第2章 16話
男は地面に膝をついたまま、動けない。
肩が上下する。
荒い呼吸だけが夜に響く。
肺が焼けるように痛い。
腕に力が入らない。
指先が震える。
優弥は何も構えず、ただ見下ろしていた。
息も乱れていない。
街灯の光の中で、影だけが長く伸びている。
「……終わりか?」
男が吐き捨てる。
声は掠れている。
強がり。
だが立てない。
優弥は静かに言う。
「さっきのあいつ」
少しだけ視線を伸也に向ける。
地面に倒れたまま、荒く息をしている。
それでも、意識はまだ落ちていない。
「お前に何度殴られても、倒れなかったな」
男の呼吸が一瞬止まる。
「その違いが分かるか?」
沈黙。
夜風が通り抜ける。
遠くで車が走る音。
答えない。
いや、答えられない。
優弥は続ける。
「お前は強い」
事実だけを置く。
感情は乗せない。
ただの評価。
「だが、空っぽだ」
男の目が揺れる。
胸の奥を、何かが掠める。
「勝てないんじゃない」
優弥が一歩、近づく。
足音は小さい。
だが、逃げ場がなくなる距離。
「勝つ前に諦めてる」
喉が鳴る。
脳裏に浮かぶ。
リング。
白いライト。
観客のざわめき。
レフェリーの声。
カウント。
――立てるはずだった。
足は動いた。
筋肉も残っていた。
だが、心が動かなかった。
どこかで思っていた。
“ここまででいい”
“もう十分だ”
倒れたまま天井を見ていた。
十のカウント。
歓声。
負けた実感より先に、
妙な安心感があった。
終わった、と。
「……違う」
口から出た否定は、弱い。
優弥の声は変わらない。
「さっきのあいつは違った」
伸也を示す。
「勝てなくても」
少し間を置く。
「潰れても」
もう一度。
「立とうとしてた」
沈黙。
その言葉が、ゆっくり落ちていく。
「お前にはそれがない」
男の拳が震える。
怒りではない。
悔しさでもない。
ただ、
胸の奥の空白を
そのまま指で触れられたような感覚。
優弥はそれ以上責めない。
責める必要もない。
ただ言う。
「まだ終わってない」
男が顔を上げる。
街灯の光が目に入る。
「逃げるなら、また同じだ」
夜風が吹く。
アスファルトの匂い。
血の匂い。
静かな住宅街。
「終わらせたいなら、自分で行け」
短く。
「警察へ」
命令じゃない。
選択。
優弥は男を見たまま言う。
「今日で終わらせろ」
それだけ言うと、
背を向ける。
もう男を見ない。
コンビニ袋を拾う。
かさ、と音が鳴る。
数秒の沈黙。
遠くでサイレンの音が微かに響く。
男はゆっくりと立ち上がる。
膝が震える。
体が重い。
握りかけた拳を、
そっと開く。
指がわずかに痙攣する。
視線の先は、暗い路地。
逃げ道。
だが、
その隣にある明るい通り。
街灯が続く道。
男はそちらを見る。
一歩。
足が重い。
また一歩。
優弥は振り返らない。
ただ小さく息を吐いた。
夜は、静かだった。




