第1章 3話
午後の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
黒板の文字も、教師の声も、全部ぼやけている。
唇に残る感触と、
『優しい人って、いちばん壊れやすいよ』
あの言葉だけが、何度も蘇る。
冗談だった。
そう言って笑っていた。
なのに、胸の奥のざらつきが消えない。
放課後。
昇降口で、美羽を待つ。
いつもの光景。
いつもの時間。
それなのに、今日は落ち着かない。
「お兄ちゃん!」
振り向く。
美羽だ。
そして——
「やっほー」
隣に、夏海。
心臓が変な跳ね方をする。
「あれ? お兄ちゃん知り合い?」
「……まあ」
うまく声が出ない。
「さっきね、廊下でぶつかって仲良くなったの!」
夏海が元気に言う。
屋上の面影なんて、どこにもない。
明るくて、よく笑う普通の女子。
「えー、お兄ちゃんが女の子と話してるの初めて見たかも」
「余計なお世話だ」
「照れてる?」
「照れてない」
夏海がくすっと笑う。
その笑いは、ちゃんと“普通”だ。
少なくとも、美羽の前では。
「あ、そうだ」
美羽が急に手を打つ。
「わたし図書室寄らなきゃだった!」
どう見ても今思い出した顔じゃない。
ちらっと俺を見る。
それから夏海。
「お兄ちゃん、ちゃんと送ってあげてよ?」
「は?」
「女の子一人で帰らせるとかダメだからね」
妙に真剣な顔。
気を遣っているのが分かる。
「じゃ、先帰るね!」
美羽は手を振って走っていった。
残されたのは、俺と夏海。
少しだけ気まずい。
「優しい妹さんだね」
「……お前、何した」
「えー? 何もしてないよ?」
悪びれず笑う。
「たまたま話しただけ」
本当に、ただそれだけの顔。
屋上で見たあの影は、幻だったのかと思うくらい。
「ねえ、送ってくれるの?」
「……言われたからな」
「やった」
無邪気な声。
並んで歩き出す。
夕焼けが、柔らかい。
「俺さ」
急に夏海が言う。
「屋上のこと、考えてるでしょ」
足が止まりそうになる。
「顔に出てるよ?」
くるっとこちらを覗き込む。
明るい。
でも、ほんの一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、あの目が覗く。
「大丈夫だよ」
にこっと笑う。
「わたし、そんな簡単に消えないから」
軽い調子。
冗談みたいに。
でも、その言葉がやけに引っかかる。
「ほら、早く行こ」
腕を軽く引かれる。
夕焼けの中を、二人で歩く。
今日の屋上が、本当にあったことなのか分からなくなるくらい、
夏海は、よく笑っていた。
夜風が、少しだけ冷たい。
屋上にいたときよりも、世界はずっと静かだった。
夏海は一歩前を歩きながら、ふと振り返る。
「ねえ」
「なんだよ」
「今日さ、ありがと」
「何が」
「いろいろ」
曖昧な言い方。
でも、軽い笑顔。
俺は視線を逸らす。
「別に。大したことしてねぇよ」
「してるよ」
即答だった。
それ以上は続けない。
二人の足音だけが、夜道に響く。
住宅街に入る。
街灯の下、影が並ぶ。
時々、重なって、また離れる。
「あなたってさ」
「ん?」
「意外と面倒見いいよね」
「誰がだ」
「わたしとか」
さらっと言う。
冗談みたいに。
でもほんの少しだけ、間があった。
「勝手に人を面倒ごと扱いすんな」
「えー?」
くすっと笑う。
「でもさ」
少し歩幅を緩めて、並ぶ。
「今日みたいな日、誰かが隣にいるっていいね」
軽い声。
本当に何気ない言葉みたいに。
でも、俺の胸には残る。
「……大袈裟だろ」
「そう?」
夏海は空を見上げる。
「わたし、案外単純だからさ」
意味深にも取れるし、ただの世間話にも聞こえる。
角を曲がる。
景色が少し変わる。
家並みが途切れ、広い敷地が見え始める。
俺の足が、わずかに止まる。
その先にあったのは、白い塀に囲まれた邸宅だった。
「……おい」
「ん?」
「ここ?」
「うん」
あっさり答える。
門はすでに開いていた。
夏海は迷いなく敷地に入っていく。
「驚いた?」
「いや……まぁ」
「よくある反応」
笑う。
でもどこか、他人事みたいな言い方。
玄関の扉が静かに開く。
「おかえりなさいませ」
柔らかな声。
落ち着いた女性が一礼する。
「ただいま、佐倉さん」
夏海は靴を脱ぎながら、軽い調子で言う。
俺も会釈する。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ」
佐倉は穏やかに微笑む。
「お友達ですか?」
夏海がちらりと俺を見る。
「うん。クラスは違うけど、先輩」
「三年です」
俺が答える。
その瞬間、夏海の手がほんのわずかに止まる。
「……三年?」
「うん」
「そっか」
一拍。
すぐに笑顔に戻る。
「わたし一年だから、二つ上か」
「そうなるな」
「へぇ」
小さく笑う。
佐倉が静かに告げる。
「お父様とお母様は本日もお戻りになりません」
「うん、聞いてる」
当たり前みたいな口調。
「佐倉さん、やること終わったら帰っていいからね」
「かしこまりました」
「今日も遅くなると思うし」
さらっと言う。
まるで天気の話みたいに。
“今日も”。
その言葉がやけに残る。
佐倉は一礼して奥へ下がった。
広い玄関が、急に静かになる。
「夜、一人なのか」
思わず聞いていた。
「んー?」
夏海は首を傾げる。
「いつもだよ」
あっさり。
「慣れてるし」
気負いも寂しさもない声。
それが逆に、引っかかる。
「ほら」
振り返る。
「寄ってくんでしょ?」
軽い笑顔。
迷いなく階段へ向かう。
俺は一瞬だけ立ち止まる。
帰るなら、今だ。
でも。
「来ないの?」
上から覗き込む視線。
俺は小さく息を吐いて、あとを追った。
階段を上るたび、足音がやけに響く。
二階の一番奥。
夏海が立ち止まり、ドアノブに手をかける。
「ここ」
振り返る。
「散らかってるけど、気にしないでね」
カチャ、と小さな音。
扉がゆっくりと開く。
俺は、無意識に息を飲んだ。
——次の瞬間、目に飛び込んできたのは。




