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第1章 1話


 コンコン、と軽いノックの音がする前に、部屋のドアが勢いよく開いた。


「起きてるー? 学校遅れるよー!」


 明るい声が飛び込んでくる。


 俺は天井を見たまま答えた。


「もう起きてる」


 ドアの向こうで一瞬、沈黙。


「……は?」


 顔だけ向けると、制服姿の妹が目を丸くして立っていた。まだ袖が少し大きく見える、出来たてみたいなブレザー。


「え、怖。兄ちゃんが目覚ましより先に起きてるとか、今日雪降る?」


「四月だぞ」


「知ってるよ。だから怖いの」


 そう言いながら、妹はずかずかと部屋に入ってくる。ベッド脇に立って、じっと俺の顔を覗き込んだ。


「……なんかあった?」


「別に」


 嘘ではない。説明できるほどのこともない。


 ただ、夢を見ただけだ。


 妹は少しだけ眉を寄せたあと、すぐにいつもの調子に戻る。


「ま、いっか! 今日からわたしも高校生なんだから、兄ちゃんもしゃんとしなよ? あたしと一緒に登校できるのも、最後の一年なんだし」


「そうだな……」


「ほらほら!さっさと着替えて!」


 軽口を叩き合いながら、制服に袖を通す。


 窓の外は、もうすっかり朝の色だ。


 あの夢の湿った匂いは、もうどこにもない。


 なのに胸の奥に、まだ何かが引っかかっていた。


 家を出ると、四月の空気は思ったよりも軽かった。


 新しい制服の布地がまだ硬い。


 妹――皆藤美羽は、やけに機嫌よく、俺より半歩前を歩いている。


「ねえ兄ちゃん」


「なに」


「高校生楽しい?」


「いや?」


「即答だし。それ今日から新入学の妹に言うセリフー?」


 美羽はくすっと笑う。


「彼女とかいないの?」


「予定もなければ、現在進行形でもない。」


「過去形でもいいよ? 今まで付き合ったことある?」


「ない」


「えー」


 心底残念そうな声を出す。


「お前は」


 聞き返すと、美羽は少し肩をすくめた。


「ないよ。興味ないし」


「告白とかされてるだろ」


「……まぁ、ちょっとは」


 “ちょっと”で済まないことは知っている。


 皆藤美羽。俺の二つ下の妹。


 昔から出来が良すぎた。


 足は速いし、テストも上位。人当たりもいい。顔も整っている。


 家族としては誇らしいが、兄としては少し複雑だ。


 運動会では毎年アンカー。文化祭では実行委員。中学では少なくとも三回は告白されていた。


 俺と同じ遺伝子とは思えない。


「断るのも大変なんだよ?」


 美羽がふと、そんなことを言う。


「なんで」


「だってさ。ちゃんと話したことない人とかもいるし。急に“ずっと見てました”とか言われても困るじゃん」


 言いながら、美羽は笑っている。


 でもその笑いは、少しだけ硬い。


「怖いこととか、ないのか」


 何気なく聞いたつもりだった。


 美羽は一瞬、足を止める。


「……ないよ?」


 すぐに歩き出す。


「兄ちゃん過保護すぎ。あたし平気だって」


 その声はいつも通り明るい。


 でも、ほんの少しだけ、間があった。


 校門が見える。


 人の波が一気に増える。


「じゃ、クラス違うし。帰りは一緒ね」


「おう」


 美羽は人混みの中へ消えていく。


 その背中を見送りながら、なぜか胸の奥がざわついた。


 理由は分からない。


 ただ、何かが引っかかる感覚がした。


 教室のざわめきは、妙に遠かった。


 担任の声も、自己紹介の笑いも、どこか膜を一枚隔てたみたいにくぐもって聞こえる。


 さっきの美羽の“間”が、頭から離れない。


 ――ないよ?


 あの一瞬。


 たぶん、気のせいだ。


 あいつは昔から強い。俺よりずっと。


 それでも。


 胸の奥に残った違和感だけが、消えない。


 気づけば、俺は席を立っていた。


 どこに行くかも決めずに廊下へ出る。


 階段を上る。


 人の気配が薄れていく。


 屋上の扉の前で、少しだけ迷った。


 立入禁止の札は色褪せている。


 押すと、あっさり開いた。


 春の風が一気に吹き込む。


 肺の奥まで、冷たい。


 空が広い。


 さっきまでの教室より、ずっと呼吸がしやすい。


 フェンスが、微かに軋む。


 ――また、あの夢だ。


 思い出そうとすると、決まって曖昧になる。


 水の音。湿った匂い。風。


 河原。


 少女の後ろ姿。


 伸ばした手は、届かなかった。


 顔だけが、どうしても思い出せない。


 近づこうとすると、霧みたいに崩れていく。


「……なんなんだよ」


 呟きが風に溶ける。


 そのとき。


 視界の端に、白いものが揺れた。


 フェンスの向こう側。


 風に煽られた長い髪。


 ブレザーの裾が翻る。


 屋上の端に、立っている。


 距離はある。


 でも、その立ち方が妙に不安定に見えた。


 一歩、踏み出せば。


 そんな位置。


 心臓が、嫌な音を立てる。


 ――やめろ。


 声にならない。


 風が強くなる。


 その横顔が、ほんの少しだけこちらを向く。


 見えないはずの顔。


 なのに、胸の奥が締め付けられる。


 あの夢と、同じだ。


 河原に立っていた少女。


 伸ばした手が届かなかった、あの後ろ姿。


 違うはずなのに、重なる。


 気づいたときには、俺は走っていた。

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