドセルから原稿用紙らしき紙をこんもりと出してきた。二十枚くらいはあるのだろうか。おそらく反省文を書かせるために先生が手渡したのだろう。雅義は悪ガキとして有名なためしょっちゅう先生から拳骨を食らう。もちろん自業自得なわけだが、その原因の一端を担っている星子は雅義の標的にされたのだ。今日はどんな悪さをしでかしたのか、多少の興味はあったがもちろんそれを口に出すことはしない。自由奔放な雅義が羨ましいと思ってしまうことも口にしない。

 捕まってしまったのが運の尽きなのだろう。“ごめんなさい”と謝ったが“言葉じゃなくて拳で語れ”とこめかみに血管を浮かべ叫ばれた。太くて逞しい声だ。日本男子に相応しい精神を持ち合わせているが、本人は西洋文化に興味があるので少し残念。あんなことを言っているが、自分が手を上げても手加減してくれるのだろう。雅義が女子を怪我させたという話は聞いたことがない。男として最低だが、最悪ではないというのが女の子たちからの評価らしい。黙っていればそれなりにいい男なのに、実に残念である。

 “雅義、早くやっちまえよ”“今日は見せてもらうぜ、雅義のカッコいいとこ!”取り巻きが囃し立てるにつれて、雅義は額に汗を滲ませている。おそらく星子が激情して掴みかかってくるところを華麗に征してやるところを見せたかったのだろう。予想外に星子が冷静なので戸惑っているに違いない。今まで星子がこの程度で怒ったことなどなかったのに、浅はかである。男という生き物は、何歳になっても力を示したがる生き物なのだ。

「雅義君、私がやられたら……ランドセル返してくれる?」


 突然の星子の案に驚きを隠せない雅義。雅義はいつも先生たちに説教を食らっているので、子分たちから白い目で見られていたのだろう。名誉挽回のためいつも邪魔をしてくる星子を倒せば士気も上がると判断した。雅義のプライドを傷つけないように提案したのだが、どうやら雅義を本気で怒らせてしまったらしい。敵に塩を送るという行為は、つまり自分が有利に立っているということを示しているようなものだ。雅義は星子に軽んじられていると思っている。もちろん違う。星子は養父母に買ってもらったランドセルを返してもらいたいだけだ。傷でもつけてしまったらきっと悲しむに違いないと思っただけだ。

 雅義の体躯が震えている。女に軽んじられるということは大将として致命的なのだ。握っていた星子のランドセルを更に握りしめ、怒りの眼を向ける。思わず尻込みしてしまうほどの迫力だった。熊に遭遇したらこんな感じなのだろうか。爺様(白井家の祖父)は銃の名手で寡黙な人だが、こんなやり取りをしていたのだろうか。


「俺に恥をかかせたな……星子!」


 “あっ”と思ったのも束の間、雅義は星子のランドセルを思い切り地面に叩きつけこちらへ拳を振り上げてくる。星子は大事なランドセルが傷つけられたことにショックを受け、へなりとその場に尻もちをついた。まるでスローモーションのように星子の頭上を雅義の拳が通過する。もちろん手加減はしてあるが、無防備な星子の頭にはかなりのダメージが与えられるだろう。防御するだろうと判断した雅義の判断は外れ、勢い余った巨漢は拳を下げることもできず無慈悲に星子を狙わざるを得ない。


「雅義、いいかげんにしろ」


 星子への一撃は、目の前の少年により遮られた。その風貌はどこか達観したような、周りの子供たちよりも知性の煌きを持った瞳をしていた。しかし少年の瞳はどこまで暗く沈んでいる。その眼光が一回りも大きい雅義を睨み付ける。そう、少年は明らかに体格差のある雅義の一撃を、片手で受けとめたのだ。

 雅義は最初何が起きたのかわからなかったが、やがて危害を加えずに済んだことを安堵した。だが次の瞬間、目の前にいる少年が何者なのか知り、再び激高した。


「青葉……青葉(あおば)(こう)(すけ)! お前も俺の邪魔をするのか!」

「別にそんなつもりはない。ただ、無防備な女子を痛めつけるのは、お前のぽりしーに反するんじゃないのか」


 うっと雅義は図星をつつかれ、言葉をなくした。事実、さっきは星子に危害を加えなくてほっとしていた。うっかり頭に血が上ってしまったことを激しく後悔した。洸介がいなければ大事件に発展していたところだ。いつも紫龍の男児として恥ずかしくない行動をしろと両親から諌められている雅義には致命的だ。

 硬直した状態がしばらく続いたが、やがて雅義の取り巻きたちが飽きてそれぞれ解散することになった。白けたような雰囲気の中、口々に雅義の男気に疑問の声が上がる。そのたびに、雅義は悔しそうに拳を握りしめた。

 洸介は雅義と対峙したまま、チラリと星子の方に視線を向けた。いつみても綺麗な女だと思った。クラスメイトではあるが、普段は女子に囲まれていてなかなか近づけない深窓のお嬢様が、今日に限って雅義に絡まれていた。なんだか放心状態のようだが、まずは雅義を片付けてからだと判断する。


「今日はもう下がれ、雅義。これ以上暴れれば先生にチクるぞ」

「洸介……お前ともいずれきっちり決着をつけるからな……」


 捨て台詞にしてはなかなか似合っていた雅義だが、放心状態の星子を見ると複雑そうな表情になり、そのまま逃げるように校内を去っていった。

 嵐のような時間が過ぎ去ったあと、ゆっくりと洸介は赤いランドセルの前に立ちそれを掴む。見たところ特に目立った傷はない。適当に使っていればこの年代ならボロボロになってもおかしくないはずだ。だが、それは新品同然のように綺麗だった。持ち主が大切に使っている証拠だ。

 “ほら”とぶっきらぼうに手渡された自分のランドセルに触れて、ようやく我に返った星子は必死でそれにしがみつく。宝物のようにそれを抱きしめる星子は初めてプレゼントをもらった少女のようだった。


「ありがとう……」

「いや、別に……たまたま通りかかっただけだし」



 作り笑いであることは間違いなかったが、星子の笑みはあまりにも強力だった。大人びた印象と少女のように笑う口元、夕日に照らされた長い黒髪。げらげらと笑う同年代とは比較にならないほどの上品さを持つ星子の笑みは少年の心を真っ直ぐに貫く。

 なるほど、と洸介は赤くなる自分の頬を隠しながら納得した。雅義がなぜ星子をいじめるのか、わかる気がした。あの人形のような瞳から、涙が出る瞬間は、確かに見てみたい。そんな嗜虐的な趣味は洸介にはないが、それでも興味をそそられる。しばらく星子の笑みに呆けていた洸介だったが、妙に居心地が悪くなり背中が痒くなった。

「洸介君……でいいのかな?」

「ああ、青葉洸介……お前は星子だろ? 白井星子」


 青葉、と聞くとあの大きなお家の? と返してきた星子に曖昧な表現であるが確かに当たっているので軽く頷いた。洸介の家がでかいことは確かだ。ただし、あの近辺はでかい家がたくさんあるので抽象的すぎる。それに、星子が自分をその程度にしか認識していないことに落胆した。反対に、星子は洸介が自分を知っていることに驚いた。自分は地味だし、活発ではないし、よく男の子に苛められる。きっと悪い噂でもたっているに違いないと、これまた落胆した。


「俺、一応クラスメイトなんだけど」

「ご、ごめんね……男の子の名前、まだ全然覚えてなくて」


 もちろん雅義の名前は最初に覚えた。初日からちょっかいをかけてきたために覚えざるを得なかったのだ。ちなみにクラスメイトで初めて覚えた名前を雅義だ。とてもいい出会いとは言い難かったが。

 男の子と接触する機会はたくさんあった。共学であるため、様々な行事で男女共に行うことが多い。だが、なぜか星子は男子から避けられてしまう。根暗で背が高いので気に入らないのだろう。それを知った星子は、以後あまり男子と関わらないようにしていた。そのため、こんな風に直接男の子と話すのは初めてかもしれない。そう思うとなんだかドキドキしてきた。

 洸介は頭を掻きながら、この居心地の悪さを何とかしたと願う。時刻はもう下校時間をとっくに過ぎている。時間に厳しい青葉の家としてはこれ以上この場で時間をつぶすことは許されない。洸介は勇気を振り絞り、言葉を紡いだ。


「と、とりあえず、か、帰るか……?」


 いや、それ以外に選択肢はないけれど、と心の中で己に悪態をつきながら純粋な瞳を向ける目の前の美少女を誘ってみた。きょとんとしたように首を傾げる星子だったが、やがて自分を誘っているのだと気が付くと“はい!”と元気な声で返事をした。先生がいたらきっと褒めてくれるに違いないと洸介は苦笑する。

 初めて話したにも関わらず、星子は洸介の隣にずっとニコニコと談笑していた。洸介としては願ってもないことだが、少し気恥ずかしい思いだ。同年代の、しかもクラスでも有名な白井星子が自分の隣で笑っている。夢ではなかろうかと頬を抓ってみたいがそんな奇行を星子の前ではできない。話してみると、星子とはとても気が合った。銃の話や戦闘機の話、または今年の運動会の組み分けなど実に洸介が好きそうな話題を振ってくれるのだ。もしかして気を使っているのでは? と訝しんだが楽しそうに次々と言葉が出てくるので相槌をうつので精いっぱいだった。女という生き物は、花が好きで読書をしてお茶を嗜むものだという偏見を抱いていた洸介には新鮮だった。母や妹はまさに典型的な洸介の女性像に当てはまるためこういった女もいるのだと終始関心していた。


「じゃあね、洸介君! また明日!」

「ああ、また明日……」



 元気よくさよならを告げる美少女に、洸介は気恥ずかしく思いながらも小さく手を振った。こんな気分は生まれて初めてだった。まだ胸がドキドキしていた。上手く話せただろうか、変なことをしなかっただろうか。今日の服は、髪は? 今まで意識しなかったことを段々と意識していく。洸介の心は今日を区切りに大きく変化を見せた。

 洸介は、いつまでも星子の後ろ姿を見送った。長い髪は風に揺られ、右へ左、隣にいる時は話すので精いっぱいだったがとてもいい香りがした。

 いつまでも、いつまでも、洸介は心配して妹が駆け付けるまで、いつまでも呆けた顔でその場で立ち尽くすのだった。


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