第六話
『ハァ?』と返さなかったあたり、私は大人だ。
結局私が口にしたのは、ごく現実的な反論だったのだから。
「叔父様、私には既に立派な婚約者がいるのですけど……」
ヴォルフとのことはすでに公になっている。叔父が知らないはずがないのだ。
ところで現在の私の顔は、それはもう盛大に引き攣っている。でも、どーせ叔父様は気づかないんでしょ? と私は内心やさぐれていた。
私の心の声を知ってか知らずか(いや、絶対わかってないに違いない)叔父は遠くを見つめるような目をして持論を展開しだした。
「だけど、カフィルが他家に君を嫁がせようとしたのは、親類の中にこれぞと思う相手がいなかったからだと噂されているよ。そうだとしたら、シェイドには可能性がある。カフィルが君の婚約者について悩んでいた時、まだシェイドのことは知らなかったのだから」
なんで私は、こんな異文化コミュニケーションに従事せねばならないのだろう。
その推察はどうあれもう婚約は決まったのだ。私はそう言っているのに、分かりにくいの?
「……でもね叔父様。私はそういう意味ではまったくシェイドのことを好きになってはいないし、彼の方もそうよ。いとこと結婚だなんて、血筋として近すぎると思うし」
「いや、私はそうは思わない」
叔父はやけにきっぱりと言い張る。
「いとこで結婚なんて、かつては当たり前の事だったんだよ。むしろ、血を濃くする努力をやめてしまったからこそ、『リーリア公爵家の赤』ははっきりと失われつつある」
『リーリア公爵家の赤』
聞きなれない言葉だが、意味はなんとなく分かる。シェイドが言っていた、かつてのリーリア公爵家にあらわれた髪や目の赤い色彩ということだろう。
「叔父様。私の目も髪も赤くないわ。真っ黒よ」
だから『リーリア公爵家の赤』とやらの復刻を期待されても困ります、と言おうとしたが、叔父に遮られた。
「でも、その黒髪と真っ赤な唇が祖母にそっくりだ。姉の血だな。姉は一族の中でも特に祖母に似ていると言われていたんだよ。君の中にはたしかに、祖母の血が色濃く流れている」
「まあ、母に似ているとはよく言われます。ひいおばあ様のことはよく知らないのですが」
「君は『リーリア公爵家の赤』の価値も知らないようだ。過去に赤い色を持って生まれた公爵家の人間は、ほとんど例外なく強い魔力を持っていたんだ。その力がリーリア公爵家の繁栄を築いたと言っても過言ではないんだよ!」
叔父の熱弁が、段々と不気味に思えてきた。
私はもう、叔父を理で説き伏せることではなく、とにかくこの会話をやめてしまいたいという思いでいっぱいだった。
「私、婚約者と上手くいっているんです。私は、彼が好きなの」
『好き』という言葉を使ったのは方便ではなかった。私は確かにヴォルフが好きだ。その気持ちはまだ友情と愛情の間を行ったり来たりするような、立ち位置の曖昧なものではあったけれど。
方便ではないが、これだけきっぱりと拒絶すれば叔父が諦めてくれるだろうと思ったのも確かだ。
「いいや、君は好きな相手となど、結ばれないほうがいい」
叔父の言葉は、いよいよわけが分からない。
なのに叔父は、まるで世界の理を諭すような声で私に言うのだ。
「祖母もそうだったが、姉も壊れたところのある人だった。たった一人しか見なくて、恐ろしいほど嫉妬深い。カフィルもとても苦労していたよ。だが祖母にそっくりの姉には、一族の男と結婚して血の濃い子供をなすことが期待されていた。同世代の中でも発言力は強かったな。押し切られる形でカフィルが犠牲になると決まったときは、周囲の者はこぞって同情したものだ」
なんなの? なんなのこの人は。
こんな人の言うことを、真に受けてはダメだ。
「君は祖母にも姉にもとても良く似ているよ。そういう性質も似ているんじゃないか」
それはまるで、呪いの言葉だった。
これ以上叔父の言葉を聞いていたら、私までおかしくなってしまいそうだ。
私は食堂を飛び出した。
食堂を、飛び出して。
部屋に帰って一人でいる気にはとてもなれなかった。
昨日のことがなかったら、私はクリナムに救いを求めただろう。けれどそれも、今ではとても無理なことだ。
せめて木々に癒されたいと、私はランクラーツ邸の慣れない庭を歩いていた。
今は叔父のせいで、どんな美しい花でも見たくはない。叔父が世話をした花なら近づきたくもない。
私は花の鮮やかな色彩を見かけるたびに進路を変えて歩き続けた。たまにベンチや心地よさそうな木陰を見つけては座り込んで景色を眺めたり、草笛に良い葉を探してみたり、飽きたらまた歩き出す。
いつの間にか日は高くなっていたが、その間思索にふけっていたのかというとそうではなく、むしろ疲れきって頭が真っ白になってくれないものかとずっと思っていた。
そうしてふらふらと歩き続けた先で、私はシェイドに会った。
なんとなく、外でシェイドに会うとは思っていなかった。
彼が叔母に閉じ込められて、という印象が強烈だったせいだろう。それから多分、彼の肌が透けるような白色をしているせいだ。
しかし彼も容姿はともかく普通の男の子なのだ。外に出て遊ぶのは何もおかしいことではない。
彼の顔を見てすぐに、私は多分とても嫌な顔をした。叔父のおかしな提案を思い出してしまったから。
けれどシェイドは少し肩をすくめただけで、むしろ私の心配をしてよこした。
「おそろしく顔色が悪いですよ。幽鬼に出会ったかと思いました」
けっこう時間が経ったのに、まだはっきりと傍目に分かるほど私の顔は青ざめているらしい。
「……この家にはそういうものがいるかもしれないって思うわ」
「誰にいじめられたんです?」
「叔父よ。あなたのお父様」
私の声には怨嗟がこもっている。
「すみません」
「あなたが謝るの?」
「一応、父親なので。ついでに愚痴に付き合いましょうか」
「……ありがとう」
私は、彼もまた叔父に振り回される被害者なのだと思いだして肩の力を抜いた。
とつとつと、叔父との会話について話す。
『シェイド』に愚痴をこぼすなんて、この館に来るまでは考えもしなかったことだ。
けれど今は、叔父の考え――シェイドと私の結婚などというおかしな考えを、一緒に『くだらない』と笑い飛ばしてくれる相手がいるという事に救われる。
ヴォルフのことを話して聴かせるのも楽しかった。今はもう、『ヴォルフ』と口にするだけで少し心やすまる気がする。私、そうとう疲れている。
母のことは、流石に話すつもりはなかった。先ほどの叔父との会話で私の精神を一番に傷めつけたのはその話題だったけれど、私の中でも整理しきれていないことだ。
「そうしたら叔父が、私の母のことを言ったの。」
え?
「祖母と母は似ていて、どちらも恐ろしく嫉妬深い人だったと。それどころか、どこか壊れたところがあるなんて言うのよ。父にとって母との結婚は本意じゃなかったって……それじゃあまるで、私、は……私、あなたにこんなことを話すつもりはないわ」
シェイドはにっこりと、それはそれは綺麗に微笑んだ。
「何を話しても構いませんよ。喜んで聞きます。きっと、話したほうが楽になる。全て話し終えたら、あとは僕に任せていいんです。休みたいでしょう? とても、疲れた顔をしている」
シェイドの細い指が、私の頬を伝った。
「い、嫌!」
決死の思いで私はその手を振りほどく。
彼の声は甘かった。その声に従うほうがずっと快いと分かっていた。逆らおうと考えることさえ不快だ。
けれど心の何処かが警鐘を鳴らす。これは、絶対に無視してはいけない類の警鐘だった。
「気の強い女だと思ったが、精神力も強いのか。いや、それとも魔法の資質の問題か? なんにせよ、面倒だな」
ぐいっと顎を掴まれて瞳を覗きこまれた。
私もまた、深い、深い、臙脂色の瞳を覗きこむことになった。目をそらすことができない。
全身が固く強ばって、心臓がドクドクと脈を打つ。拳を握り締める力を制御できずに、爪が皮膚に食い込んでいた。
「いい子だから。俺の言うことを聞け。悪いようにはしない」
そう耳元で囁かれて、私は――。
シェイドの横っ面を、思いっきりグーでぶん殴った。
それからは決死の逃走劇である。
顔を殴られてしばらくあっけにとられていたシェイドは、私が館に向けて走りだしたと気づくと追いかけてきた。
他人に本気で追いかけられるというのは、それはもう本気で怖いことだ。しかも私はドレスを着ている。スカートってどうしてこんなに走りにくい作りをしているのだろう。
しかし、幸いシェイドはそれほど足が早くなかった。私の全力疾走によって差は縮まっていない。
(でも、私はいったい誰に助けを求めればいいの?)
まさか実家まで走って逃げ帰るわけにはいかない。けれど建物の中に逃げ込んだ所で、私に助けの手など差し出されるだろうか。
弱気が頭をもたげ、足の動きが鈍くなる。
あわやという所で、私は横合いからぐいと手を引かれた。
ひたすら前に前にと進んでいたものを横からちょっかいを出されたので、私の足はもつれて転びかけたが何かに受け止められる。
その人は私をぐいと自分の背中にかばうと、後方から走ってきたシェイドに声もかけずに殴りかかった!
「ヴォルフ!」
私がこの場で見間違うはずもない。その人とは、ヴォルフガング・アイゼンフートだった。
ヴォルフはシェイドを殴ったあと、その腕をひねりあげて素早くその動きを封じた。
「思わず手が出たが……良かったか?」
「いいわ! あ……いえ、その……この場合は、少なくともヴォルフは悪くないと思うわ!」
言い直したのは、ヴォルフの後ろからランクラーツ家の執事が目をまん丸にしてこちらを見ていたからである。
「リーリア公から『私の代わりにリコリスの騎士役を頼む』と言われたときは、公も冗談をいっている風だったが……一体何があったんだ?」
「お父様もヴォルフも愛してる!」
「あ、愛して……? あ、いや、不服はないが……」




