第2章 17話
伸也は動かない。
呼吸はある。
胸がゆっくり上下している。
だが意識は戻らない。
優弥はしゃがみ込む。
伸也の顔を少しだけ覗き込む。
血の滲んだ頬。
乱れた呼吸。
数秒、様子を見る。
「……まぁ、気絶だな」
小さく呟く。
それから伸也の腕を自分の肩に回した。
ぐっと体を引き寄せる。
「……そこで伸びてるやつは俺が家まで送るよ」
軽く担ぎ直す。
背中に体重が乗る。
「家、近いんだろ?」
夏海が小さく頷く。
まだ少し顔色が悪い。
優弥はそのまま、迷いなく伸也を背負った。
思ったより軽い。
少しだけ視線を落とす。
「……結果、見えてただろ」
前を向いたまま言う。
足は止めない。
夏海は少し黙る。
街灯の下で影が揺れる。
「まぁ」
優弥が続ける。
「だからこのことを俺に匂わせたんだな」
図星だった。
夏海の視線が下に落ちる。
靴先を見つめる。
「……ごめんね、優弥」
小さな声。
夜に溶けるような謝罪。
優弥は肩越しにちらりと見る。
「いや、別にいいけどさ」
淡々とした声。
怒っているわけでもない。
気にしている様子もない。
少し間。
「危ないとこに首突っ込むんなら」
足音が夜道に重なる。
コツ、コツ、と規則的に響く。
「今日みたいに、事前に声かけてくれ」
優弥は前を向いたまま言う。
「それなら俺はいい」
また少しだけ間があって、
「……うん」
夏海が答える。
その声はさっきより少しだけ軽い。
風が吹く。
コンビニ袋がかすかに揺れる。
遠くで車の音。
しばらく無言で歩く。
住宅街の夜は静かだ。
さっきまでここで殴り合いがあったとは思えない。
やがて優弥が思い出したように言う。
「夏海、そういえばな」
「ん?」
夏海が顔を上げる。
「さっき連絡受けた」
歩幅は変わらない。
背中の伸也も揺れない。
慣れた歩き方。
「来月五日。空けとけってさ」
夏海が一瞬、目を丸くする。
「……九条さん?」
少し困ったような声。
「ああ」
優弥は短く返す。
「ほんと急なのよね、あの人」
夏海が小さくため息をつく。
困ったような、
でもどこか慣れているような反応。
優弥は口の端をわずかに上げる。
「デートか?」
「はいはい、空けておきますー」
投げやりな返事。
だが声にはさっきまでの緊張がない。
少しだけ、いつもの調子。
背中で伸也の寝息が揺れる。
規則的な呼吸。
完全に気を失っている。
三人の影が、街灯に長く伸びる。
さっきまでの怒号も、
殴り合いの衝撃も、
血の匂いも、
まるで最初からなかったかのように
夜は静かだった。
ただ、
誰かが何かを終わらせた夜だけが、
確かにそこに残っていた。




