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黒蔵という一族がいた。大名、華族、大財閥、と時代によりその姿を転々と変えていったこの一族は、移ろいゆく時を巧みに生きる天賦の才があった。この後、黒倉は大日本を実質動かしていたと噂されるほどの権力と財産を築きあげていく。恐ろしいことに、この一族は子々孫々と非凡な才能を惜しみなく発揮していき、時代が進めば進むほど、その力を増していくかのように次々と様々な事業へシェアを拡大していくのだ。古くは軍事物資から現代では宇宙開発まで、その力は留まることを知らない。黒蔵と聞けば、知らない者など誰もいなかった。
全ては、遠い昔のこと。黒蔵の一族はあまりにも強大すぎたのだ。それゆえにあらゆる面でありとあらゆる恨みを買った黒倉は完膚なきまでに叩き潰される。裏切り、謀略、抹殺。そんな血生臭い出来事も、しかし黒蔵にとっては些細な問題でしかなかった。元々富などに興味はなかったのだ。大日本が自分たちを必要としなくなったのであれば潔くその身を引こうと決めた一族の長は恨み事一つ吐かず、世間から姿を忽然と消した。元来、人の前に立つことが嫌いだったせいもあり、その姿を見た人物は片手で数えるほどしかいなかった。その者たちが口を揃えていうことといえば『絶世の美女』だったとか。後にも先にも黒蔵について記録が残っているのはこの言葉だけ。噂によれば、その一族の子孫は今でもどこかでひっそりと暮らしているという。その噂が本当であれば、果たしてどのような成長を遂げているのだろう。黒蔵を根絶やしにした者たちは今頃躍起になって探しているに違いない。
さて、物語は山奥の小さな村から始まる。人口はおよそ五百人。戦後に疎開した者たちにより開拓されたこの辺境に、とても美しい怪物が存在する。名を“白井 星子”と言う。星子は年にして十一になったばかりの童だが、その立ち振る舞いはもはや一人前の淑女として完成されていた。いや、完成させなくてはいけなかった。星子には誰にも言えない秘密があった。故に、その秘密を隠すためには、そうせざるを得なかったのだ。
「星子さん、こちらへおいで。髪を梳いてあげるわ」
はい、と口元に微笑を浮かべながらおっとりとした仕草で世話人の足元へ近寄る少女。
透き通るような色白の肌。衣服から現れる健康的な肢体。吸い込まれそうなほど大きな黒い瞳と、切れ目な眼。
そして、艶やかに手入れされた漆黒の長髪。
ほぅ、と世話人の女は息をもらした。まるで精密に作られた日本人形のようだからだ。棚に飾られた本物の人形と比べても見劣りしない。等身大のお人形だ。
ゆっくりと瞳を開いて世話人へ微笑みかける。この年の子供とは思えないほどの落ち着き。活発という言葉が無縁な、深窓の令嬢という言葉が相応しい、完成された“少女”という存在に、世話人は誉れ高い羨望を抱く。
もっと、もっと、この少女に触れていたい。世話人はこの場所の、この時、この瞬間だけ、少女に触られることを許されているのだ。世話人にとって、少女を小奇麗にすることは、幼い頃に人形の手入れをしていた優越感を思い出す。そんな恐れ多いことはもちろん言えないが、感覚としては間違っていない。髪の毛一本一本に、優しく、優しく、力を加える。宝物を扱うように、丁寧に、丁寧に…………力を入れれば、するりと毛先まで流れていく痛みのない黒髪は正直、手入れの必要など感じない。だが、世話人はそれを知っていて少女の髪に櫛を入れる。それこそが、世話人に表せる唯一の愛情表現だからだ。
「星ちゃん」
ふと、障子の隙間からそっとこちらを覗き込んでいる少女がいる。呼びかけられた星子は微笑みを浮かべながら小さく手を振る。その仕草に感化された少女は先ほどまで恥ずかしげに隠れていた戸を勢いよく開けて星子の元へ寄ってきた。
ニコニコと活発的な笑みは、星子とは対照的で、屈託のない純粋無垢な本物の笑顔だ。
もちろん、星子に対して皮肉を言ったわけではない。二人はあまりにも違っていた。だからこそ、星子は少女に惹かれていた。少女もまた、星子に惹かれていた。二人は、少なくとも友達以上の関係であることは確かだったのだ。
面白くないのは、世話人の女だ。自らの至福のひと時を邪魔されたのでは、不満の一つも言いたくなる。それが、自分の“娘”であったのなら、なおさらだ。あからさまに不機嫌そうな口調で、不肖の娘に対してピシャリと苦言を評した。
「可南子、星子さんの前で、はしたないわよ」
目の前の麗しき少女と比べたら、自分の娘はくすんで見えた。天はどうして人間に優劣をつけたのか、全ての生命の中で、人間という個体だけ、なぜここまで格別な差を生んでしまったのか。娘を見るたびに、世話人は哲学的な空想に永遠と囚われてしまう。我が娘ながら、決して醜悪というわけではないが、別段美人というわけではない。加えて茶色く痛んだ髪が女らしさを遠のかせてしまっている。まだ子供であるという点だけが救いだ。これがこのまま大人として成長していくのなら親としては背筋がぞっとする。少女までとはいかないが、せめて落ち着きのある淑女に育ってほしいものだと切実に願う。
母親の気苦労もつゆ知らず、可南子は星ちゃん、星ちゃんと笑みを崩さない。可南子にとって星子は姉妹であり、親友であり、かけがえのない絆で結ばれている。それは血の繋がりという意味ではなく、心の繋がりという意味で、だ。事実、星子と可南子に血の繋がりはない。必然的に世話人とも血は繋がってはいない。ただ、同居している同い年の子供という接点のみだ。それでも可南子にとっては、星子が誰よりも大切な人であり、己の身を危険にさらされようとも守りたいと常々思っている。もちろん、子供の他愛無い例えだが。
しかし、可南子は時々不安を覚える時があった。星子と同居して長いこと経つが、未だに星子が何を思い、どんな少女であるのかという点では、いまいち正体を掴めていないのだ。わかることと言えば、クラスの誰よりも綺麗で、男の子から悪意のない悪戯をされてもいつも静かに笑っていることくらいだ。この前は、ランドセルを取られても困った顔で笑っているだけだった。その前の日は文房具を隠されて、その前の日は上履きを取られて…………とにかく、星子は自らに無関心なのだ。おそらく、あの白い柔肌に傷をつけられたとしてもあの痛々しい笑顔を作っているに違いない。かと思えば、あれは一週間も前の出来事だ。同じクラスの女の子が例によって男の子の悪意のない悪戯にさらされていた時の話である。これは単純に女の子の周りを囲んで通れなくするという呆れるほど馬鹿馬鹿しい悪戯で、しかし女の子にとって、異性に囲まれるというのは言いようない恐怖があるわけで、女の子のすすり泣く声がクラス中に響き渡った。可南子とて、助けてやりたいという気持ちがないわけではなかったが、自ら進んで茨の道を歩みことには躊躇する。これを機に自分が悪戯の対象になったとなればたまったものではない。別段、男の子が苦手というわけではないが、いちいち構っているのも疲れるというものだ。おそらく、自分が悪戯を受けたなら、いきなり手が出てしまうだろう。そうなったら、母親の形相が目に浮かびゾッとしない。
クラスの誰もが聞かぬ存ぜぬを貫く中、星子だけは違った。いつも輝いていた。男の子の中にそっと入り、女の子を庇うように前に立つ。ただそれだけだ。何もしない。文句も言わない。騒がない。ただ、黙って男の子のからかいを一身に受ける。困ったような作り笑いを浮かべながら。髪の毛を引っ張られても、気にしない。さすがに、男の子もあの宝石のような柔肌を傷つけることだけは躊躇したらしく、星子が石像のように黙って立っているだけでは面白くない。やがて飽きた頃に先生がやってきて拳骨を加える。クラスに笑顔が戻ってくるとそっと星子は自分の机に座り静かに教科書とノートを取り出すのだ。
不思議な少女だと思う。ただ、少女には人を惹きつける大きな力がある。今ではクラスの大半の少女たちが星子を慕っている。その落ち着いた仕草と人の為に動く自己犠牲の優しさが、原動力となっているのだろう。そう思うと、可南子はいてもたってもいられなくなった。放っておけないのだ。放っておくと、星子はどこかに行ってしまいそうだから。
「星ちゃん、悲しいことは半分しよ?」
可南子は持ち前の負けん気で男の子を痛めつける。星子はそんな可南子を諌めながらもどこか楽しそうに笑っていた。この時、本当の意味で星子は笑っている気がしたのは、可南子の思い違いではないと思う。以後、可南子は星子といつも一緒だ。同じ同居人としてではなく、初めて心から繋がったと思える瞬間だった。とはいえ、星子はやはり謎の多い人物であることは確かなのだ。
「さぁ、二人とも、学校へ行ってらっしゃいな」
同じ赤いランドセルと、制服。この山奥の小さな村にも学校はある。しかも、新築の真新しい木造建てだ。白い帽子を被りながら、星子と可南子は同じ靴を履き、同じ戸を開け、外へ出る。
小学校最後の春。その春が今終わりを迎えようとしていた。五月も終わり、少し蒸し暑くなってきた朝空の透き通る青。B29の空襲警報とは無縁の楽園。小さな、小さな、学び舎へと足を進ませる。
村に中学校はない。そうなると必然的に星子と可南子は村の外へ出ていかなくてはならない。母親から離れることに何の未練もないわけだが、はたして星子はどうするのだろうか。成績において、圧倒的な差を見せつけられている可南子にはこれから先、星子と共に隣を歩いていく自信は全くない。有名な女学校へ進学するのか、それとも共学のエリートたちが集う学園に進学するのか。いずれにせよ、この道を一緒に歩くのはこの一年が最後になることは間違いない。
可南子は、思わず星子の手を握ってしまった。不安になる鼓動を抑えるようにその感触を確かめる。星子の手は、柔らかくて、しっかりしていた。こんなに美しい手をしているのに、どこか力強さを感じるなんて、卑怯だと思った。何が卑怯なのかはわからないが、とにかく、反則だと思った。
星子は少し驚いていたが、やはり笑みを浮かべていた。それは悪戯を仕掛けてきた男の子にかける笑みではなく、心からの笑みであった。少なくとも、可南子はそう思っている。だからこそ、手を握り返してくれたに違いないと。
行き交う人々に挨拶をする。お店の駄菓子を覗き見る。橋の下で釣りをしている老人を眺める。そんな朝の風景が可南子は好きだった。のどかで、貧しくて、だからこそ地域の結びつきが濃いこの集落が。何より、隣を歩く少女が。学校までは長くて嫌になるが、それを乗り越えれば退屈な授業が待っている。給食が何よりも楽しみであり、昼休みに縄跳びや駆けっこをするのも楽しみだ。今日は星子ちゃんと何をして遊ぼうか。何をやっても敵わないが、星子を羨望の目で見る皆の顔を見ると可南子まで誇らしくなっていく。自分だけが星子にとって特別な存在だと錯覚する。星子は誰に対しても同じ態度だが、それでもいいと思った。なぜなら、星子の腕にはビーズのブレスレットが飾られているからだ。これは、去年のお祭りの日、二人で揃えたペアルックというものだ。可南子が言い出して戸惑っていた星子に半分無理やり押し付けた代物だ。学校でも家でも人気者の星子を独占したい可南子のささやかな抵抗だった。だが、星子は嫌がりもせず今でもしっかり付けてくれている。もちろん自分の右腕にも同じものが太陽の光に照らされて光っている。
“学校ではちゃんと外さないとね”と困ったように笑う星子に、本当は四六時中付けてほしい可南子だったが、束縛されて嫌われてはたまったものではない。もちろんその程度で星子が可南子を嫌うはずがないのだが、それでも嫌だった。
星子は、みんなの人気者。この閉鎖された環境の中で、この少女の存在は誰の目にも高貴で気高い、他の者と一線を画する印象を植え付けた。天は彼女に祝福を与えすぎたのではないか。
しかし、白井星子は、決して幸せな少女などではない。その血に、その遺伝子に、その体に刻まれた怪物の魂は、やがてこの大日本を揺るがす大いなる災厄となる。この少女の、いや、この者はおよそ人ならざる理に属し、決して人とは交わることのできない悲しい怪物。
それは、何百年、何千年と受け継がれた罪そのもの。
願わくば、少女の行く手に光があらんことを。