第2章 1話
目覚ましが鳴る前に、一度だけ目が覚めた。
暗い。
時計を見る。
六時二分。
……ほとんど寝ていない。
あのあと、何度も再生した。
ベースを探すみたいに。
イヤホンに替えて、布団の中で。
低音が腹の奥に落ちる感覚。
気づけば、窓の外が白み始めていた。
「……やば」
二度目のアラームで身体を起こす。
頭は重いのに、妙に目は冴えている。
昨日の音が、まだ残っている。
階段を降りると、味噌汁の匂い。
「おはよう」
母さんが言う。
「おはよ」
美羽がトーストをかじりながら、ちらっと俺を見る。
「顔、終わってる」
「うるさい」
「夜更かし?」
母さんの問いに、
「うん。ちょっとな」
とだけ返す。
それ以上は何も言わない。
美羽も突っ込まない。
でも、口元だけがにやついている。
嫌な予感しかしない。
家を出て、角を曲がったところで。
美羽がすっと横に並ぶ。
親の目が完全に消えた瞬間。
「で?」
「なに」
「夏海ちゃんの部屋、どうだった?」
足が止まりかける。
「は?」
「CD借りるために部屋まで上がるとかさー。やるねぇ」
「上がってねぇよ」
「ほんとにぃ?」
にやにやが止まらない。
「玄関だって」
「ふーん」
信じてない顔。
「てかさ、昨日ずっと音鳴ってたよ?」
「……聴いてただけ」
「聴き過ぎて寝不足、っと」
図星。
「青春だねぇ」
「違う」
即答するけど、声が弱い。
美羽が笑う。
「まぁでも、あんな真面目に音楽聴いてる兄、初めて見たわ」
その言葉が、少しだけ胸に残る。
校門が見えてくる。
その前に、見慣れた姿。
夏海が立っていた。
俺に気づくと、軽く手を上げる。
「おはよー」
「おはよ」
その横から美羽が、
「夏海ちゃん、おはよー」
と自然に並ぶ。
距離が近い。
「昨日、CD聴いてくれた?」
夏海が俺を見る。
ほんの少しだけ、期待を含んだ目。
答えようとした瞬間。
「聴き過ぎてさー、うちの兄めっちゃ寝不足なんだけど」
「ちょ、美羽」
夏海が目を丸くして、それから笑う。
「え、そんなに?」
「別に……」
視線を逸らす。
夏海がくすっと笑う。
「じゃあ、感想はちゃんと聞かせてね?」
「……うん」
「あとでねー」
夏海が言うと、
「ねー」
と美羽が並んで歩き出す。
女子二人で何かひそひそ話している。
絶対俺のことだ。
胸の奥がざわつく。
昨日の低音とは違う。
もっと、落ち着かない何か。
教室に入ると、妙に騒がしい。
「なに?」
「転校生」
短い返事。
チャイムが鳴る。
担任が入ってくる。
その後ろに、一人。
空気が少しだけ変わる。
背は高め。
制服はラフだが、だらしなくはない。
髪は短く、整えすぎていない。
目つきが鋭い。
担任が黒板に名前を書く。
篠崎優弥。
白い粉が落ちる。
「家庭の事情で前の学校を二年で中退している。話し合いの結果、三年生として受け入れることになった」
ざわ、と小さな波。
「入学前のテストでも優秀な成績を収めている。仲良くするように」
優弥が前に出る。
教室を静かに見渡す。
「篠崎優弥です。よろしく」
それだけ。
短く、無駄がない。
「席は……あそこだな」
俺の隣の空席。
まじかよ。
優弥が歩いてくる。
机の横で止まり、軽く顎を引く。
「よろしく」
「ああ、よろしく」
椅子を引く音。
鞄を置く動きが静かだ。
横顔を見る。
その瞬間。
胸の奥が、ひっかかる。
どこかで。
見たことがある、というより。
感じたことがある。
一度触れたのに、名前が出てこない感覚。
授業が始まる。
隣から、ページをめくる音。
落ち着いた呼吸。
理由は分からない。
でも。
何かが、静かに始まった気がした。




