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ヤンデレ系乙女ゲーの世界に転生してしまったようです  作者: 花木もみじ
番外編『舞台幽霊のカプリチオ』
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第七話

 結論から言うと。

 人形を人間にする魔法は、存在しない。



 生き物の形を模した『もの』には、ただの無機物とは一線を画したある種の『力』があるという考え方。それは日本にもあったと思うし、この世界にもある。


 日本の歴史を引き合いに出せば、厄除けに使われた雛人形しかり、陰陽道で用いられたという式札しかり。

 人の形を模した『もの』である人形については、バリエーション豊かに説話から怪談のたぐいまで。歩いたり踊ったり、人の身代わりになったり人の精神が宿ったり、もしくは髪が伸びたりしてしまうのだ。


 この世界にも人形にまつわる怪談があるが、加えて人形に関わる魔法というのがある。

 たとえば。人形の中に自分の意志を入り込ませ、それを意のままに操る魔法。

 このとき、同じ無機物であってもそこらの石に入り込むのと人形に入り込むのとでは、難易度がまったく違う。

 人形が人の形を模した『もの』であり、それ自体意思を持つものではない。この条件がそろうことで、その『人型ひとがたうろ』に入り込むことは、他の無機物と比べて非常に簡単になるのだ。

 言い換えればこれは、人形という道具が持つ『力』を利用した魔法である。


 他にもいくつか人形を用いる魔法がある。そこに共通しているのは、人が人形を道具として魔法を発現させるということ。


 ニバル・ガラントの魔法に限って考えてみる。

 彼もまた、『人形』の持つ『力』なしには発動しない魔法の使い手だったと言える。

 時折魔法に造詣のない人が誤解するのだが、ニバルは『無機物を動かす魔法』が使えたわけではない。ニバルの魔法はあくまで人形に限り、それを人に近い形で動かすことができたという、言ってみればとても限定的な魔法だ。

 その際つくり上げる人形は、たとえば材質や人形の大きさには制限はなかった。大きくても、小さくても構わない。

 ただしその形については、ごく一般的な人間の姿形から逸脱できなかった。たとえば人そっくりの関節を作らなければいけなかったし、背中に羽を背負わせた人形を動かすことはできなかった。

 

 ニバルの魔法においては、人形そのものの姿が変化する。

 けれど人形が道具であるという本質は変わらないのだ。

 人形はニバルが望む変化を自身に受け入れ、姿を変える。完璧主義ゆえに『より人に近い姿』を求めたニバルの望むままに。

 そして、その意思はあくまで虚のまま。自らの声を持たず。教えこんだ反応、動作しかしない。魔法使いの望みを叶えるだけの存在である。


 ニバル自身もそのことは認めている。

 緻密に、正確に人間を模し、一体を作り上げるのに長い時間を要したニバルの自動人形。

 ニバルは自分の作品に誇りを持っていると事あるごとに明言しているが、しかし自分の作業を『一人の人間を作り上げる』と表現した記者に対してはっきりと苦言を呈してもいる。

 自分が作るものは『人形』であり、『人間』ではありえない。そう明言しているのである。



(この人は、『ミリア』についてもこんな風に思ったのかしら)


 記事は『ミリア』が生み出される前のものだ。

 けれどニバル・ガラントはその人生の非常に長い年月を『ミリア』を創り出すことに費やしたとされている。つまり、彼は他の人形制作の傍ら、『ミリア』をそれは入念に、その技術のすべてをかけて人間に近づけたのだ。

 教えこんだ反応と動作しかしない自動人形に、あらゆる反応と動作を教えようとしたのである。彼を突き動かした動機がどんなものだったかは知る由もないが、途方もない想像力と根気を必要とする作業だったのではないか。

『ミリア』が『人形師ニバル・ガラントの、生涯をかけた最高傑作』であるといううたい文句は伊達ではない。

 つまりこの記事の時点で、ニバルはまだ世に出していないにしても『ミリア』の制作を進めていたはずなのだ。


 そうして彼の死後やっと世間に出た『ミリア』は、人間とまったく同じ生活を送り、人と触れ合うことができるほどの柔軟性と思考力に富んだ自動人形だった。


(彼女と一緒に時間を過ごした私はもう、ニバル・ガラントの言葉にとても大きな反発を感じる。『人間ではありえない』なんて、どうして言えるのか分からない。――それとも)


 それとも。

 彼の想像する『ミリア』と、私が会った『ミリア』の間には、差異があるのだろうか。もしかすると、創造主たる彼にさえ、不測のことが『ミリア』に起こったのではないか。


 一つには、『ミリア』が彼の想像を超えて人間に近しいものになったという可能性。

 もう一つは、私の知る『ミリア』と、彼の知る『ミリア』とが、別のものであるという可能性。

 私はその、2つ目の可能性に心を奪われている。



 ニバル・ガラントの魔法について調べた私は、それに付随して彼の人生についても調べていた。


 彼自身が、『自分の人生において私生活が円満だったといえるのは結婚当初の、ごく短い期間だけだった』と明言している。ニバル・ガラントの奥方は、ニバルとの間にただ一人の女児をもうけた後に他界してしまった。

 そしてニバルが男手一つで育て上げた娘は、年頃になって結婚するも一人目の子どもが死産。その後すぐに離婚してしまう。

 以降はその娘は特定の相手をつくらず、結婚はせずに女児を一人もうけたが、この子供に対しては、かなり辛くあたることがあったようだ。そして子供が六歳の時に生活の不摂生がたたって病死。

 こうして、ニバル・ガラントと、その孫である六歳の女の子だけが残された。

 ニバルは、あまり愛想のいい人ではなかった。周囲の評も『気難しい』『良くも悪くも芸術家』といったところで、人形の制作場所にはけして余人を近づけさせなかったとか。六歳の少女の生活はどんなものだったのだろう。


 少女の名前は、マリ・ガラントという。

 ニバルの私生活について書かれた記事から少女の描写を追うならば。

『母親譲りの淡い茶色の髪』

『淡褐色の大きな目』

『近所の人によれば、母親にはあまり愛情を注がれなかったという。女性記者に対しても、終始オドオドした様子。表情に乏しい』


 ――そんな少女がそのまま大きくなったなら。

 それは、私の知るミリア・ガラントのようにならないだろうか。


『人形歌劇座の最高のプリマ、ミリア・ガラント。その演技はまさしく人間そのもの・・・・・・!』


 ミリアが実は人間で、ニバルの孫娘こそその人なのではという想像は、荒唐無稽がすぎるだろうか。


 しかしその仮定は、私の胸にすとんと綺麗に収まってしまったのだ。

 少々表情に乏しいとはいえ、私は彼女に『人形らしさ』を感じたことはほとんどない。それをこれまでは『魔法じかけの人形だからかな』と思ってきたが、『実は人間だから』と言われたらそちらのほうが自然に思える。

 少し自己卑下のきらいがある彼女の言動も、生い立ち故のものと考えられるだろう。



 けれどそう仮定したらしたで、また大きな疑問にぶつかってしまう。


 ミリアが人形歌劇座の舞台に現れた時、ミリアを人々は『人間そのものの人形』として受け入れた。それは、『命ある人間が舞台にたつことができない』はずの劇場に突如現れた女優だったからだ。

 そして、人間が自身を人形と偽って舞台に立つ理由など思いもよらなかったからだ。

 世間を欺くというリスクを負ってまで自分を人形と偽ったならば、そこにはどんな理由がありうるだろうか。


 そして更に難解な謎が一つ。

 ――ミリアは私に尋ねたのだ。

『人形が、人間になる方法を、ご存知ありませんか?』と。

 あれがただの戯れによる質問だったとはとても思えない。



 私の推論がすべて、ただの考え過ぎという可能性もまだ残っていた。真実は、彼女自身に尋ねるしかない。

 私は、明日にでもミリアに話を聞いてみようと決めた。調べもので時間をくってしまったために、私に残された時間は少ない。学園の始業は二日先まで近づいていた。

 とてもではないが、手紙でできるような話ではない。

 チャンスは明日、一日だけだ。



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