第2章 15話
男はゆっくりと構えた。
左足を半歩引く。
顎を引き、拳を頬の横へ。
肩の力は抜けている。
だが重心は前。
いつでも踏み込める位置。
迷いのないフォーム。
「……誰だお前」
優弥はレジ袋を足元に置いた。
コンビニのロゴが、かすかに揺れる。
「ただの通りすがりだ」
視線だけで測る。
重心。
肩の角度。
足の運び。
呼吸のリズム。
「ボクシングだろ」
男の眉がわずかに動く。
ほんの一瞬。
だが確かに反応した。
「見ていてわかる」
静かな声。
感情はない。
ただ事実を並べるような言い方。
「だが――それじゃ俺は捕らえられない」
踏み込む。
男の左が伸びる。
速い。
一直線。
迷いのないジャブ。
だが優弥は半歩だけ外す。
ほんの数センチ。
拳が頬を掠める。
同時に、短い打撃。
腹。
深くは打たない。
触れるような衝撃。
だが男の息が揺れる。
「っ……」
すぐにバックステップ。
距離を保つ。
綺麗だ。
無駄がない。
訓練された動き。
男の目が鋭くなる。
軽い相手ではない。
一瞬で理解する。
連打。
ワン・ツー。
右ストレート。
踏み込みが速い。
優弥は腕で流す。
肘を使い、軌道を逸らす。
だが三発目が肩に入る。
鈍い音。
布越しに衝撃が伝わる。
「……」
痛みはある。
筋肉がわずかに軋む。
だが目は変わらない。
男の踏み込みが鋭くなる。
呼吸が少しだけ荒い。
焦り。
勝てる相手ではないと、本能が告げている。
それでも前に出る。
止まれば終わると分かっている。
右。
優弥は踏み込む。
懐。
拳が伸びきる前。
肩口へ肘。
鈍い衝突。
男の体勢が崩れる。
だが男は倒れない。
反射的にフック。
横から振り抜く。
優弥の頬を打つ。
乾いた音。
夜に響く。
血が滲む。
唇の端。
赤い線。
一瞬、静止。
「……なるほど」
優弥が小さく言う。
指で血を拭う。
「悪くない」
男の目が揺れる。
褒められるとは思っていなかった顔。
理解できない表情。
「だが」
優弥が一歩、踏み込む。
その踏み込みが読めない。
軌道がない。
型がない。
ボクシングでも、空手でもない。
ただ自然に距離を詰める動き。
左。
脇腹。
空気が抜ける。
右。
顎の下。
頭が跳ね上がる。
衝撃が遅れて伝わる。
男の膝が落ちる。
立て直そうとする。
本能で構える。
拳を上げる。
だが、
視界が揺れる。
地面がわずかに傾く。
優弥は追わない。
倒しに行かない。
ただ距離を保つ。
男が体勢を戻すのを待つ。
一発だけ。
真正面。
迷いのない拳。
短い軌道。
深く沈む打撃。
男の身体が地面に沈む。
膝が落ちる。
手がアスファルトを叩く。
息が荒い。
立とうとする。
腕が震える。
上がらない。
優弥が見下ろす。
街灯の光が背中に落ちる。
「技術はある」
静かな声。
「だが――」
そこで言葉を止める。
まだ言わない。
男の目が、初めて揺れた。
勝てないと理解した目。
夜風が吹く。
コンビニ袋がかすかに揺れる。
伸也の荒い呼吸。
遠くで車の音。
優弥はゆっくり息を吐いた。
「立てるか?」
問いではない。
確認。
男は答えない。
ただ、拳を握ろうとして震えた。




