第3章 4話
ライブハウスの外階段は、思っていたよりずっと狭かった。
コンクリート打ちっぱなしの壁に、無造作に貼られたフライヤー。剥がれかけたテープの端がひらひら揺れている。前に並ぶ人の背中がやけに近くて、知らない匂いが混ざる。
下の通りの車の音は、もうほとんど聞こえない。
代わりに、建物の奥から低い振動が伝わってくる。
ドン、……ドン、……と不規則な重低音。
音、というより圧力だった。
「なんか緊張するね」
美羽の声は、さっきカフェで話していたときより一段小さい。
伸也は曖昧にうなずく。喉が少し乾いていることに気づく。
黒い扉の前に立つと、振動はさらに濃くなった。ドアノブに触れただけで、金属がわずかに震えているのが分かる。
受付の簡易テーブル。スタッフは慣れた手つきでチケットを受け取る。
「ドリンク代、600円お願いします」
その一言で、現実に引き戻される。
「え、別なんだ」
美羽が小さく目を丸くする。
伸也は財布を出すが、小銭がうまく見つからない。五百円玉はない。十円玉ばかりがやけに目につく。後ろに人が並んでいる気配が背中に刺さる。
焦りで指先がもつれる。
コインが一枚、テーブルから転がり落ちる。
カラン、と乾いた音。
「すみません」
拾いながら、美羽がまた小さく頭を下げる。
ようやく支払いが済み、代わりに小さな紙切れが手のひらに置かれる。
ドリンクチケット。
薄くて頼りない紙なのに、やけに存在感がある。
それを握りしめたまま、重い扉を押した。
途端に、空気が変わる。
暗い。
赤と青の照明が混ざり合い、天井の低さが圧迫感を生む。わずかに湿った空気。機材の熱と、人の体温がこもっている。
アルコールの匂いと、スピーカーの焦げたような匂い。
客は多いが、ぎゅうぎゅうではない。ステージ前に固まり、後方や壁際にはぽつぽつと空間がある。知らない者同士が、微妙な距離を保ちながら同じ方向を見ている。
「端いこ」
美羽に袖を引かれ、壁際へ滑り込む。
ステージは近い。ただ一段高いだけ。黒い床、無骨なアンプ、ドラムセットのシンバルが鈍く光る。
そこに立っているのは――
さっきロビーで美羽と笑いながら話していた人たちだった。
ペットボトルを回し飲みして、「今日人多いね」なんて普通に会話していた。どこにでもいそうな大学生みたいな顔。
それなのに。
照明が一度、すっと落ちる。
会場が静まり、ドラムのスティックが打ち鳴らす。
カツ、カツ、カツ、カツ――
四つ数えた瞬間。
ギターが一閃。
空気が裂けた。
爆音。
鼓膜が押し込まれる。思わず肩が跳ねる。
ドラムが腹を撃つ。ベースが足元から這い上がり、靴底を震わせる。ギターは鋭く歪んでいるのに、中心に一本、ぶれない芯が通っている。
音が前から来るのではない。
四方から包む。
壁を押し、天井を震わせ、床を伝って膝にぶつかる。
観客が一斉に跳ねる。
さっきまで静かだった人たちが、同じタイミングで拳を上げる。サビで声が重なる。知らない歌なのに、みんな知っているみたいに揃う。
そしてステージの上。
まるで別人だった。
目が違う。
さっきまで柔らかく笑っていたボーカルの目が、鋭く客席を射抜く。背筋が伸び、肩の動き一つに無駄がない。
空気を支配している。
ギターを鳴らすたびに、視線が吸い寄せられる。ドラムの一打で、全員の体が同時に反応する。
「……すげぇ」
伸也の口から、かすれた声が漏れる。
自分の声が聞こえない。
それでも、確かに言った。
うまい。
それは素人の伸也にも分かる。
リズムが揃っている。音はぶつからないのに厚い。それぞれが前に出ながら、全体として一つの塊になっている。
ギターソロで歓声が上がる。ドラムがさらに煽り、ベースがうねる。
楽しい。
頭で考える前に、体が反応する。足先が小さくリズムを刻む。胸が高鳴る。
ここはもう、さっきまでの通路や受付とは別世界だ。
人は、こんなふうに変わるのか。
音が、人を変えるのか。
いや。
音楽という場所が、人を別の生き物にするのか。
胸が熱い。
鼓動が、ドラムと重なる。
それでも。
伸也の意識の奥底には、別の名前が沈んでいた。
Neon。
さっき聞いた、その二文字。
今目の前で鳴っているこの音でさえ、これほど衝撃的なのに。
もし、その先があるなら。
もし、これを超える何かが待っているなら。
想像した瞬間、指先がわずかに震えた。
興奮なのか、不安なのか分からない。
ただ確かなのは――
頭の中から、Neonの存在が離れないということだった。
目の前の爆音の中でさえ。
その名前だけが、静かに、重く、居座っている。




