第3章 1話
あの日から、数日の時が流れた。
事件は思いのほか早く収束へ向かっているらしい。犯人は抵抗することなく聴取に応じ、周囲の騒ぎも少しずつ沈静化していた。
病院の廊下からも、あの張りつめた空気は消えている。
変わらないのは、消毒液の匂いと規則正しい電子音だけだ。
けれど、美羽の表情は確実に変わっていた。
窓際のベッドに腰かけ、午後の光を浴びながらこちらを見るその目は、あの日よりもずっと澄んでいる。
「お兄ちゃん」
柔らかい声でそう呼ばれるたび、胸の奥がじわりと痛む。
「ごめんな、美羽」
何度も飲み込んできた言葉を、ようやく口にする。
「俺、全然気づいてやれなかった」
美羽は少し驚いた顔をして、それから困ったように笑った。
「いいんだよ。お兄ちゃんが悪いわけじゃないもん」
即答だった。
その迷いのなさが、逆に苦しかった。
「わたしの退院ももう決まったし。来週には出られるって」
「……そっか」
思わず安堵の息がこぼれる。
「ちゃんと前に進めそうだよ。まだちょっと怖いけどね」
正直な言葉だった。無理に強がっていない分、信じられる。
伸也は小さく頷いた。
病室に静かな時間が落ちる。遠くでカートの車輪が鳴った。
ふと、美羽がこちらをじっと見つめる。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「ん?」
「最近さ、よく音楽聴いてるみたいだし」
思わず視線が揺れる。
確かに、ここ数日イヤホンを外している時間のほうが短い。理由は自分でもよくわからない。
ただ、何か音が流れていないと落ち着かないだけだ。
「……バレてたか」
「うん。お見舞い来るときも、いっつも片耳イヤホンだもん」
少しだけいたずらっぽく笑う。
「それでね、友達からバンドのライブやるからって誘われてたんだけど……」
そこで言葉が途切れる。
「1人で行くの、ちょっと怖くて断っちゃったの。でも、やっぱり行きたいなって思って」
伸也は黙って続きを待つ。
「一緒に行ってくれない?」
意外なお願いだった。
ライブなんて、いつ以来だろう。高校の文化祭以来かもしれない。
「いつ?」
「来月の5日」
来月の5日。
頭の中で日付が形を持つ。ゴールデンウィークの真ん中だ。夏海が“忙しい”と言っていた時期でもある。
だが、今はそれよりも目の前の妹のほうが大事だった。
「いいよ」
自分でも驚くほどあっさり答えていた。
「行こう」
一瞬きょとんとしたあと、美羽の顔がぱっと明るくなる。
「ほんとに? 無理してない?」
「してない」
少し笑ってみせる。
「たまには、そういうのも悪くないだろ」
美羽は何度も頷きながら、ベッドのシーツをぎゅっと握った。
「ありがとう、お兄ちゃん」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
守れなかった過去は消えない。
けれど、これから先を一緒に歩くことはできる。
窓の外では、春の風がやわらかく木々を揺らしていた。
イヤホンの中で流れている曲が、ふと終わる。
次の曲が始まるまでの、ほんのわずかな無音。
その静けさの中で、伸也は思う。
今度こそ、ちゃんと隣にいよう、と。




