第1章 4話
扉が開く。
一歩、踏み入れる。
思っていたより、ずっと質素だった。
広いのに、物は少ない。整いすぎていて、生活の匂いが薄い。
普段出入りしている美羽の部屋とは、明確に違う。
美羽の部屋は、柔らかい色と小物で埋まっていた。
写真立てやぬいぐるみがあって、入った瞬間に“女の子の部屋”だとわかる。
でも、ここは違う。
壁一面に貼られたアーティストのポスター。
暗い背景。
強い光。
四つの影が並んで立っている。
ギターを構えるシルエット。
ベースを抱える影。
ドラムセットの前で腕を振り上げる姿。
そして中央——
ボーカルらしき存在。
立ち姿は圧倒的だ。
だが顔は、光と影に溶けて見えない。
目元も口元も判別できない。
あえて隠しているようにも見える。
名前はかすれている。
ロゴは直線的で鋭い。
読めない英字。
聞いたこともないバンド名。
存在感だけが、異様に強い。
部屋の隅には、大きなスピーカーのような機材が無機質に置かれている。
それだけで、空気が少し重い。
そして——
その傍らに、立てかけられていた。
細長い影。
「……え。」
思わず、声が漏れる。
黒いボディ。
照明を受けて鈍く光る曲線。
弦が張り詰めて、静かにこちらを見ている。
ギター。
女の子の部屋にある、という違和感じゃない。
夏海の部屋にある、という衝撃。
俺の中にあった“夏海像”が、音を立てて崩れる。
「なにその顔。」
背後から、夏海の声。
俺は視線を外せないまま言う。
「……弾くのか、それ。」
少しだけ間。
「さあ。」
曖昧な返事。
でも、あれは飾りじゃない。
触れてきた時間の重みが、あの位置にある気がする。
静かな部屋の中で、
俺の鼓動だけがやけに大きい。
その瞬間。
俺の中で、何かが、かすかに動いた。
「そのギター、私のじゃないの」
不意にそう言われて、俺は振り返る。
「借りてるだけ。まだ練習中だし」
夏海はギターのそばまで歩いて、そっと手をかけた。
構え方は少しだけぎこちない。
でも、扱いは丁寧だった。
「教わってるのか」
「うん」
あっさりと頷く。
「すごい人?」
少しだけ、間。
それから、迷いなく。
「うん。めちゃくちゃ上手い」
その声は、はっきりしていた。
夏海は弦を軽く弾く。
ぽろん、とまだ頼りない音が鳴る。
「本当に上手い人のギターってね」
指板を見つめたまま、続ける。
「音で、景色が見えるの」
俺は黙って聞く。
「物語があるんだよ。一音ずつに。今どこに立ってて、何を思ってて、どこへ行こうとしてるのか、全部伝わる」
夏海は小さく笑う。
「私のはまだ、単語にもなってないけど」
そう言いながらも、悔しさより楽しさが勝っている顔だった。
「なんで、そんなに?」
思わず聞いていた。
夏海は少しだけ考える。
そして、俺のほうを見た。
「自分の世界を、誰かに見せたいから」
まっすぐだった。
迷いがない。
「言葉にできないもの、あるでしょ? うまく説明できない気持ちとか」
「……ある」
「それを、音で見せられたらいいなって」
ギターを抱え直す。
「いつか、本当に物語を作れる人になりたい」
今日いちばん、夏海が輝いて見えた。
教室で見たどんな顔よりも。
屋上で風に立っていたあの横顔よりも。
今、この瞬間のほうがずっと眩しい。
「じゃあさ」
夏海が首を傾げる。
「いつか、夏海が好きな音、俺も聴けるのか」
一瞬。
驚いたみたいに目を瞬かせて。
それから、ふっと笑う。
「うん」
柔らかく。
でも、確信を持って。
「そう遠くなく、聴けるよ」
その言葉が、妙に胸に残った。
理由はわからない。
でもそのとき、俺は確かに思った。
――聴いてみたい。
夏海の物語を。
「うん。そう遠くなく、聴けるよ」
夏海はそう言って、ギターを元の位置に戻した。
まだぎこちない手つき。
でも、触れ方だけは優しい。
俺は視線を壁へ移す。
ポスターの四つの影。
Neon Construct。
存在感だけが、強烈に焼き付く。
「これ、さっき言ってた“すごい人”?」
夏海は一瞬だけ動きを止めた。
「あー……うん」
わずかに視線が泳ぐ。
「好きなんだ?」
「まあ、かなり」
その“かなり”は、少し照れが混じっている。
俺はポスターを見上げる。
顔は見えない。
だからこそ気になる。
「貸して」
自分でも唐突だと思った。
「え?」
「そのCD。聴いてみたい」
夏海は目を丸くする。
「伸也くん、ロックとか聴くの?」
「聴いたことない」
「じゃあなんで」
少し考える。
うまく言葉にできない。
「……夏海が、そんな顔するから」
さっきの、あの目。
自分の世界を語るときの、あの光。
夏海は一瞬だけ固まり、それからふっと笑った。
「なにそれ」
机の引き出しを開ける。
何枚かのケースを指でなぞり、その中から一枚を抜き取る。
黒地にネオンの光が走るジャケット。
タイトルは英字で、ぱっと見では読めない。
「これ、ファースト」
差し出される。
透明なケース越しに、バンド名がはっきり見える。
Neon Construct。
「ベース、すごいよ」
夏海がぽつりと言う。
「ギターももちろんだけど」
ほんの一瞬、言葉を選ぶ間。
「土台があるから、あんなに暴れられるんだよね」
その言い方が、妙に印象に残る。
俺はCDを受け取る。
プラスチックの軽さが、やけに重く感じた。
「返す」
「ちゃんと聴いてよ?」
「努力する」
夏海は少しだけ満足そうに笑う。
「感想、聞かせてね。伸也くん」
その呼び方が、やけに柔らかい。
なぜかそれが、約束みたいに思えた。




