第七話
予兆は、平和の中に紛れ込んでいた。
婚約者とその父親との文通も三ヶ月目、いいかげんもらった手紙の保管場所に困るようになった頃のことだ。
私は手紙の中で、ヴォルフからのある相談にのるようになっていた。
というのも、ヴォルフは現在、なかなか難しい問題に直面している。ラナンクラ公に、後妻をとるという話があるそうなのだ。
公が奥方、つまりヴォルフの母君を亡くしてから四年。その間この手の話は引きも切らなかったそうである。特に一人かなり押しの強い女性がいて、四年間まったく諦める姿勢を見せなかったそうだ。
公自身は『この年で今更後添いなど』とあまり相手にしなかったようだが、それは自身を過小評価し過ぎだと私も思う。宰相という地位を抜きにしても、あの人になら『私がお世話して差し上げたい……』てな女性がいておかしくない。
とにかく、四年も経ってそういう話も一段落していた頃に、ヴォルフの婚約が公表された。ちなみにこれはつい先週の話である。子供同士のことなので、婚約が決まった所でお披露目などはない。私はただ、公表するからと父に言われて頷いただけである。
とにかく、それを契機に先方も再度食らいついてきたそうだ。親族には「息子が結婚してしまってからを考えろ。後添えなしの老後は寂しかろう」と囁かれて公もちょっとぐらついたらしい。
こういった問題は、実のところ我が家にもある。うちの父も私も、まさしく現在進行形で苦労させられている話である。我が家の場合は嫡男がいないのでなおのこと、後妻争いは熾烈を極めているのだ。
そんな私から忠告できるのは一つ。
父の方から私に紹介したい女性を連れてきたという場合を除いて、絶対にそういう女性を家に入れてはいけないということだ。
いるのである。貴族社会には。
自分が良き母親になれるということを示すためなら手段を厭わない猛者が。
例えば、自分の使用人を引き連れて人の家に上がりこむ。例えば、服やら宝石やらはては馬や犬、猫といった動物までこちらの都合も聞かず押し付けてくる。
後者は断って送り返せば済むのだが、厄介なのは前者だ。これには下手をするとこちらの生活を滅茶苦茶にされかねない。
そう書き連ねてヴォルフに送ったら、返事に曰く。
『一人、父が留守でも家にくる女性がいる』
それ、今からでも訪問を断ることは出来ないのと聞くと、出来ないことはないがしたくないというのがヴォルフの返事だった。
なんでもその女性は、もうずっと前からラナンクラ公のことが好きだったらしい。一度も結婚せずに公のことを思い続けているという女性を、自分が父から遠ざけてしまう事はできないというのがヴォルフの主張だ。
上手くやれそうなの? という問いには、なんとか努力すると返ってきた。とてもいじらしい。
友達がそんな風に頑張っていると聞いては、私もなんだかじっとしていられない気分になる。
『血の繋がりがなくとも、努力次第で良い家族になれると思う。だから頑張って。応援しています』
心をこめてそう綴った手紙を送った。
そして私はのちに、この無責任な言葉を心の底から悔いることになる。
ある晴れた日の朝のこと。
我が家に届いたヴォルフからの手紙は、いつもと様子が違った。
適当な便箋と封筒に、短い文章。
『明日の父の誕生日、例の彼女が晩餐を饗してくれることになった。父は仕事で遅くなるので会話に困りそうだ。急な話で申し訳ないのだが、君も来ないか? 彼女に会ってみてほしいし。できれば一緒に、どんな料理が出てきても対応できる褒め言葉を考えてくれ。迎えをやる』
随分と性急な用件だった。
日付からして、手紙の中の『明日』とは今日のことだ。正午をまわる前に出発すれば、晩餐には間に合うだろうけれど。
昨日慌ててこれだけ書いて手紙を送ったのだろう。そわそわして落ち着かない様子が目に浮かぶようだ。
私は初対面の相手と会話を弾ませられるほど社交的ではないが、女同士ということで気安さもある。なにより一人より二人、である。
なんとか協力してやろうじゃない。
父は意外にあっさりと承諾してくれた。実は父の方にはラナンクラ公から話が行っていたようで、晩餐には父も出席する予定なのだという。
邪推かもしれないが、公は公で後添い候補との晩餐に第三者がいて欲しいと考えたのではないだろうか。社交的で、今や家族ぐるみの付き合いをしている父は適任である。
ヴォルフが『迎えをやる』と言ったとおりに寄越してくれた物腰の丁寧な壮年の男性は、ラナンクラ公爵家に使える家令だった。しかも護衛付き。
公と同行する予定の父とは別に、私はできるだけ準備を急いで早めに家を出た。そのため思った以上に早く公爵家の近くまで来れた。
私の心は浮き立っていた。
三ヶ月で驚くほど身長が伸びたと自己申告する彼の成長具合を確認するいい機会だ。同年代の私よりも背が低いことが格別気になっているようなので、からかいの言葉は封印しなくてはいけないだろう。
まだ日は高いので、晩餐には余裕をもって望めそうだ。本当に、『どんな料理が出てきても対応できる褒め言葉』を一緒に考えてあげてもいい。
もちろん、美味しい食事が出てきて心からの褒め言葉を述べられるのが一番いいに決まっているのだが。
(実際、慣れない人間が料理をするときは食中毒が怖いから……)
そう、考えた時。
私の頭に情報が溢れた。
人生で二度目の感覚だ。
意識が遠のくほどの衝撃を受けた。
ガチガチと、不快な音が聞こえる。
そう思ったら、それは私の歯が噛みあう音だった。
私の身体は瘧のように震えて一切の力が入らなくなり、馬車のほんの些細な揺れに対処することが出来ずずるずると椅子を滑り落ちた。
それには構わず、ガンガンと持てる限りの力で馬車の扉を叩いた。
「どうなさいました!? お嬢様!」
「こ、ここは、どこですか……? いえ、違う。ラナンクラ公爵の家まで、あとどれくらい?」
床に座ったまま顔を青ざめさせた、いかにも尋常でない様子の私に、けれど「もうすぐですよ」と答えが返ってくる。
「お願いします。できるだけ急いで。お願いします。お願い……。どれだけ揺れてもいいの! どうしても早く着きたいんです!」
すがりつかんばかりの私の剣幕に、戸惑いながらも頷きが返る。
馬車が走りだして、私は床から座椅子に必至でしがみついた。
思い出したのだ。
ゲームの中のヴォルフガング・アイゼンフートはヤンデレで、女嫌い。でも生まれた時からそうだったわけではない。
彼が狂ってしまうような、事件があった。
私の記憶を引き出す鍵になったのは『食中毒』。いや、『毒』という言葉。
ヴォルフガングは幼少期に、ある女性に毒を盛られたのだとゲームヒロインに語った。相手は新しい母になるかもしれないと思っていた人で、父親の誕生日の事だと。
未成熟の身体でありながらなんとか死の淵から生還した彼はその後、無理心中の末に冷たくなった父の亡骸に対面することになった。