第三話
いちおう、事態を回避する努力はしたのだ。
私は再度父のもとを訪れ、精一杯のか弱い公爵令嬢を演じながら訴えてみた。婚約者なんて会いたくない、明日なんて急すぎる、と。『嫌というより怖いんです』と訴える私の目がほとんど涙目だったのは演技じゃない。
「とにかく会ってみないことには嫌な相手かどうかも分からないだろう? 私も一緒に行くのだから大丈夫だよ。今日はもう寝なさい」
うん。そう返すよね。大人としては。
そんなわけで翌日、私は馬車に揺られて婚約者の住まうラナンクラ公爵邸へと向かった。
この道のりは、実際に馬車を走らせれば十日以上は優にかかってしまうそうだ。
そこで活躍するのが転移の塔である。かなり大掛かりな魔法じかけの塔で、大陸内の長距離移動には欠かせない。
リーリア公爵領に一つしかない転移の塔から、ラナンクラ公爵領に同じく一つしかない転移の塔まで飛ぶ。そうすると十日の旅程がたったの半日に減るというわけだ。
十日かかっても良かった。
むしろ一生目的地になど着かなければいい。
それが私の心境だった。
しかし無情にも時は過ぎ、私はたいした策も持たずに敵陣に足を踏み入れていた。
(失敗した……)
通された応接間の柔らかい椅子の上で、私は早くも後悔していた。
隣りに座った父は私の顔色が悪いのを気にして温かい飲み物を勧めてくるが、とても喉を通りそうになかったので丁重にお断りする。
失敗したのは、昨夜からこの時まで、色々と思い悩むばかりで休息を取らなかったことだ。馬車の中でもせめて目を閉じておとなしくしていればよかったものを、窓の外ばかり眺めて現実逃避を図っていた。
結局建設的な案が浮かばないのなら、せめてよく眠って、体調を万全に整えてからこの場に望めばよかった。
後悔先に立たずの格言を噛み締めながら待つと、ほどなくノックの音が室内に響いた。
父に合わせて立ち上がり、入室者を迎える。
入ってきたのは髪に白いものが混じっているが、足運びもキビキビと姿勢の良い壮年の紳士。次いで艶やかな黒髪の育ちのよさそうな少年だ。
私は意図的に視線を伏せて表情を消した。紹介される前の相手に対峙する淑女としては正しい行動である。子供らしくはないだろうが。
紳士は父と気さくな挨拶を交わし、すぐに私の方に向き直った。
「紹介いたします、ラナンクラ公。これは私の娘で、リコリスと申します。リコリス、ラナンクラ公爵閣下だ」
公爵に私を、次いで私に公爵をごく簡潔な言葉で紹介した父はすっと身を引いてしまう。自然、私と紳士が直接向き合う形になった。
「お初にお目にかかります。リコリス・ラジアータです」
会釈をしてからやっと相手の顔を見ると、そこにはとても柔和な笑顔があった。透明度の高い、けれど深い深い水底を覗きこんだような色合いの瞳が穏やかにほころんでいる。
ラナンクラ公は私の父よりもずっと年上で、確か五十近いはずだ。顔や手のしわには年齢が現れている。
「ああ、はじめまして。といっても、君が赤ん坊の頃には会ったことがあるのだが」
公はごく気さくな口調で言うと、私の手の甲に軽くキスをした。白髪交じりの灰色の口ひげが薄い皮膚をなぞるのがくすぐったい。
私がそれについ口角をあげてしまうと、公の目尻のしわはますます深くなった。お互いに笑い合って、短い挨拶が終わる。
「とても愛らしく成長していて驚いたよ。髪や目の色は母君に似ているが、目の形が父上そのものだ」
私と父とを交互に見比べながらの言葉に、父が少し照れたように「よく言われます」と返した。私はというと、『愛らしい』という言われ慣れない褒め言葉に動揺していた。
「しかし顔色が良くないな。長旅で疲れさせてしまったようだ。馬車に長く乗るのは初めてかい?」
心配といたわりを多分に含んだ水色の瞳。そして肩に添えられた大きくて温かい手のひらと優しい声が、「椅子に座っていいんだよ」と促してくる。
「だ、大丈夫です。立ったり歩いたりしていたほうが、気が紛れるくらいで……」
無駄にどもって答えてしまった。
「やはりこちらから出向くべきだったな。すまないことをした」
「いいえ! ええと……知らない土地に行くのは楽しいです。大きな街の向こうに海が見える景色がとても新鮮でした。街道沿いに見えた円形の風車とか、初めて見る形でとても興味深……あ、いえ、今日は、お招きいただいて、とても嬉しく思っています」
私は挨拶を終えたばかりの相手に向けて、おかしなほど多弁になってしまったことに恥じ入る。こんな風に焦ってしまうのは我が事ながら珍しい。
しかしラナンクラ公はむしろ嬉しそうにニコニコっと笑って、風車の形について私の疑問に答えて説明までしてくれた。
その話をうんうんと頷いて聞きながら、私は心の底から驚いていた。
気さくな笑顔のこの方、実は我が国の宰相様である。
この国は王政で、家柄としては王家の下に五つの公爵家がある。その中でもラナンクラ公爵家と我がリーリア公爵家は共に宰相を排出することの多い家柄だ。
その地位と、そして何より『ヤンデレ男の父親』という先入観のせいで、このような好人物が現れるなどと思いもしなかった。本当に失礼だったと思う。反省します。
その宰相様に、「君には知識欲という素晴らしい才能があるな」などと微笑まれて嬉しくないはずがない。
正直、ときめいた。
どのくらいときめいたかといえば、隣に立つヤンデレ……じゃなかった我が婚約者殿の存在をいっとき忘れてしまうほどである。
後方に立つ父が咳払いをして、それでやっと私は今回の訪問の目的を思い出した。
宰相様の斜め後ろに立つ少年に視線を送る。
「これは申し訳ない。リコリス、私の息子を紹介しよう」
宰相様の大きな手に導かれて一歩足を踏み出した十歳のヴォルフガング・アイゼンフートは、「どうぞよろしく」と最低限の挨拶をして軽く目を伏せた。
私も「こちらこそ」と返すのがやっとで、会話はそこで途絶えた。
途端にシンと静まり返った部屋の空気に、大人たち二人はどうやら焦ったらしい。
「我々がいては話がし辛いだろうな」
「リコリス、ご子息に庭を案内していただいたらどうだい?」
いきなり『あとはお若い二人で……』とばかりに十才の子供二人を庭園に放り出すことにしたようだ。
はっきり言って国を支える職に就くお大臣たちの策とは思えない、下策である。
まずは大人二人が話題を誘導して場を和ませ、共通の話題の一つや二つ引き出してから二人きりするのが正解だろう。しかし考えてみると、ドラマの中の見合いの席でそういう役割を担ってくれるのは多くが女性であった気がする。男の人ってたとえ仕事が出来る男であっても、こういうことは苦手なのかもしれない。
……などとついつい分析してしまったのは、私自身動揺していたからだ。
庭園へと続く道を連れ立って歩くことになった少年は、線の細い美少年だった。
意外というか、この年齢ならしかたのないことかもしれないが、同年の私よりもけっこう背が低い。
黒髪に、鮮やかな青紫の瞳が印象的だ。
少年らしく頬の輪郭が丸みを帯びているが、それでも十分に理知的な顔立ち。背をぴんと伸ばして重心移動がスムーズな歩き姿は、幼くとも人に注目されることを意識した生活の賜物だろう。
ゲームのキャラクターにはだいたいイメージカラーが設定されているものだが、彼の場合は黒である。作中ではほとんど常に黒っぽい服を着ていた。今もやはり服は黒地に銀糸の刺繍が施された高価そうな服を着ている。
その美少年は、庭園に着いて薔薇のアーチに視界が遮られる場所まで来ると私にこう言った。
「お前、俺の婚約者に決められたということは承知しているのか?」
突然だったので反応が遅れたが、なんとか頷くことで返事を返す。
すると美少年は急にその印象的な青紫の瞳で私を睨みつけた。
「ふん。気に入らないな。顔はまあまあ見れるが、そもそも全体の印象が根暗そうで好みじゃない。図体もでかすぎる。――だが、家柄は釣り合いが取れるからな。妥協してやるよ。婚約者という立場を勘違いして、俺の行動に口を出そうなどと考えるなよ」
ああ……うん。
こういうキャラだったなぁ。
そう頭の片隅で思いながら、実のところ私の心情は安堵で満たされていた。
私が一番恐れていたことはどうやら起こらなかった。
それはヴォルフガング・アイゼンフートに会った瞬間に、自分の中身がまるごと変わってしまうのではないかということだ。
よく分からない心の動きが起こって、制御もできないほど相手のことを好きになってしまうのではないか。先にあるのが破滅と分かっても、目が眩んだように激情に突き動かされてしまうのではないか。それが一番恐ろしかった。
うん。良かった。これは――――『ない』。
だって私マゾじゃないし。
この生意気なクソチビの頭を殴ってやりたい。
けれど前世も含めればとうに大人、という人生経験が邪魔をしてそれが出来ない。
自分より下にある青紫の瞳を、思い切り見下しながら鼻で笑うにとどめておこう。
「図体も小さければ、おっしゃることも小さいですわね」
あ、口が滑った。