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第1章 2話


 足がもつれる。


 距離は思ったより遠い。


 風が強い。


「待て!」


 声が裏返る。


 少女は、振り返らない。


 フェンスの向こう、屋上の縁に立ったまま、空を見ている。


 まるで景色の一部みたいに。


 もう一歩、足が前に出た。


 その瞬間、俺は腕を掴んでいた。


 細い。


 驚くほど軽い。


 勢いのまま、こちら側に引き寄せる。


 少女の体が揺れる。


 バランスを崩しかけて、俺の胸にぶつかった。


 数秒。


 風の音だけが鳴っている。


「……何してんだよ」


 荒い呼吸のまま、そう言う。


 少女はゆっくりと俺を見上げた。


 初めて、顔がはっきり見える。


 整っているのに、感情が薄い。


 泣いているわけでもない。


 怒ってもいない。


 ただ、静かだ。


「別に」


 小さく、そう言った。


「落ちようと思っただけ」


 あまりにも普通の口調で。


 冗談みたいに。


 心臓が一拍、遅れる。


「……なんで」


「なんとなく」


 視線が、また空に戻る。


「生きてる理由もないし」


 風が吹く。


 髪が揺れる。


 あの夢の少女と、完全に重なる。


 あのときは、何もできなかった。


 伸ばした手は、届かなかった。


 でも今は違う。


 俺は、掴んでいる。


 細い手首を。


 確かに。


 俺は、少女の手首を離した。


「……落ちないから」


 感情の起伏がない声。


 それでも、さっきまで確かに縁に立っていた。


「何してたんだよ」


「空、見てた」


「そこで?」


「近いほうが、よく見えるでしょ」


 冗談なのか、本気なのか分からない。


 風が吹く。


 髪が揺れる。


 その横顔が、夢の中の少女と重なる。


「君もサボり?」


「……まあ」


「奇遇だね」


 少女はフェンスから離れ、俺の隣に立つ。


 同じ方向を向いて、空を見上げる。


 距離は近いのに、どこか遠い。


「どうして止めたの?」


「どうしてって……」


 そんなの決まっている。


 でも言葉にすると、軽くなりそうで。


「普通、止めるだろ」


「普通、か」


 小さく笑う。


 その笑みは、少しだけ寂しい。


 沈黙。


 春の風が、やけに冷たい。


「わたしは、生きていてはいけないから」


 あまりにも静かな声。


 冗談の響きはない。


 胸の奥が、ひりつく。


「……なんで」


 それ以上、続けられない。


 少女は俺を見る。


 試すみたいな視線。


 数秒。


 そして。


「冗談」


 少女は、ふっと笑った。


 さっきまでの静けさが嘘みたいに。


「本当に落ちるわけないじゃん」


 安心していいのか、分からない。


 さっきの声は、本当に冗談だったのか。


 チャイムが鳴る。


「あ、戻らなきゃ」


 少女は一歩、近づく。


 近い。


 逃げ場がないくらい。


「今日は話を聞いてくれてありがとう」


「別に、俺は——」


「あなた、優しいね」


 唐突に言う。


 視線がまっすぐすぎて、逸らせない。


「でもね」


 少しだけ、首を傾げる。


「優しい人って、いちばん壊れやすいよ」


 ぞくりとする。


 冗談のトーンじゃない。


「わたしは——」


 そこで初めて、少しだけ間を置く。


「亜咲夏海」


 静かな名乗り。


「あなたは?」


「……皆藤伸也」


 言った瞬間。


 不意に、胸ぐらを掴まれる。


 引き寄せられる。


 そして。


 唇に、柔らかい感触。


 一瞬じゃない。


 ほんの、わずかに長い。


 離れたとき、息が混ざる。


「……な」


 言葉にならない。


 亜咲夏海と名乗った少女は、笑っている。


 でもその目は、少しだけ空っぽだ。


「これで、共犯ね」


「は?」


「わたしが本当に飛んでたら、あなた止めたでしょ」


 くす、と笑う。


「だからお礼」


 意味が分からない。


 なのに、心臓だけがうるさい。


「またね、伸也」


 名前を呼ぶ。


 軽い足取りで階段へ向かう。


 振り返らない。


 屋上に残るのは、風と、熱の残った唇。


 あれは冗談だったのか。


 本気だったのか。


 分からない。


 ただ一つだけ確かなのは、


 俺はもう、あの少女から目を離せないということだった。

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