第3章 6話
「な、夏海ちゃん!?」
隣で、美羽が声を上げた。
驚きと興奮が混ざった声。
だがその声が届いたかどうかは分からない。
ステージの上の夏海は、わずかにマイクを引き寄せると、静かに口を開いた。
「こんばんは。Neon Constructです」
淡々とした声だった。
大声でもない。
煽るわけでもない。
それなのに、その一言だけで会場の空気がぴたりと揃う。
さっきまでのざわめきが、嘘みたいに消える。
「今日は来てくれてありがとう」
短い挨拶。
無駄がない。
夏海は少しだけ視線を落とし、それからゆっくりと客席を見渡した。
照明のせいで、客席の表情までは見えないはずなのに。
なぜか、目が合ったような気がした。
伸也の心臓が強く打つ。
そのまま夏海は、マイクスタンドを軽く握り直す。
「一曲目――」
わずかな間。
「『Glass Horizon』」
その瞬間。
ドラムが炸裂した。
スネアの一撃。
鋭い。
リムショット気味の乾いた音が、空間を真っ二つに割る。
続いてバスドラム。
四つ打ちではない。
重く沈むキックが、不規則なアクセントで踏み込まれる。
その上に、ギターが乗った。
歪みが深い。
だが潰れていない。
ハイゲインなのに、一本一本の弦の輪郭がはっきりしている。
ミュートされた低音の刻み。
パームミュート。
ザク、ザク、とリズムを刻むたび、胸骨の奥に衝撃が伝わる。
ベースが入る。
低音が、ただの低音ではない。
コンプレッションが強くかかっているのか、音圧が均一で、太い。
ドラムと完全に噛み合っている。
リズムセクションが、床ごと会場を押し上げているようだった。
そして――
伸也の視線は、自然とギターへ向いていた。
夏海の横。
ライトに照らされたその姿。
優弥だった。
黒いストラトタイプのギター。
指板を走る左手。
滑らかだ。
無駄な動きが一切ない。
ピッキングは鋭く、それでいて正確。
オルタネイトがまったく乱れない。
速いフレーズなのに、音が粒立っている。
思わず息を呑む。
その瞬間、頭の中で何かが繋がった。
昼休みの屋上。
フェンス越しの青空。
並んで立っていた二人。
何かを話していた夏海と優弥。
そして、あの夜。
路地裏で突然現れた優弥。
点だった出来事が、一本の線になる。
――そういうことか。
思考が追いつくより先に、演奏が加速する。
ギターが一段階上のフレーズへ跳ね上がる。
ハンマリング。
プリング。
スライド。
音が流れる。
速いのに、流麗だ。
そしてサビ。
夏海の声が乗る。
鋭い。
だが、冷たいわけではない。
むしろ、どこか透明だ。
リバーブが深くかかっている。
声が空間に溶け、スモークと光の中へ広がっていく。
観客が一斉に跳ねた。
歓声が爆発する。
さっきまでのバンドの熱気とは、密度が違う。
押し寄せるというより、巻き込まれる。
前列が揺れる。
腕が上がる。
フロア全体が呼吸しているみたいに上下する。
音が、重い。
ただ大きいわけじゃない。
低音が、骨の内側で鳴っている。
胸郭の奥で共鳴する。
ギターの高音が、耳のすぐ横を切り裂く。
それでも、不思議と痛くない。
全部が計算されている。
EQ。
音量バランス。
ステージの配置。
音の壁なのに、濁らない。
音の一つ一つが、空間の中で居場所を持っている。
伸也は気付けば、口を開けたままステージを見上げていた。
瞬きすら忘れている。
優弥が前へ出る。
短いギターソロ。
チョーキング。
音が、悲鳴みたいに伸びる。
そのまま、ビブラート。
震える音が、照明の中で揺れる。
次の瞬間、ドラムがフィルを叩き込み、全員が同時に戻る。
完璧だ。
一切ズレない。
機械みたいに正確なのに、人間の熱がある。
伸也の胸の奥で、何かが震えた。
夜。
イヤホン越しに聴いていた音。
ベッドの上で、ぼんやりと流していた旋律。
それと同じバンドが、今、目の前にいる。
同じ音なのに。
まるで別物だった。
空気が震えている。
床が揺れている。
人が叫んでいる。
隣では、美羽が興奮したままステージを見上げている。
そしてその中心に――
夏海が立っている。
歌っている。
スポットライトの中で。
伸也の胸の奥で、何かがはっきりと形になりはじめていた。
言葉にはまだならない。
けれど確実に。
心臓の奥で、強く鳴り始めていた。




