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第2章 12話

夜の空気は、思っていたよりも冷たかった。


駅前のトイレの鏡の前で、夏海は自分の髪を指先で整えている。


黒。


つい数日前まで光を含んでいた色は、今は落ち着いた艶だけを残している。


「どう?」


振り向いたその顔に、妙な高揚が浮かんでいた。


伸也は一瞬、言葉を失う。


似ている、のではない。


――似せている。


意図的に。


「……大丈夫そうだ」


それしか言えなかった。


夏海は小さく笑う。


「なんかさ、文化祭の準備みたいだね」


その軽さに、伸也は眉をひそめる。


「分かってるよね、これ」


「分かってるよ」


即答だった。


けれど声色は、どこか弾んでいる。


駅前の灯りが、二人の影を長く伸ばす。


数時間前。


ファミレスの窓際で、夏海は身を乗り出していた。


「美羽ちゃんは、ずっとつけられてたんだよね」


確認するように言う。


伸也はゆっくり頷いた。


「数ヶ月。事故の日は、かなり近かったらしい」


「じゃあ、まだ終わってない可能性あるよね」


その言葉は、想像以上に冷静だった。


怨恨かもしれない。


顔見知りかもしれない。


理由は分からない。


でも、“狙われていた”事実だけは消えない。


「退院したら、また帰ることになるんだよ」


夏海はストローをくるくる回す。


「だったらさ」


顔を上げる。


「わたしが歩けばいいじゃん」


あまりにも自然な口調だった。


伸也はすぐに否定する。


「危ないだろ」


「だから、伸也が近くにいるんでしょ?」


悪びれもなく笑う。


「相手は美羽ちゃんを探してる。なら、似せればいい」


はっきりと言った。


「本当にまだいるなら、動くはずだよ」


その目は、まっすぐだった。


怖くないわけじゃない。


それでも引かない。


「わたしさ」


少しだけ声を落とす。


「美羽ちゃんのあの顔、もう見たくないんだよね」


その言葉に、伸也は何も返せなかった。


そして今。


夜の改札を抜け、住宅街へと足を向ける。


夏海が一歩前に出る。


黒い髪が揺れる。


肩のライン、歩幅、背中の角度。


意識的に、美羽に近づけている。


心臓が少し速くなる。


「なんかさ」


夏海が振り返らずに言う。


「こういうの、嫌いじゃないかも」


「は?」


「だって、ちゃんと戦ってる感じするじゃん」


小さく笑う声。


伸也は呆れながらも、胸の奥がざわつく。


これは遊びじゃない。


相手は、本当に美羽を狙った誰かだ。


そう思うほどに、足取りは重くなる。


けれど夏海は違う。


夜の中へ踏み出していくその姿は、どこか楽しそうですらある。


危ういほどに。


その横顔に浮かぶ高揚を見た瞬間、伸也は気づく。


――夏海は、怖いのに前に出ている。


守られる側ではなく、並ぶ側に立とうとしている。


夜は静かだった。


静かすぎるほどに。


美羽を狙った誰かが、まだどこかにいるかもしれないという事実だけが、二人の背中を押していた。


その静寂の中で、影だけがゆっくりと伸びていった。

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